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ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ストローブ=ユイレ

2006年12月14日 | 映画


映画少年Yが、ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」
(先日、アマゾンで買ってくれと頼まれていた)を取
りに来た。
この本は、ブレッソンが映画について感じたことを、
その都度メモしたのではないか、と思われるような、
正に覚書で、ブレッソン映画の真髄がよく分かる本。
しかし、残念ながら絶版で、今回も結局古本でしか購
入できなかった。

そして、先日観てきたストローブ=ユイレのことを話
すと、Yも行って来たというではないか。

「で、どうだった?」(私)
「あれが...映画ですか」(Y)
「なに観たの?」(私)
「「労働者たち、農民たち」です」(Y)
「どういう映画だった?」(私)
「普通の山のどこかで、人が出てきて、延々と会話す
るというものでした」(Y)
「その会話も、詩の朗読みたいな?」(私)
「そうそう」(Y)
「基本的にはこちらが観た「あの彼らの出会い」と同
じだね」(私)
「しゃべり方は棒読みに近いし、物語性はないし、そ
んな状態が一時間以上続くんですよ」(Y)
「こちらが観たのは、五章に分かれて、一章十五分ほ
どだからその分辛さはないかもね」(私)
「いやー、参りました。ガルレの後だから余計に感じ
たかもしれないですが」(Y)
「ちょっと連荘で観るのはどうかな、大体ガルレの後
にストローブ=ユイレなんて人いないよ」(私)
「すいません、貧乏性なもので、ついつい東京に行く
と詰め込みたくなっちゃうんですよ」(Y)
「ある種の強迫観念みたいなものかもよ」(私)
「重々承知之介」(Y)

「じゃあ結局、ストローブ=ユイレはYとしては駄目
か?」(私)
「いやっ、そうとも言えないんです」(Y)
「だって、辛かったんだろう?」(私)
「そうなんですが、そればっかりでは...」(Y)
「これが映画か?と疑問を持ちつつ不思議な魅力を感
じてしまう僕、ってところか?」(私)
「そんなところです」(Y)
「会話の内容は分からないが、独特なリズムが、ちょ
っと強調された鳥の鳴き声川のせせらぎと同調し、い
つしか映画の魔力に引っ張り込まれる僕、ってところ
か?」(私)
「そんなところです」(Y)
「その魔力で寝ちゃったわけね」(私)
「まあ、それは...」(Y)

ストローブ=ユイレ、なかなかすんなり結論できない、
不思議な映画を撮る監督であることだけは現時点で分
かった、が、お互いまだまだですな。

補足
最近、旦那の方のダニエル.ユイレが死去。
つまり、結果的に遺作を観たことになる。
これも何かの縁だろうか。
な、わけないか。
コメント (2)

東京物語5(ストローブ=ユイレ)

2006年12月12日 | 映画


二時十五分前に「アテネフランセ」に入る。
年季の入った建物だ。
典型的な学校の雰囲気を漂わせている。
映画館とというか映写室は、四階にあり、他の教室く
らいの大きさで、収容数も百二三十といったところか。
こじんまりしていて、むしろ見やすいかもしれない。
但し、スクリーンは、空間の広さに比例して小さい。
そして、二時をちょっと過ぎたころ映画は始まった。
ストローブ=ユイレの新作「あの彼らの出会い」。

映画は、何も映ってない画面のベートーヴェン「弦楽
四重奏」から始まる。
そこに登場する農民のような男女が二人。
海を見下ろすところで二人の会話が、殆ど固定カメラ
で延々と続く。
会話というより、お互いに詩の朗読をしているような、
感情の交流は一切起きない演技というものが存在しな
い空間。
どうもギリシャ神話がベースらしい。
会話の内容はよく分からない。
十分ほど過ぎたところ、恐れていた眠気が襲ってきた。
今までいろんな映画を見てきたが、こんな映画は初め
てだ。
舞台だったら、ありそうな設定だが、なんでもない風
景のところに、普通の格好をした人間が出て、延々詩
の朗読、のような世界。
物語性は当然のことなく、なんら劇的な仕掛けもない。
一体これは映画か。
眠くならないわけがない。
もうこのまま寝ても良いかと、半ば覚悟して音(鳥の
さえずりとかせせらぎの音が強調されて、ずっと聞こ
える、これが唯一のBGM)に身を任せる。

