ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ウスウス原爆タイプ

2010年10月31日 | トマソン

何度も言ってるが、物件で一番多いのは「原爆タイプ」。これは余程新しい住宅地でない限り見つかる物件だ。となると、必然的に飽きの状態に陥りやすく、普通のものではもうあまり感激もなくなる。ああ、原爆タイプか、一応記録はしておこう、とシャッターを押すという状態になりがちだ。しかし、これがなかなか奥深く侮れない。一見同じような姿の盛り蕎麦が、実は微妙に風味コシが違うように、「原爆タイプ」も微妙な部分が微妙に違い味わい深いのだ。蕎麦の基本が「盛」であるように、基本は「原爆タイプ」なのである。ということで、本日は「原爆タイプ」の盛り蕎麦をたっぷりと放出。

まずはスタンダードな「原爆タイプ」。これが一番多いタイプである。



次からが微妙なもの。クリーム色の部分が斜めになってるところがそれを主張している。左のモルタルの部分もかなり怪しい。




そして、綺麗に塗ったつもりがお天道様はお見通しの物件を二つ。




これは特に、日差しによって浮かび上がる度合いが強い。





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無用庇複合型

2010年10月30日 | トマソン


これも松本で発見したものだ(それにしても宝庫だ)。始めは、この(二階の)壁の矩形の組み合わせが現代美術していると思い撮った。確かに、これだけでも充分個性的である。実際何故こうなったかは、非常に興味ある点であるのだが、ただ、如何せん二階でアップに出来ないので、その質感が今ひとつ伝わってこないところが残念な点であった。しかし、パソコンでその画像を見てみると、大事なところを見逃していることに気付いた。庇が「無用庇」であったのだ。現代美術の方に目が行っていて気がつかなかったのだ。危ないところであった。それに更に更に、一部原爆タイプ(これも不思議)のようなものまでも見えるではないか。かなりの実力を秘めた壁であったことが、これではっきりした。これだけの複合型はもう逸品と言っても良いのではないだろうか。もう一度言うが、危ないところであった。油断は禁物。日常に潜む潜む世界の亀裂を見た思いであった(嘘です)。
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ツナのリエット

2010年10月29日 | 食べ物


先日、T君がイタリア土産で貰ったものを貰った。瓶入りの「ツナのリエット」のようなもので、パンにつけて食べるらしいのだが、実際のところそれが何なのかは誰も分からない。イタリア、イタリア語に通じてる人間は残念ながら周りにはいない。

で、その荒いペースト状のものをバゲットに乗せて食べると、これが思ったより旨く、野菜の味のほうが強いツナ風味のリエットといった感じであった。確か最初は、何か分からず魚っぽい味のするペーストだが何だろうということで、瓶に印刷された小さい文字を必死に読み取ろうとして辛うじてイタリア語のTunaらしき単語が判ったのだった。その時点で勝手に「ツナのリエット」と命名したのだ。野菜はどうやら「赤ピーマン」のようでこの味が一番強い。その他は「黒オリーブ」も使ってるように感じた。これは拝借できるとその時思った。そして早速、自分で作ることにした。

ほぐしてないツナ缶(ほぐしたのは臭みが強い)と、赤ピーマン(実際は黄ピーマン)、それに黒オリーブを用意。赤ピーマンは焼いて皮を剥き細かく切る。黒オリーブも種を取り細かく切る。まずミキサーでツナをほぐし、そこに残りの野菜を入れ、オリーブオイルを適量、塩コショウをして全部をミキサーで粉砕。味を確認すると、貰いものよりツナの味が強くこれこそ「ツナのリエット」という味になっていた。予想したより旨かった。ただ、ツナはある程度荒いほうが良さそうだ。これは次回の改善点。

今まで、ツナというとどうしても玉ねぎを入れたマヨネーズ味の普通のものしかなかったが、これでやっと、マヨネーズを使わないしかもマヨネーズ味より旨いツナのペーストに出会えた。試しにサンドイッチの具にしてみたが、断然こちらの方が旨かった。反マヨラーとしては嬉しい限りでありました。
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コラージュ箱Ⅱ

