ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

川床マージャン

2006年08月31日 | Weblog
流石、中国。
夏の涼を求めて、正確には、マージャンをするより快
適な環境を求めて、川に麻雀卓を置いて、そこでマー
ジャンにいそしむ。
そんな、雀荘の変形版が人気らしい。
飽くまでも、娯楽のための川床ということだ。

これが日本だと、川床料理と、風流を楽しむものとな
る。
どちらも商売という点では同じだが、その洗練されな
さと同時に、逞しさ、やはり商売では中国には勝てな
い、と思う瞬間だ。
今や、日本でもだいぶえげつない商売が一般化しつつ
あるが(市場原理主義者からすれば勝者の)、中国と
比べるとまだまだかわいいのではないか。
こういう点が、中国脅威論などを生む一つの要素にも
なっているのだろう。

しかし、川床一つとっても、背景の文化に違いがある
のはまちがいない。
たとえば、自然に対する美意識など。
川床で「鮎の背ごし」を食べるのと、直接足を水に付
けわいわいマージャンをするのでは、相当違う、と思
う。
日本人で、実際川床料理を味わった人間がどれほどい
るかとなると、それは、ほんの僅かだろうが、その行
為に風流を感じるというのは、かなりの人が持ってい
る感性なのではないだろうか。
自然を感じ楽しむ。

一方中国は、自然を利用する方に重きを置く。
虫でも、日本だと音色を楽しむだが、中国では闘虫(コ
オロギなどで)になってしまう。
ここでも市場原理が。
強いものが勝ち残るという。
日本は、競争とは無縁の風流。
やはり、かなわない。

と、現時点でも僅かに残る風流の感覚。
もし、日本らしさ、独自の文化を称揚するなら、この
金にもならない風流を復権させるべきではないか。
愛国心などと声高に叫ぶ前に、日本の文化の基になる
風流の感性を育てるような教育を、と思うが、そう叫
ぶ人間ほど(政治家)、美しさとは無縁な、金儲けし
か頭に無い風流とは対極の人間という現実。
誇れない政治家がいる日本など、とても誇れるもので
はないし、決してそれらは強制する類のものでもない。
自然に好きになればいい、程度のことだ。

とまあ、川床マージャン(これは個人的に勝手に命名)
から日本批判と、思わぬところに着地した本日のブログ
でした。

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雨月物語

2006年08月29日 | 映画


BSをふと見ると「雨月物語」をやっていた。
すでに十五分ほど過ぎていたが、結局最後まで見てし
まった。
見るのは二度目だったが、それなりに十分楽しめた。

所謂、娯楽作品では無い映画は、見るごとに新たな発
見がある。
年を隔てて見れば、見方そのものが変化しているので、
作品の印象そのものが、まるっきり変わることもある。
で、今回の「雨月物語」で気付いたことは次のような
こと。

BGMに笙や篳篥(ひちりき)、鼓などを使い、日本
的情緒満載である。
動きも、まるで「能」のようにゆったりしていて、幽
霊物語というより幻想譚と言った方が良いこの物語に、
実にマッチしている。
外人がイメージする、日本の「幽玄」「神秘」の壺を良
く押さえていると、かなり感じた(やや距離を置いた見
方になってしまったが)。
それと、話がこんなに教訓的だったか。
前回は、あまり感じなかった。

ショットショットでは、最初見たときと同じ場面が、
今回も印象に残った。
湖畔の場面とか、建物の柱だけ残ったものとか。
この点に関しては、自分の感性の壺は変わってないこと
を確認。
一つだけ、前回は全く気付かなかったことが。
霧の中の湖畔の場面が、タルコフスキーの「サクリファ
イス」のイメージそのものだったのだ。
そういえば「サクリファイス」も何故か「能」のBGM
を使っていた。
「雨月物語」の引用だったのか。
アメリカには何の影響も与えてないが、ヨーロッパには
影響を与えた溝口健二を、ここで改めて再確認したのだ
った。
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蝉(まとめ)

2006年08月28日 | 生き物 自然


最後の最後に、ミンミンゼミが一鳴き二鳴きして、ど
うやら今年の夏も終わりそうだ。
数は非常に少なかったが、ミンミンゼミも確認できほっ
と一息。
夏の終わりのミンミンゼミは、単独で鳴くと(集団だと
ちょっとうるさい)、その独特な余韻が、あたかも空間
を漂うようで、情緒を感じる。
そして、こんな情景が浮かんでくる。