ところが不思議なことに、五分も過ぎたところで眠気
がなくなった。
相変わらず画面は二人だけ。
全体は五章に分かれていて、それぞれ二人が登場して、
基本的には同じような会話が繰り返される。
場所は全部違うのだが、共通しているのは、普通の(地
元にも同じような場所がある)山の中にありそうな、
特別何があるわけではないといった代替可能な、ある
意味普遍的な場所(これが重要なのかもしれない)。
そんなことを見ながら思っていると、この退屈な映画
に、なにか不思議な魅力を感じ始めていた、ような気
がする。
そして最後に、初めて田舎の村の風景(人の気配がす
る)が画面に映り、その上方の山に垂直にカメラが移
動して唐突に終わる。
そして何もない画面にベートーヴェン「弦楽四重奏」
がかかってFin。
終わった瞬間、観てた人のなんとも形容しがたい余韻
が、これまた不思議な雰囲気を形成。
ため息すら出てこない。
面白いとも言えないが、つまらないとも言えない、こ
れが正直な感想だ。

こんな映画を見に来る人間は、どんな人間だろうと自
分のことは差し置いて見てみると、見覚えのある人が。
蓮実さんだ。
なるほどね。
しかし、一応有名人である蓮実さん(元東大の学長で
もあるのだから)だが、会ったと他人に言って、「お
おー」と、こちらの期待する反応がえられるような類
の人ではない。
残念。
尤も、有名人に会ったなどという話そのものが、「だか
ら何?」というものではあるのだが。

そして、そんな初の映画を観て次に向かったのは五反
田。
焼き鳥の店「たかはし」に行く予定になっているのだ。
ここの主人とはひょんなことから知り合いで、一度行っ
てみたいと思っていたのだ。
ここで他のメンバーと合流して、「ギタロー軍鶏」(林
義太郎さんが育てているのでギタロー軍鶏)を満喫。
高橋シェフとも久しぶりに会いいろんな話をして、帰
りはメンバーの車で中央高速でご帰還。
なんだか、ぎっしりの一日であった。

終わり。
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東京物語4

2006年12月11日 | Weblog
四谷を降りるとまず目にするのは、イグナチオ教会。
四谷のランドマークとも言えるものだ。
しかし、かつての教会の雰囲気はなくなってしまった。
モダンな建物に建て替えられ、今ではよく見ないと教
会と気付かないくらいの、存在感のないものになって
しまった。
教会なんて、古いほど味が出て良くなるものと思うの
だが。
今の建物は円筒形で、どうしてもガスタンクを連想し
てしまう。
以前の、情緒ある佇まいの教会に対する郷愁がまるっ
きりないとは言えないが、現イグナチオ教会は全然良
いとは思えない。

そんな教会を通り過ぎて、上智のキャンパスに入った。
ここのカフェテラスでお茶でもしようと思ったのだ。
途中、学生が古本市のようなものを開いていたのでち
ょっとと覗いて見た。
大学柄、井上ひさしなどの本があったりしたが、特別
興味を引くようなものはなかったのでスルー。
以前は一階だったカフェテラスは地下に移動していた。
とりあえず行ってみたが、なんだか暗く、しかも今ひ
とつ垢抜けない。
ソフィアのイメージからすると、もう少し何とかなら
ないかと正直思った。
結局ここもスルー。
構内をぐるっとして、四ッ谷駅に戻った。