2010年10月28日 | Weblog


前回の「コラージュ箱」だが、コラージュした箱だから「コラージュ箱」と勝手に命名して書いたつもりだったのだが、既に世の中では、この「コラージュ箱」というのが確立されたものであることが検索した結果分かった。最早工芸の一手法といったものになっていたのだ。それ用のテープまでもあり、誰でもがその基本に沿って貼っつければそれなりのものが出来てしまう世界であったなのだ。まあ確かに表現方法としては新しいわけでもなく、一般に認知された手法ということになるのだろうが、個人的には、そういうものとは違うぞという意識があることは否定出来ない。

陶芸でも写真でもそうだが、誰にでも出来るものはその門戸の広さに比例して出来上がったものの数は膨大。玉石混交が常態なので、見る目を養わないと良い物の判断は難しい。結構有名なものでも、ええーっと思うものは多い。しかしこれも、元々絶対的基準などなく、殆んどは売れ筋であるかという基準が優先する世界なので、別段不思議な話でもない。これも、経済原理優先というやつである。売れ筋=良いもの、と必ずしも言えないのは、日々いろんなもので実感することである。
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コラージュ箱

2010年10月26日 | 芸術


この前セールで買ったDVDの残りの一本、オーソン・ウェルズの「オーソン・ウェルズINストレンジャー」だが、パッケージの説明書きを読んでいたら思い出してしまった。これ見たやつだと。レンタルで、同じものを借りるというのはわりに良くある事だが、買いでは初めてのことだった。しかしこれも、買った値段の180円を考えると何の後悔もない。またじっくり見るかと実に余裕である。オーソン・ウェルズだし、元々見ごたえはある。影の使い方が一番上手い監督ではないかと常々思っている。出来れば「審判」辺りが良かったが、そこまでは言うまい。

T君が、雑誌「Le Figaro」の現地版を持ってきて「これで何か作ってください」と言ったのは2ヶ月ほど前。ずっと創作意欲がわかず放置状態だったが、この前空き箱を目にしてちょっとその気になり、早速取り掛かってできたのがこれ(写真)。コラージュ箱だ。勿論箱としても使える。カフェの飾りになると、T君は喜んでいた。
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ブルーシート風化タイプ

2010年10月25日 | トマソン


久しぶりに力のある物件を発見した。何と言うか、放ったらかしたらこんな具合になっちゃいましたという風情だが、ここまでくると立派な現代美術の作品としても通用しそうだ。それに、ブルーシートも風化するとこんなことになるのか、の見本としての価値もある。人はこれを見ると、こうなるまでの年月を否応なしに感じるであろう。
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イタリア旅行.荒野のガンマン

2010年10月24日 | 映画

ゲロゲロ少年Yから借りたロッセリーニの「イタリア旅行」と、この前セールで買ったペキンパーの「荒野のガンマン」を見る。「イタリア旅行」は、ロッセリーニらしい、実写を交えた(この辺りがネオレアリスモと言われる所以か)作品だったが、夫婦関係の微妙に揺れ動く様を見事に描いた作品と言えるようにも思えるが、やはり自分の好みではなかった。リズムが合わないのか、何かがしっくりこないのだ。「ストロンボリ」のクロマグロ(多分)の漁のシーンはいま見ても凄いが。

次の「荒野のガンマン」も今ひとつであった。素朴な西部劇の要素を残した、まだペキンパーらしいというほどのスタイルは確立していないころの作品で、活劇部分よりは男女の愛の物語の方がウエイトを占めていて、どちらかというと「砂漠の流れ者」の系譜に属すると言えるかもしれない。となると、これが原点か。いずれにしろ、大して面白くはなかった。しかし、180円だから文句はない。

ということで、坂本冬美の歌う「また君ーにー」の部分が、クリムゾンの「ムーンチャイルド」そのまんまやないか、と言ったのはスノッブなM氏であったが、確かに、その通りである。
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悲惨な話