娘(原節子)
「お父様、ミンミンゼミが」
父(笠智衆)
「ああ、そうか」

「夏も終わりですわね」

「ああ、そうか」
そして画面は、煙突のある屋根の風景をはさんで次の
場面。
それは、駅のホーム。
そこには、近所の若い男(佐田啓二或いは二本柳寛)
が、電車を待っている。
いつものように電車に乗る。
海をバックに(湘南辺り)、いつものように電車は走
る。

補足説明。
佐田啓二というのは、中井貴一の父親で、小津安二郎
と同じく蓼科に別荘を持っていて(茅葺のいい感じの別
荘)、その帰りに交通事故で亡くなった。

補補足説明。
笠智衆の別荘も蓼科にありました。
それと、小津安二郎の別荘は、「無芸荘」といって、公
開されてます。

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油絵

2006年08月27日 | 芸術


この前、ピカビアのポスターを探しているとき、昔描
いた油絵も発見。
誰かのデスマスクの石膏をモチーフにしたもので、多
分「幻想絵画」をイメージしたのではないか。
当時、油絵を描くときは、常に何か他の絵画の様式を
イメージして描いてた様な気がする。
考えてみれば、オリジナリティーの対極。

これも、本来なら石膏なので白のところを、幻想的を
演出するため緑にしている。
マグリットでもイメージしてたか、自分で描いたのに
もかかわらず、よく覚えていない。
案外、「超人ハルク」あたりの影響かもしれない。
今見ると、今ひとつ、いや今ふたつといった感がある。

他の、風景なんか描く時も、ある時はモネ風、またあ
る時はドーミエ風と、何とか風にすることがむしろ楽
しく、自分のスタイルなどというものは結局できなか
った。
真のオリジナリティーとは何か、ということを考える
と結論など出てこないので、ここは一応「オリジナリテ
ィー」というものがあるという前提で話を進めると、
つまり、具象を描いてる限りそういうものは自分から
は出てこないと感じ、抽象に向かったというわけなの
だ。

こう書くと、なんだか有名芸術家にでもなったような
気分になる。
これも、ブログの良いところというか、勘違いの陥穽
というか、快感かもしれない。
そして、絶対誰の目にも触れなかったであろうこの絵
でさえ、公開されてしまうのだから。
ちょっとした、個展気分で。
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夏メニュー

2006年08月26日 | 食べ物


先日、蓼科にある、たまに寄るヴェジタリアンカレーの
店に行った。
二十日も過ぎ、観光客も少なくなって静かだろうと思い、
しかし、念のため早めに寄った。
予想通り、まだ他に客はいなかった。
メニューを見て(見なくても内容は分かっているのだが)、
豆のカレーを注文した。
レンズ豆にニンニクを利かせたカレーで、好みの味だ。
そして、その日によってニンニクの利かせ方、コリアンダー
の料が微妙に違って、味も違うという楽しみもある。

しかし、どうも値段が違う。
普段だと、ランチセットでナンとサラダが付いて1000円。
今回は、同じような組み合わせで1900円。
殆ど倍違う。
そこで気付いた。
夏メニューか。
観光地はこれがあるからいやになる。
ある程度は予想していたのだが、二十日を過ぎれば大
丈夫だろうと勝手に思ってたのが大間違い。
甘かった。

しかし、カレーで1900円はやっぱり高い。
なんだか詐欺にあったような感じだ。
それと、いまだにこんなことを思ってる自分のせこさ
にも、ちょっと、?かな。
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クロスバンタム2

2006年08月25日 | 食べ物


残りわずかなクロスバンタムも、ハクビシンにやられ、
絶滅危惧種(家的)だったのが、とうとう絶滅種(家
的)となってしまった。
それにしてもハクビシン。
一時は、どこかの県の天然記念物だったが、人気は急
降下、いまや立派な外来種の害獣だ。
兎に角、増えている。
嫌われ具合は、ブラックバス以上かもしれない。

で、クロスバンタムは、今年を最後に幻の味と化すこ
とに決定したのだが、それに代わるモロコシは、味的
にはますます嫌いな方向に行ってしまった品種ばかり
なので、もう諦めるしかない。
品種改良されたはいいが、味的には逆行(私的に)の
皮肉。

それにしても、今のモロコシは甘すぎではないか。
果物ではないのだから、程度というものがあるだろう。
それに、甘いだけで滋味が無いのも不満だ。
後気に入らないのは、あの感触。
まるで生の粒のような、ぷちっとしたあれ。
どうも駄目だ。