快速のつもりが特別快速で、水道橋で降りようと思っ
たのが結局御茶ノ水になるという、ささやかな間違い
があり、御茶ノ水に下車。
お茶するため用の本でも買おうと思い、駅近くの本屋
でしばし物色。
目に付いたカフカの「変身」でも買おうかと思ったが
(カフカは好きで他の長編は大体読んでいるのだが、
一番有名でしかも短いこれはどういうわけか未読)、
小説はどうも今の状態だとなかなかね、ということで
カフカの近くにあった、ロシュフーコーの「箴言集」
を買うことにした。
これだったら飛び飛びでもノープロブレムだ。

御茶ノ水というところも、その割りに良く知らない。
「アテネフランセ」も初めてだし、一応位置を確認
し、まだ時間もあるので周辺をぶらぶらする。
駿河台というのはこの周辺のことか。
道理で坂が多いわけだ、などと改めて認識。
そして「大末建設」「鴻池組」などのややマイナー
な会社がこんなとこにあったのね、という発見もし、
日大や明治などの校舎を見物し、「PRONT」でお
茶をする。
最後の時間調整だ。
ロシュフーコーをチラッと読む。
そのひねくれた視線に同じ体質を感じる。
うーむ、困ったものだ。

しつこくつづく。
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東京物語3

2006年12月10日 | 食べ物


寒い電車に乗ってきたせいか、トイレに行きたくなっ
た。
新宿駅構内のトイレの位置は、前と変わらずところに
あったのですぐに判ったが、以前と比べるとちょっと
小奇麗になっているような気がする。
入ってみると、やはり大分良くなっていた。
手洗いが、入り口のところではなく、中央に、所謂アイ
ランドキッチンスタイルのようにでんと構えていた。
公衆トイレも日々進化しているのね。

そして山手線に乗り換え、原宿まで行く。
ここで、運賃の精算。
トータル三千六百円ほどの鈍行運賃。
田舎の駅員とは大分違って、非常に丁寧な駅員さんに
支払いを済ませ、改札を出た。
時間は、十一時をちょっと過ぎたくらい。
まだ、それほど人も多くない。
明治通りに向かって歩き出す。
そこの細い道を入ったところにある「瑞穂」という豆
大福の店に行くためだ。
ここの豆大福と京都の「ふたば」の豆大福が、現時点
では「お気に入り豆大福」であるのだ。
午前中だと、店も混んでなくすんなり買える。
予定通り購入。

そして、その足で表参道に出て、表参道を青山通りに
向かって歩き、途中「表参道ヒルズ」などを横目で見、
ちょうどスマップの店が開店とか何とかで、若い女の
子がずらっと並んでる横を通過して、その先を左に入
った。
昼食に蕎麦粉のクレープ(ガレット)を食べようと思
ったのだ。
「ル.ブルターニュ」という店。
ここは、フランス.ブルターニュ地方の郷土食である、
蕎麦粉のガレットを出してくれる専門店だ。
ハムやチーズを具にした蕎麦粉のガレットは、昼食に
はぴったりの食事だ。
ものすごく美味しいという類のものではないが、個人
的には結構好きで、たまに食べたくなる。
本場スタイルで食べられる店というのは、そうはない。
東京でも数少ないから、わざわざ今回のように来ない
と食べられないのだ。

ここで、ガレットとサラダと飲み物のセットを頼む。
飲み物は、本場スタイルを気取って「シードル」にし
た。
というか、実際合うと思う。
ビールよりはシードル。
これも最近の「お気に入り」。
やや、量的に物足りなかったが、久しぶりのガレット
を満喫した。
そして、自分以外百パーセント女性客の店を出たのは
十二時ごろ。
店内にいたのは、ほんの三十分ほどだった。
もう少しゆっくりすればとも思ったが、なんとなくそ
ういう雰囲気ではなかったのだ。
しかし、ストローブ=ユイレが始まるのは二時から。
まだ、二時間もある。
場所は「アテネフランセ」だから、御茶ノ水或いは水
道橋に、一時半ごろつけば充分余裕。
どこかで、お茶でもするかと思い、とりあえず地下鉄
で四谷に出ることにした。