2010年10月23日 | Weblog


先日、六年ぶり位に知り合いの舞踏家から電話があった。口調は相変わらず明るく元気そうであったが、その内容は、口振りとは裏腹にかなり悲惨なものであった。

まず、離婚を正式にして、新しい彼女を作ったのはいいが結局ふられ、ちょうどその頃自身の膀胱癌が見つかり手術。手術そのものは成功したが、術後極度の躁鬱病にかかり(がん患者は陥りやすいらしい)全く働くことが出来ず、その間自殺未遂を二度ほど。最終的には生活保護を受ける。本人親兄弟とは絶縁しているだかいなかったのかのどちらか。投薬治療もあり何とか回復して働き出して生活保護からは脱却。その間、大腸ポリープが見つかったり、肺気腫になったりと病気のオンパレード。躁鬱は軽度になったが人格障害も起こす。そして現在に至る。

若い時の無理が一気に出たとしか言いようがない。食生活はむちゃくちゃだったし、タバコ酒は相当だったし、つけが回ると言うのはこういうことか。まあ、何とかある程度は回復したようだから、今のところは良いのだろうが、躁鬱は油断は禁物。呆気無く逝ったりするから。この舞踏家も、傍目からするとまさかあの人がというタイプであった。他人事のように感じる人が多いようだが、これは誰でもが可能性のある謂わば現代病である。変に励ますのもまずいし、またこっちに遊びに来るようにと言って電話を切った。まさか、躁状態だから電話をした訳ではないだろう。欝の時に、周りからこれで普通だから調度良いと言われたらしいから、本人にとっての躁状態はこんなものではないはずだ、と一安心。悲惨な内容だが、電話でついつい笑っちゃったのはこちらの性格の問題であった。
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掘り出しDVD?

2010年10月22日 | 映画


近所のスーパー(西友)に買い物にいくと、ワゴンセールで変なものを売っていた。元々食品専門なのでこんなものを売ることは嘗てなかった(と思う)。それは映画のDVDだった。でその値段だが、10本セットで1800円とあり、1本の間違いじゃないかと最初は思ったが、どうやらセット価格で間違いないようであった。で、どんな映画かというと、当然人気の無い映画というか、古い誰も知らない様な映画ばかりで、1950年代前後の西部劇やら恋愛もの中心で、フランク.キャプラは分かったが、他は殆んど知らない監督のものであった。しかし、バラ売りもしていて、その価格が一本180円と(セットの意味はないような)しょぼい映画でも許せる範囲であったので何か買おうと思った。ホラーでもいいかと一本一本監督を確認しながらチェックすると、食指が動く映画が二本見つかった。それは、サム.ペキンパーの「荒野のガンマン」と、オーソン・ウェルズの「オーソン・ウェルズINストレンジャー」という映画であった。どちらも知らない作品だったが、この監督であれば見たくなるというものである。それになんと言っても二本で360円だ。何だか掘り出し物を見つけた気分で第三のビールと共にスーパーを後にした。

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カフェ文化

2010年10月21日 | Weblog


テラスのあるカフェならテラス(開放感が魅力)に座りたい方だが、一般的日本人はあまり座りたがらないように見える。これが表参道あたりだと、別な意味での座りたがりがいるが、多くの日本人は道行く人の視線が気になるようである。パリのカフェのように、逆に通行人を観察して楽しむとか、普通に人との交流の場となるのはまだまだ難しいと思われる日本のカフェである。これはカフェ文化と喫茶店文化の違いということだろうか。

と、「クリヨードヴァン」のテラスに座って外を眺めていると思ったりする。店の雰囲気は東京で言えば「オー.バカナル」(行ったことはないが)だと思うが、果たして、こういう本場と殆んど同じ形式のカフェというものはこの先定着するだろうか。特にテラスだが、東京あたりだと、抵抗なく自然に座れる人間もそれなりに多くなったから、そんな人間が多いところであれば問題ないだろうが、田舎では、他人の視線の強さが違う。やはり難しいのではないかと、最近の「クリヨードヴァン」を見てると強く思う。それと、本格(本場)志向は受けないという傾向もまだ感じる。
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二色ハウス

