退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「すでに遠くなった過去と現在あるいは無理筋の美学」について

2018-02-13 02:17:15 | Weblog
『晴れ。また夜にやや冷える。

吉田文和「グリーン・エコノミー」(’11)を読む。

3.11から7年になろうとする現在。
当時の「脱原発」の勢いが消えたのはチェルノブイリのその後に同じ。

経産省の「エネルギー・ミックス」という「出来レース」があった上に
今ではTVで石坂浩二がその片棒を担いでいる始末。

そもそも「アンダー・コントロール」と言った首相を問い詰めない野党とは何なのか。
「凍土壁」という「まやかし」の現状も追わずじまいで。

いわゆる「モリカケ問題」などどうでもよく。
「肝心なところ」をピンポイントで突けない「無能力さ」よ。

国土を失わせ国民から「故郷」と「生活」を奪うようなエネルギー政策があっていいわけがなく。
いまだに新たな危険は続いていることも忘れて。

残念ながらわれわれに「学習能力」はないのだと思うのみ。
こんな国を維持するためにかつても今も「犠牲」になる人々がいるのが何とも。

昨日のNNNドキュメント「見えない壁 福島・被災者と避難者」では
「賠償金の有無」を巡る住民たちの「争い」もあり。

もっともここでは「好ましい調停者」がいてどうにか「対立」は収まった模様。

それにしても。

これほど「古典的」な「対立の構図」が残り続けるのは
「貨幣の多寡」にこだわりすぎるからだろう。

「貧しくとも楽しく暮らせる」という「事実」を忘れすぎているような。
そのために必要な「資源」を是非とも確保しておきたいもの。

繰り返すが一番重要な「資源」は結局「人」。
「好ましい未来」のための「土壌改良」が望まれる次第。

「合理的あるいは長期的な視野」を持てない者は「貧しい」。
スマホ片手にうつむくのが「基本」となるような「生活」をいったい誰が予想したのか。

「さまざまな知恵」が集積されるはずだったネットが
「事実」も見据えない輩たちの「バカバカしさ」に覆われることになったのも同様。

おとなしく「滅びること」がそれらの存在のせめてもの「美学」であってほしいと思いつつ
いたずらに「跳梁跋扈」するのがそうした人々であることもあらためて。』でまた寝る。
コメント
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