つづく。
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東京物語2

2006年12月09日 | Weblog
いよいよ近づいてきたお爺さんに、ついに耐えられな
くなった女性は、席を譲ろうと立ち上がった。
折角素早い動きで勝ち取った席ではあるが、この状況
ではしょうがない、お気の毒ではあるが。
ところが、これで終われば問題なかったのだが、そう
はならなかった。
なんと、お爺さんは席に座ろうとしないのだ。
所謂、微妙な年齢ではない。
誰が見ても、よろよろのお爺さんだ。
そのお爺さんが「いや、いいです」と断ったのだ。
こういう場合、立ち上がった人の立場はどうなる。
振り上げた拳の置き場がなくなる状況というやつか、
ちょっと違うか。
まあいい、兎に角席は一つ空いた状態になった。

すると、そのお爺さんの後を付いてきた(の割には
ちょっと距離があったが)奥さんと思しきお婆さん
が、それではとその席に座った。
見た目では、お爺さんの方が大分よぼよぼなのだが、
何はともあれ年寄りのお婆さんが座ったから、この
周辺に漂っていた微妙な空気は、なんとか収まりが
ついた。
これがもし、茶髪のあんちゃんが座ったりしたら、
それを目撃した人間全員がその日気分悪く過ごさな
ければならなかったところだった。
しかし、まだこれで終わりとはならなかった。

お婆さんの座った右隣の、多分二十三四の男性が(お
爺さんが来たときにも立ち上がろうとした)一連の
事件を目撃して、更に気を利かせ、お爺さんのため
に席を明けましょうかとお婆さんに話しかけた。
因みに、問題のお爺さんは車内の端のほうまで行って
しまっていた(最終的にはそこの優先席に座っていた
のだが)。
しかし、お婆さんはその提案を断った。
この若者の好意も、結局結実しなかった。
これで、この事件は決着した。

お爺さんがすんなり座ってさえいれば、これだけ波紋
を広げることもなかったろうに、と車窓を眺めながら
思った。
しかし、同時に、この夫婦の関係もちょっとおかしい
かな、と考え始めている自分がいた。
まず、足が悪そうなのにぴったり寄り添うという距離
ではない、そのお婆さんのお爺さんとの距離の空け方。
そして、若者の提案をあっさり断る、その突っ放し加
減。
偏屈な旦那と、長年この偏屈ぶりにほとほと疲れた奥
さん、という倦怠を通り越した冷めたきった関係が浮
かび上がってくる。
などと、膨らませた想像を乗せた電車は、何事もなく
いつものように新宿駅のホームに滑り込んだ。

つづく、
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東京物語

2006年12月08日 | Weblog
嘗て、東京に行くというのは、一年の内で一番楽しみ
な大イベントであった。
大体が、春休みのことで、親戚の家に行くわけだが、
列車に揺られること六七時間、今だったら東南アジア
迄いけるそんな長時間の移動も、東京に行くという楽
しみの前では、なんでもなかった。
その行程さえその一部なのだ。
途中、スイッチバック(坂を上るためのジグザグ走行)
などというものもこなし、素朴な思いを乗せた列車は、
新宿に向かって走る。
そして、八王子が見える頃になると、東京が近づいて
きたことがその風景の違いで分かってくる。
道の広さと車の多さ、これが当時の田舎とは根本的に
違っていたのだ。
興奮は徐々に高まっていく。
立川を過ぎ、吉祥寺辺りになるとそれは頂点を迎える。

と、そんな時代ががあったなあ、などと思いながら、各
駅停車の電車に乗り東京に向かった。
時間的に余裕があるので、乗ってみようという気にな
ったのだ。
途中、軒先に吊られている干し柿などという、日本の
原風景ベスト10にでも上げられそうな風景を楽しみ
つつ、何か面白いものは無いかと車窓を眺め続ける。
ホームのベンチに座布団がおいてある駅など、思わぬ
発見もあったが、全体的にはさしたる収穫はなかった。
それよりも、電車があまりに寒い。
気温0度近くの外気、その冷気が、窓を通して次から
次と容赦なく押し寄せるのだ。
トンネルに入ると、ここは冷蔵庫か、と思うほどそれ
は顕著となる。
特急との作りの違いが否応なしに解ってしまった。
伊達に、高い料金を取ってる訳ではではないのね。
そんな電車の違いを再認識し、三時間ほどで立川に到
着。
ここで、中央線快速に乗り換える。
目指すは原宿。