2010年10月20日 | トマソン


これも松本で発見したもの。二色ハウスである。この二色ハウス、所謂ツートンカラーの家と何処が違うかというと、そのデザイン性だ。例えば、二色の境がもし直線であれば、そこにはデザイン的意図が感じられツートンカラーの家ということになる。それが二色ハウスの場合、境が曖昧で、しかも直線的ではない。取り敢えず表側は綺麗にして、出来れば全部だが、まあ、こんな所でいいかという、どこか中途半端な思いが感じられる。職人仕事ではない雑なところ、それこそが二色ハウスの真骨頂。人間が持っているある種の適当さを表したもの、それが二色ハウスと言えるのである。しかもこの写真、境の延長線上で空まで二色に分かれているという、奇跡的な瞬間を捉えていた。
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御神木

2010年10月19日 | Weblog


今日の写真も松本で発見したもの。小さな神社であるが、とにかく目を惹くのはその御神木とも言える欅の大木。その存在感と言ったら。遠目からも周辺のなにかが違うといった空気が感じられる。知られざる松本のパワースポットである。とか何とか言ってそれが広く認知されたりすると、若い娘どもがわんさか来るんだろうなと想像を巡らした。実際は、住宅地に忽然と出現する大木といった風情である。そして何が面白いかというと、その大木が境内の半分を締めてしまっている、その窮屈さだ。この詰め込み具合が凄い。コンパクトに収まった神社。勿論、大木の偉容あっての話であるが、何だか凄いものを発見してしまった気分である。
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松本 蔦の街Ⅳ

2010年10月18日 | Weblog


蔦シリーズ第四弾(取り敢えず終わり)。
今回の蔦は単独で見るとトトロの森のように見えなくもない。しかし、横の建物全体の中で見ると何故か今ひとつの印象与える(下の写真)。ところがこれが枯れて、しかも更に汚いものが横に並ぶと、ある調和を保ち奇跡的な作品に生まれ変わることがある。それが上の写真である。この汚さは尋常ではないが(ダーティービルとは別物件)、枯れた蔦、くたびれた外壁材、汚れた壁と三者が並ぶとこのような奇跡を生むのである。

今回、その汚れた壁が、綺麗に補修されていてがっかりしてしまっった。これでは単なる小奇麗な壁ではないか。何ら感動を与えない。一応以前の構造に合わせた模様になっているが、あの壁あってのあの陰影と汚れである。不気味であるとか、汚すぎとか悪評があったことは想像に難くないが、真に残念なことである。最後に一つ、同じ車が同じ位置に止まっていた。
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松本 蔦の街Ⅲ

2010年10月17日 | Weblog


蔦シリーズ第三弾。
この建物も、昨日の蔦屋(レンタル屋ではなく蔦の絡まる建屋という意味)と同じ通りに建っている。今回の物件は、蔦屋に比べるとかなり控えめだ。見る限り、かなり中途半端な印象を与える。濃厚なソースをこぼして隅にかかっちゃったよの図のようにもに見える。向かって右端の窓の部分蔦に覆われたままだし、手入れの仕方もどこか中途半端だ。しかしこの建物、よく見ると建物自体は古そうだが結構モダンだ。驚くなかれ、何と、フランク・ロイド・ライトの設計した建物であったのだ。というのは全くの嘘だが、それに近いものを感じさせる。そうやって見ると、ソースのかかった建物も、確かに一段と輝きを増す、かな?
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走る少女と蔦

2010年10月16日 | Weblog


蔦シリーズ第二弾。
これは大通りに面していて、通る度、その蔦っぷりには感心していた。アメーバが増殖して建物が食べられる図、のようにも見えるが、昨日のもそうだが、全体を綺麗に覆うような蔦よりは、このようなものの方が間違いなく想像力を刺激する。果たして、手入れをしてこういう状態を保っているのか。題して「走る少女と蔦」。
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