甘いイコール美味しいという図式は強くなる一方。
これは味覚の劣化なのではないか。
甘さの影の個性が、どんどんなくなっているように感
じる。
同じように脂肪イコール美味しいというのもある。
霜降り偏重やマヨネーズ多用。
ラーメンの脂添加なんてのもある。
「日本人の繊細な味覚」って、幻想だったのではある
まいか。
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クロスバンタム

2006年08月24日 | 食べ物


多分、このクロスバンタムを知っている人は、日本に
も殆どいないだろう。
何かというと、モロコシ(唐黍と言ったほうがいいか)、
の品種名。

嘗て、と言っても1970年代ころまでは、モロコシ
(唐黍)と言えば一つしかなかった。
モチモロコシ(多分地方名)といって、粒が大きく、
ところどころに黒い粒が混じる、甘みはあまり無いが、
感触がもちっとして滋味がある、個人的には好きなも
のだった。
それが品種改良され、甘みが強いものへ一気に移行し
た。
その、最初に改良された品種が「クロスバンタム」だっ
たのだ。
モチモロコシの感触を残し、それに「適度」な甘みが
加わった、理想的なモロコシだった(自分としては)。

それからというもの、季節になると、畑のクロスバンタ
ムを夕飯代わりに五六本、なんてことを毎年繰り返し
ていた。
完全に夏のお楽しみだったのだが、いつしか時代はク
ロスバンタムから更に甘みの強いモロコシに。
ハニーバンタムがまず登場してその後ピーターコーン、
更になんとかなんとかに(もう後は知らない)。
今は生でも食べられるというものまで。

それで困るのは、市場からクロスバンタムの種が消え
ることなのだが、残念なことにもう十年程前からなく
なってしまった。
獲れたモロコシを種にしてその後どうにか作っていた
のだが(兄が)、不幸には不幸が重なるもので、僅か
なモロコシも、今年はハクビシン(狸の仲間)によって
全滅。
なんてこどだ。

つづく(長くなったので)。
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冷製パスタ

2006年08月22日 | 食べ物


この時期、ちょくちょくお世話になるのが冷製パスタ。
これは、確か、あの山田シェフが広めたのではなかっ
たか。
この点では、貢献度大だったというわけだ(天才とは
思わないが)。
本家は、カッペリーニ(極細麺)を使うのだが、これ
が曲者。
細いだけあって、湯で時間が短いのはいいが、その分
あっという間にのびてしまう。
今まで何度、素麺のような冷製カッペリーニを食べた
ことだろう。
やはり、細すぎ。
あそこまで細い必要は無い。
ということで、今はスパゲッティーニを使っている。

畑のトマトも(兄作無農薬)今が盛り。
バジルも、いつでも使えるように鉢植えにしてもらい
(兄作)、冷製パスタの準備は常に整っている状態。
トマトなんか、本来は皮や種、そしてあのゲル状のも
のを取り除くのだが、面倒くさいので全部使う。
少々水っぽくなったり、皮が口にあたることがあるが、
自分で食べる分には気にならない(レストランだと気
になるかもしれないが)。

これと、塩もみ胡瓜と茗荷の和えたのでもあれば、あ
とは何もいらない。
大地の恵みを十分に味わえるこの時期、人間、一番大
事なのはやっぱり食料だ、と食料自給率40パーセン
トの日本の将来を憂い、今日も日は暮れていくのであ
る。
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PICABIA

2006年08月21日 | 芸術


やはり、もう少し本家「Picabia」を知るべきかと思い、
ネット上で探してみた。
すると、適当な本が見つかった。
ユリイカのピカビア特集。
89年のものらしい。
ちゃんと芸術関係の本を専門にしてるところが、福岡
にあったのだ。
こういう時に、インターネットのありがたさを実感す
る。
もうすぐ来るかと思うが、これで少しはPicabia
のことも分かるだろう。

不思議なもので、自分でピカビアを名乗っていると、自
然とPibcabiaが身近な存在になってくる。
仕舞いには、自分はPicabiaか、といった意識
を持つまでになってしまった。
と、そこまではならないが、よくアイドルのファンが、
いつの間にか自分が恋人であるという思い(願望)を
持ち、それが本人の意識の中では事実になってしまう
という、周りにとっては非常に迷惑な話があるが、名
前だけでも唱えていると、それなりの魔力がでること
は、理解できる。
まあ、単に自己暗示の世界かもしれないが。