その快速での出来事。
こちらは中央付近に立って外を眺めている。
右隣には、中年の女性が本を読みながら立っている。
ある駅で、私のやや左前の席が空いた。
論理的には、多分自分が座る席ではあるが、私は座る
気がない。
往々にして、年寄りが乗り込んでくるものだから。
ここで事件(と言うほどでのことではなく多分日常的
に繰り返される光景)が起こった。
右隣の女性が、私の後ろをすり抜けて素早くその席に
座ったのだ。
す、素早い。
こういう時には感心するほど人は素早い。
しかし、この後が問題だった。
案の定、年寄りが乗り込んできた。
どうやら夫婦で、旦那の方は杖までついて大分足元も
おぼつかない。
八十前後か。
しかも折角座った女性の方に近づいてくる。
ちょっとしたサスペンスだ。
女性は狸寝入りを決め込むか。
どんどん近づく。
その前に誰か席を譲ってあげて!そんな女性の心の叫
びが聞こえてきそうだ。

つづく。
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映画少年Y2

2006年12月07日 | 映画


ゴダールに感心した二人の話題は、いつしかフランス映
画に対するイメージについてになった。

「それにしても相変わらず、フランス映画というとス
テレオタイプの見方をしますよね」(Y)
「退屈、暗い、難解か」(私)
「そうそう」(Y)
「代表はトリュフォー=退屈、ブレッソン=暗い、ゴダ
ール=難解でいいんじゃないか、まあトリュフォーは
ロメールでも可だけど」(私)
「確かに、この三人だけ見ればそう言われてもしょう
がないところはありますよね」(Y)
「でもそこに面白さがあるんだけどね」(私)
「問題は、娯楽性ですね」(Y)
「実際、今のフランス映画なんて結構ハリウッドより
になってるんだけどね」(私)
「フランス映画の原型イメージの正統的な後継者は、
レオス.カラックスくらいじゃないですか」(Y)
「それゆえに、映画が作れないと」(私)

  リュック.ベッソンなんて完全にハリウッド化し
  てるし、他のジャン.ジュネやパトリス.ルコン
  トなんかは、お洒落な感じの、適度に軽い映画を
  作ってるしで、従来のネガティヴイメージのフラ
  ンス映画というものは、実際はそれ程多くは無い。

「そう言えば、今度、暗い退屈難解の代表映画フィリ
ップ.ガルレ観にいってきますよ」(Y)
「えっ、本当。でもガルレ駄目なんだよなあ」(私)
「どうしてですか?」(Y)
「眠くなるんだよね、あのリズムが」(私)
「それが良いんじゃないですか」(Y)
「あと駄目なのが、ベルイマン、タルコフスキー」(私)
「全部、僕の好きな監督じゃないですか」(Y)
「分かるだろう、共通のリズム」(私)
「そういう意味では一貫性があるといえばある、と言
えなくも無いですか」(Y)
「そんな回りくどい言い方しなくて、体質に合わない
で良いんだよ」(私)
「じゃあ、体質の違いということで」(Y)
「それより、今、ストローブ=ユイレ特集やってるの
知ってる?」(私)
「どこで、ですか」(Y)
「アテネフランセ、今度観に行こうと思ってるんだけ
ど」(私)
「あっ、いいですね」(Y)
「ところで、観たことあるの?」(私)
「実は、無いんですよまだ」(Y)
「どういうのか訊こうと思ったのに」(私)
  
  前から興味があり一度は観たいと思っていたのだ
  が、なんせ上映するところが超局所的なのでその
  機会がなかったのだ。
  しかし、今回どうやらその希望が叶えられそうな
  のだ。

