退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「審査することの曖昧さと難しさあるいはすでにわが国は『破綻』していること」について

2018-02-19 02:18:16 | Weblog
晴れ。今日も風は冷たく寒い。

小谷野敦「芥川賞の偏差値」を読む。

映画のアカデミー賞同様その時々の「事情」による受賞も少なくなく。
いずれ「賞」というものはそういうものだということを確認する。

著者の評価は別にするとしても
それぞれの受賞者の「最高の作品」が受賞作でないのは確かだろう。

スポーツの記録のように「基準」に曖昧さがなければこんなことにはならず。
あらためて「審査することの難しさ、複雑さ」を思う次第。

ただし少なくとも「選評」において
「どこを評価しどこを評価しなかったか」は明らかにしないと。

「説明責任」はこんな場面でも問われるわけで。

マル激を観る。

今回は安倍政権の「働き方改革」とやらのインチキについて。

電通の高橋まつりさんの自殺などであらためて「過労死」の問題が浮かび上がり。
一般の人々は本気で「ワーク・ライフ・バランス」の改良を求めたものの。

「グローバリズム」と戦う「財界」は「賃金の低下」を是非とも実現したくて。
「裁量労働制」を持ち込みもはや「労働の再生産=明日働ける健康」さえ考慮しない模様。

現在の「労働基準法」の制限を超える残業をさせることが「合法」になる仕組み。
それもほぼすべての仕事において。

もはや「正社員と非正規雇用の差」など問題ではない。
誰もが「低賃金長時間労働という19世紀の扱い」を受けることになるのだから。

若者たちにはとりわけこの種の問題に敏感であってもらいたいもの。
「安定志向」が実は「最大の罠」だったりするので。

それ以上に問題なのは「暮らし方」にする考え方。
「仕事しかない人生の貧しさ」を思い出したいもの。

「貨幣の多寡」に左右されない「楽しい暮らし」をいかに実現するか。
おそらく重要なのは「好ましい人」という「資本」だということを忘れずに。

NNNドキュメント「あたいはやっちょらん 大崎事件 再審制度は誰のもの?」を少しだけ見る。

ヨーロッパでは何十年も前に廃止された検察による「抗告」という制度のため
監獄暮らしを経たのち数十年もの間「再審請求」に関わらざるを得なかった女性について。

感想はただひと言。
「自らの無謬性を維持したいがためだけの検察の無法ぶりは許せん!」。

こんなものが「法の番人」だとしたら敢えて「アウトロー」になりたいくらい。
「すべての証拠」は開示されずそれが数十年を経て明らかになる酷さよ。

「ちんけなプライド」と「デタラメな捜査」によって
ひとりの人の人生が台無しにされる事実が現在もある。

つまり。

財界であろうと検察であろうと「国民を守る気」などさらさらない。
わが国はすでに「破綻」して久しいことを知ろう。
コメント
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