同じような題材を扱った、「ペルソナ」という映画が
昔あった。
ベルイマンだと思ったが、ある女優が他人ばかり演ず
るうちに、自分が分からなくなってしまい、自己崩壊
を防ぐための最終手段として失語症になる、という話
だったと思う。
好きな監督ではないのだが、心理学的なテーマが分か
りやすくよく覚えている。
自己とか言っても結構脆いものである、というこは、
まあ、確かなことであるのだろう。

話がどんどん変なところへ行ってしまいそうなので、
ここで再びPicabiaに。
昨日の、Picabiaのポスターを使ってPicabia
のオマージュを作ってみた。
ところが、印象が殆ど変わらない。
これぞ、Picabiaの魔力か。
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壁シリーズ3

2006年08月20日 | 芸術


昨日、落書きから発展した「グラフィティアート」に
ついて触れたが、本家を発見した。
このブログのタイトルにもなっているピカビア本人、「フ
ランシス ピカビア」の作品が、まさしくそれだった。

と、いまさらの感があるのだが、嘗て「ポンピドー美
術館」で購入した、ピカビアの絵のポスター(いろん
なタイプの作品があるのだが現時点でも他をあまり知
らない)を改めてみたら、これが元祖か、と感じたの
だった。
どういう作品かというと、写真のような。
これを見て、「これって芸術?」と思うかも知れない
が、こういうものもある、と知るのもまた一興かと。

それにしても、これを描いたのが、今から100年も
前か。
しばしの沈黙。
芸術の世界は難しいね。


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壁シリーズ2

2006年08月19日 | 芸術


壁はキャンヴァスだ、と思う人は世の中にもたくさん
いる。
その結果、壁は落書きされる。
中には、「グラフィティアート」などと呼ばれて認知
された人もいるが(キースヘリングやバスキア)、街
の印象がすさんでくるので、やめた方がいい。
キャンヴァスより公共を。
それに、殆どは犬のマーキングと同じだし。
マーキングより公共を。

公共と言えば、よく子供向けの絵を始めから描いてあ
る壁や、堤防などがある。
あれもどうなんだろう。
アンパンマンの絵を喜ぶ子供は多いだろうが、世の中
子供だけではない。
どうも、日本のその手のものは子供に合わせる傾向が
ある。
幼稚な印象を受けるものが多い。
あまりにアニメ的な。

そのアニメも最近は世界的に認知され、止まるところ
を知らぬ勢いだ。
これからますますアニメ的な絵が、公共の場所に登場
することになるとしたら、個人的には勘弁してほしい。
公共的なものは、もっとデザイン的に優れた、大人の
感覚のものが日本にはほしい、と常々感じている。
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壁シリーズ

2006年08月18日 | 芸術


使ってる画像の中に、自分で密かに「壁シリーズ」と
名付けているものがある。
今日のもそうだが、7.22、7.23、7.28、8.6、
8.11、8.12、8.15、の日付のものがそれだ。
7.23と7.28以外は、全てイギリスの地下鉄構内
の写真が元となっている。
その写真は知人が撮ったもので(勿論許可は取ってい
る)、あまりに壁の感じがいいのでキャンヴァス代わ
りに使っている(使いたい部分を切り取って)。

どういうわけか壁に惹かれてしまう。
それらに、なんとも言えない味わいを感じるのだ。
写真だけでもそれなりなのだが、そこに描きたく、或
いは何かを追加したくなってくる。
壁が、イマジネーションの起爆剤となるわけだ。
普通、油絵の場合、キャンヴァスに下地を塗って質感
を出したりするのだが、壁の場合はすでにそれにしか
ない質感を備えている。
しかも写真なので、同じものを使っていくつも違うも
のを作れるという利点もある。
勿論、キャンヴァスの質感とは別物である。
重厚感とかは比べ物にならないが、これにはこれの違
った魅力があると思っている。

壁というのは、風景の中にあるキャンヴァスのような
もので、そこで見る側はその切り取られた四角を(大
概)、周りとは独立した映像と捉える。
キャンヴァスに描かれたものも、所謂芸術作品(そう
じゃないものも多いが)として、周りとは関係ないも
のとして見る。
つまり、見方は同じというか、見方しだいで、街の中
のありふれたものも、芸術の相貌を帯びてくるという
こと。
これが、ボイスが提唱した「芸術の大衆化」なのであ
る(適当です)。
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FIRE WORKS