「じゃあ、方やガルレ、方やストローブ=ユイレでお
楽しみってことだね」(私)
「はい、両者ハッピーでめでたしめでたしと」(Y)
コメント

映画少年Y

2006年12月05日 | 映画


映画少年Y(と言ってもおっさん年齢だが、雰囲気が)
との会話。

「「武士の一分」観てきちゃいましたよ」(Y)
「えっ、木村拓哉の?」(私)
「ええ」(Y)
「よくそんなの観にいくね、でどうだったの?」(私)
「ひどいです、特に木村拓哉が」(Y)
「そんなの判りきってるじゃない」(したり顔の私)
「でも、前回の田中泯は良かったんですよ」(Y)
  元々、局部的な一点を拡大高評価する傾向にあ
  るのだYは。
「それだけだろ」(私)
「まあ、そうなんですけど」(Y)
「山田洋次は山田洋次ということだよ」(またまたし
たり顔の私)
「「薄桜記」なんか行く前に観たから、余計に落差が」
(Y)
「そりゃあ、そうだろう」(私)
  「薄桜記」は、森一生監督、市川雷蔵主演の時代
  劇の傑作。
「市川雷蔵と木村拓哉じゃ、市川雷蔵に失礼というも
のでした」(Y)
「それに、森一生に対してもね」(私)

その後話題は日本映画からフランス映画に。
「ゴダールの「映画史」も観てきましたよ」(Y)
  兎に角観る回数が多く、しかも幅広く網羅してい
  る、ただ観方が少々特殊なところが難点。
「凄いね」(私)
「さすがに、疲れました」(Y)
「どうして?」(私)
「五時間近くですもの」(Y)
「ええっ!そんなに長いの」(私)
  ゴダールは結構好きだが、引用と現代詩のような
  言葉との入れ子細工的最近の作品は、一時間半く
  らいが限度だ。
「じゃあ、例によって引用が一杯?」(私)
「映画史だけあって、実際の映画からの引用が多いん
ですよ」(Y)
「それを観るだけでも楽しめそうじゃない」(私)
「でも、限度ってものが」(Y)
  さすがのYにも限界があったか。
「それにしても、よくそんなに長いの作れるねゴダー
ルも」(私)
「確かに、それだけでも凄いですよね」(Y)
「その創作意欲は、尊敬に値するね」(私)

作品の内容より、その長さだけに感心して圧倒された
二人であった。
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藤森照信

2006年12月04日 | 芸術


地元出身の建築家(本来は建築史が専門だが、建築家
としても優れたものを作るので)には、もう一人忘れ
てはならない人がいた。
藤森照信。
嘗て、赤瀬川源平さんなんかと「路上観察」などをや
ってた仲間だ。
その彼の作品が茅野市にある「神長官守矢史料館」。
公的建物で良いと思うのは、ここと昨日の伊東豊雄の
建物の二つだ。

「神長官守矢史料館」は、彼の特徴でもある自然素材
(土藁など)をふんだんに使った、どこか原初的(縄
文的)な雰囲気を感じさせる建物だ。
「場の文脈」からすれば、正にそこから生まれた建物
と言える。
しかし、決して古臭いというものではなく、原初性か
ら普遍性にすんなり横滑りして、そこにやや洗練され
た現代性が加わった感じでもある(一体何を言いたい
のか)。
要するに、なかなか良いのである。

伊東豊雄が「風を感じる建物」とすれば、藤森照信は、
「土を感じる建物」なのだ。
共通するのは、自然の風景に上手く溶け込むというこ
と。
藤森照信に関しては、溶け込むというより土から生え
たという表現の方がぴったりかもしれない。
いずれにしろ、こういう優れた建築家がいて、その作
品(建物)があることを、地元の人間はもう少し関心
を向けるべきだ。
いまだかつて、これらのことをネガティヴな話題(変
なものとかそういう評判)以外で聞いた事が無いし、
殆ど話題にもならない。