2006年08月17日 | Weblog
15日の夜には、諏訪湖の花火大会がある。
インターネットの普及とともに人気化して、年々観客
が増え、道路は大渋滞、そして路上駐車の車が重なり、
渋滞に更なる拍車がかかる。
今やお盆の風物詩。

そんな大変な状態を分かっていながら、国道をその時
間に走らなければならない状況に放り込まれた。
トホホな事情だったのだが、のろのろ運転で花火が上
がれば当然見物気分。
こんな状況で花火を見るのは初めて。
なんだか新鮮な気分。
建物と建物の間から垣間見る花火、なかなか良い。
車の中の音楽は、「チェットベイカー」。
結構マッチする。
これがもし「ヘンデル」だったりすると、あまりにベ
タで、「今日の偶然日記」の題材にはなるだろうが、
「ちょっとね」ではないだろうか。

たまたま「チェットベイカー」だったので良かったが、
まかり間違えれば、「トーキングヘッズ」の可能性も
あった。
なんせ、一度テープを入れると(CDプレーヤーなん
てものはついてない)なかなか変えないから。
殆どエンドレス状態だ。
トーキングヘッズの「リメイン イン ライト」という
初期のアルバムを聴きながらの花火、どうだったろう
か。
案外というか、結構合ったりするのでは、とも思う。
というより、花火は音楽を問わない、こんなところか
もね。
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8.15

2006年08月15日 | Weblog
朝から靖国参拝一色で少々うんざり。
終戦記念日に、一国の首相がこれみよがしに参拝する
ということは、心の問題という範疇に収まるものでは
なく、象徴的な示威行為になるという、当たり前の事
実があるのだが、これは、彼をそうさせるある力が働
いていると見るべきなのか。
心の問題ならば、毎日人知れず供養すれば良いのだか
ら。

個人的には、英霊を祀る「靖国神社」というものにあ
る種の胡散臭さを感じる。
国のために散った(散華)兵士の帰る場所、その象徴
としての靖国神社。
これも分かりやすい物語だと思う。
しかし、そこにはある種の美化、恣意がある気がする。
その中心には、知覧から出撃した特攻隊のイメージが
ある。
彼らの手記を見ると、確かに泣ける。
純粋という言葉は彼らのためにあるのか、とも思う。
そこに「靖国で会おう」という会話があっても、なん
ら不思議ではない。
しかしだ。
そこに、彼らに命令を下した、自分たちは安全な上
層部というものの存在があったことも、忘れてはいけ
ない。
それと、ある種の覚悟を持って死んでいった特攻隊の
影に、覚悟どころではない、飢えと病気で苦しみジャ
ングルをさまよいながら、悲惨な死を迎えた特攻隊の
何百倍もの一般兵がいたことも。
「靖国物語」からは、それらがごっそり抜け落ちてる
のだ。

「レイテ戦記」(これが全てとは言わないが)などを
読めば(普通の想像力さえがあれば)、現場で英霊な
どと奇麗事を言ってる余裕などあるはず無いことは、
容易に想像できる。
「呪詛」という言葉の方がぴったりくる。
勿論、日本兵の影に、日本兵を恨んでいる現地の人た
ちがいる、この事実も忘れてはいけない。

本当に風化する一方の戦争、その分美化が強まり、全
く無知そうな若手政治家が分かりやすい威勢の良いこ
とを言い、それをそのまま支持する国民。
ちょっと危険なんじゃないの、と思ったりする八月十
五日。
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ツバメ5

2006年08月14日 | 生き物 自然


相方のメスをなくしたツバメは、今でも夜になると、
駐車場のいつも止まってるところに戻ってくる。
普通子育てを終えたツバメは、河原の葭原などを集団
でねぐらにするのだが、このツバメは完全に単独行動。
なにやら、ハチ公の風情だ。
来年こそは、無事に子育てしてほしい。

蝉は相変わらず静かなままだが、トンボは活発だ。
今さっき、オニヤンマが窓ガラスに激突した。
羽がみずみずしかったから、羽化したてだと思う。
まだ、世の中の状況がつかめていないのだろう。
どうやら無事だったようなので、一安心。

ツマグロヒョウモンの姿も、今年初めて目撃したし、
確実に季節は、夏の終りに向かっている。
暑い暑いといいながら、終わるとなぜか寂しい夏。
子供のころの、楽しい夏休みが原体験となっているか
らだろうか。
これで、花火大会が終わると、静かな夜空とともに感
傷がどっと押し寄せて来る。
なんてことも、昔あったか?
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