所詮田舎の文化レベルなんてこんなものだ。
と、この言葉も今まで何十回と呟いてきたが、いい加
減それにも飽きてきた。
というより単なる愚痴だし、そんなことばかり言って
ると、こちらにもネガティブが伝播するので、もうそ
ういうことは言わないでおこう、と思っている今日こ
の頃なのである。
コメント

伊東豊雄

2006年12月03日 | 芸術


地元出身の有名建築家。
その世界に興味のある人なら絶対知っているはずだが、
そうでない人には今ひとつ知名度はないかもしれない(
安藤忠雄ほどの知名度はないという意味で)。
地元でさえ、いまだに知らない人のほうが多いくらい
だから、それもしょうがない。

地元にある彼の建物は一つ。
下諏訪(湖畔沿い)にある博物館だ。
正式名称は「諏訪湖博物館・赤彦記念館」。
なんだか長ったらしい名前だ。
何ゆえ赤彦がついてるか不思議に思うかもしれないが、
島木赤彦(アララギ派)も地元出身だからなのだ。
因みに、諏訪湖を詠んだ次の句が地元では有名。

 「湖の氷はとけてなほさむし
  三日月の影波にうつろふ」

で博物館なのだが、地元関連で「場の文脈」に沿った、
珍しい建物であると言える。
唐突に出現する公共施設、たとえばギリシャ神殿風と
かヨーロッパのどこそこ風、或いは、動物を模したと
かアニメから採った幼児的なものとは、一線を画して
いる。
つまり、トホホな建物ではないのだ。
実際は、コンクリートの打ちっぱなしという、モダンな
つくりなのだが、曲線主体のラインが、周りの風景と
不思議に調和している。
よくある、コンクリートの打ちっぱなしの厭味な主張
は感じない。

そんな建築家「伊東豊雄」だが、その名前を知ったの
はほんの十数年前の話だ。
つまり、この建物を作った時、初めて知ったのだ、こ
の私も。
当時、なんだか変わった建物が出来つつあり、完成し
た時には「なかなか良いなあ」と思ったことを覚えて
いる。
他の、公共施設「箱物」は、ご多分に漏れずセンスの
悪いものばっかりだったので、新鮮な印象を受けた。
そして、伊東豊雄という建築家でしかも地元出身だと
いうことを知り、地元出身でこんなセンスがある人も
いたんだと感心したものだ。
但し、他の人間もそうだったかというと、必ずしもそ
うではない。
「変な建物を作ってまた無駄遣いか」というのを実際
聞いたし、他の建物と全く同列に捉えられていたこと
は事実だった。
まあ、今でも状況はそう変わってないが。

結局、公共施設というものは、全員の同意を得ること
など不可能で、多数に支持を得たものは、それはそれ
でしょぼく、中途半端なものであるというのは、普遍
的な事実(と思う)。
この建物も、パブリックアートとしての価値は、充分
あると思うのだが、なかなかその点で支持を得るのは
難しい。

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アオサギ

2006年12月02日 | 生き物 自然


川周辺で、この時期でもみかける鳥は、コサギとかア
オサギなどの鷺の仲間が多い。
一口に鷺と言っても、結構種類があるみたいで、なか
なか知らないと区別がつかない。
普通の鷺をチュウサギというのも、最近知ったことだ
し、ダイサギというのも存在しているということも。
単純に大中小と名前が付けられているのだが、なんだ
か生ビールみたいで、ちょっと微笑ましい。
そんな大中小に属さない鷺がアオサギ。
漢字だと青鷺(漢字にすると青髭に似ている、全然関
係ない話だが)。
字のごとく青みがかった(ブルーグレー)鷺だ。
図体もけっこうでかい。
普通は、遠めで見るだけだから判らないが、至近距離
だと一瞬「ドードー」か、と見間違う(嘘です)。

先日(と言っても結構前)、家の池の周辺で何やら不
穏な気配がした。
鯉が暴れてるような水を跳ねる音もする。
そっと覗いてみると、いやにでかい鳥が池の縁に直立
している。
ここで一瞬「ドードー」かと思ったのだ(嘘です)。
印象としては、小さな子供。
しかも、すでに戦利品の鯉を口にくわえているではな
いか。
池は結構深く、鯉も大きいので本来なら鳥に襲われる
ことは無いのだが、運悪く(鷺にとっては運良く)こ
の五月に新入りが入っていたのだ。
池にとっては十何年かぶりの新人というか新鯉。
最初は十センチも無かったのが、二十センチ以上に育っ
て、他の鯉に食われることも無いなと思っっていた矢
先の出来事だった。

やられたのは、三匹の新人のうちの一番小さい「紅白」。
新種の、尾鰭が長いロングフィンカープ(とかそんな種
類だったような)という、ちょっと見金魚のような錦鯉
だ。
よくしたもので、狙いやすいのを選ぶんだ、鷺も。
しかし、そんなことも言ってられない。
これで味をしめて、通われるのも困る。
一応脅かしておかないと、と思い何かを投げようと周
辺を探した。
こういう時のため用の適当なものが、そうあるもので
はない。
やっと見つけたのは油絵の具のチューブ。
二階から、狙いを付けて投げた。
すぐさま、現場に急行。
しかしすでに、そこには星の姿は無かった。

まあ「紅白」も、きっと胃の中で、この半年の幸せな
時間を反芻していることだろう。
南無阿弥陀仏。





コメント

郊外

2006年12月01日 | Weblog
「ミュンヘン」は、ミュンヘンオリンピックの時の、テロ
リストに殺されたイスラエル選手団の、一種の復讐譚
である。
そこでスピルバーグが、テロリストが新たなテロリス
トを生む暴力の連鎖、或いは国家と個人の狭間で苦悩
する人間などを描きたいことは分かるが、他の映画で
も感じることだが、どうもそれを主張する部分になる
と、一気に冗長となる傾向がある。
ちょっと真面目過ぎるというか、ストレート過ぎるの
だ。
その判りやすさが良い、とも言えそうだが、どうもこ
ちらの想像力を刺激することは無い。
個人的には、娯楽に徹底すれば良いのに、と思う。

で、本日のテーマとなっている「郊外」。
レンタル屋のあるところがまさしく郊外で、高速のイ
ンターチェンジの周辺でもある。
高速を降りてまず目にする田舎の風景。
どこも同じだと感じてる人は多いと思う。
ファミリーレストラン、パチンコや、大型電気店、ホ
ームセンターがある風景。
このあまりに画一化した無個性の風景は、ちょくちょ
く批判の対象にもなっているが、一向に改善される兆
しはない。
無秩序に、唯目立とうとする建物はセンスの悪さだけ
が際立つ。
こんな風景を見て、美しいと思う人はいるのだろうか。

実際、使う方からすると便利ではある。
そんなマーケティングの結果だから、同じようなもの
が出来るのもある意味必然ではある。
では何が問題なのか。
それらはコンビニと同じで、日本全国どこでも同じ。
またそれが売りでもある。
つまり、それぞれの田舎の文化とは全く関係ないもの
が突如出現という、そのことが問題なのだ。
場の文脈に無関係な異物、これを異文化と捉えるなら
ば、文化の活性化につながると言いたいところだが、
実際は単なる消費文化の成れの果てとなるだけなのだ。
まあ、田舎の文化と言ってもそう大したものでもない
が、自然は間違いなく都会よりは豊かだ。

採算の取れなくなったそれらの店はさっさと撤退する。
すると、そこには廃墟となった建物が残される。
荒廃した風景。
変にでかい分、その荒廃さも目立つ。
全国、至るところに荒廃した風景が増殖中なのではな
いか。
これがそのまま精神の荒廃に直結していると、短絡的
に考えるることは出来ないが、間違っても「心を潤す」
ものではないことは確かだ。
「美しい日本」なんて笑っちゃうような現象が日本全
国どこでも見られることを、一体どう考えてるんだろ
うね、あの人は。
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