ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ゴールデンウィーク

2008年04月30日 | Weblog


世の中ゴールデンウィークだが、個人的にはいつもの
ような日常が待っているだけ。
しかし、そうでもない人が多いのは、これまた事実。
たとえば「更級」。
この時期、この辺りには観光客がわんさか訪れる。
一応、春の観光スポットの一つとなっている(と思う
がどうなんだ)。
となると、「信州イコール蕎麦」という図式が働く。
はっきり言って、どこの蕎麦屋も入るのだが、味にちょ
っとこだわる人は、いろんな情報手段を駆使して、「更
級」に辿り着く。
殆どの観光客は、街道沿いの、「如何にも蕎麦屋」の
蕎麦で満足するのだが、基本的に味にうるさい人は、
そういう店は端から選ばない。
だから、「更級」にもそういう観光客ではない観光客
がどっと押し寄せることになる。

そんな状況もあるので主人に、「沢山用意しないと」
と言うのだが、主人は、このところの神経痛もあり、適
当なところでとどめるつもりのようだ。
ここぞとばかりに、質より量と勝負しないところが良
いのだが、一般的に儲かるのは、ここぞとばかりにな
りふりかまわぬ商売をするところであることは、衆目
の一致するところでもある。
世の中そんなものである、とお決まりのフレーズを呟
き蕎麦湯を飲む、これも、すっかりお決まりとなって
しまった今日この頃である。

スノッブなM氏は、ブレッソンの「たぶん悪魔が」を
借りていった。
どんな観想を言うかお楽しみである。
寝なければ良いが。
短いから、ジャ.ジャンクーの「プラットホーム」のよ
うなことにはならないと思うが。
ついでに「アンティゴネ」も貸そうか、と一瞬迷ったが、
流石にストローブ=ユイレまで手を出す気にはならない
と思ったので止めた。
ロブ=グリエにも興味は示さなかったし、一体どこが
手を出す出さないの境目なのか。
全く、見えないM氏である。
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菜の花

2008年04月29日 | 食べ物


近所で、日の丸を掲げている家があって、何故だと思っ
たが、そうか祝日だ、それにしても何の祝日だったか
と考えたら、昔の「天皇誕生日」か、と思い至った。
今時珍しい日の丸旗も、その家が神主の家だったこと
で納得である。

「天皇誕生日」と言えば、個人的にも思い出深い。
ちょうど今日のように天気の良い日だった。
「吉祥寺」から「下北沢」に向かって、井の頭通りを
調子に乗って車の間をバイクで縫うように走っていた。
そして、案の定、左折車と接触して、ガードレールと
電柱の隙間に突っ込んだ。
その後の、石膏ギブスをするまでの右足の痛みは、今
だに「過去経験した痛みベストファイブ」に入ってい
るくらい。
まあ、一生忘れない日であろう。
「宮前5丁目」、交差点の名前も覚えているくらいだ
から。

そんな旧「天皇誕生日」(今は何ていうのか、みどり
の日で良かったか、何、昭和の日?)とは、一切関係
ないが、季節の「菜の花」(自家製の)があったので、
「菜の花のスパゲティ」を作ることにした。
正確には「菜の花のフェデリーニ」。
細めのやつだ。
レストランでも、この時期には「菜の花とほにゃらら
の何とか」といった感じのメニューが多く見られる(多
分)。
そんな季節物を作ってみようというわけだ。
記憶している限りでは、何か動物系との組み合わせが
多かったように思う。
例えば「海老」とかの。
しかし、今回は、「菜の花」のみでやってみることに
した。
基本的な味付けで、ニンニクとアンチョビを使い。

ポイントは、菜の花の湯で加減であろう。
と思っていたが、結果的には、ちょっと茹ですぎてし
まった。
最後に合わせるときに熱が加わるので、かなり固めで
良いようだ(今回の反省点)。
そして、最終的な味だが、アンチョビペーストを使う
のは良いが、それだけだと今ひとつ菜の花の味が引き
立たない。
多くすれば旨味は出るが、益々菜の花の個性は消える。
少なくすれば、味的にもの足らなくなる。
麺と合わせた時に調和の取れた味にしないといけない。
今回のは、単独で食べれば、ご飯のおかずにはなりそ
うだが、麺との調和が今ひとつだった。
だから、いやにオイリーでもあった。

そう考えると、味的に相性が良いのは「海老」とかに
なるのだろうか。
菜の花の風味を生かす(お浸しが一番なのは分かって
いるが)良い組み合わせ。
この辺が、これからの課題であるようだ。

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アンティゴネ

2008年04月28日 | 映画


一時はどうしたものかと思い、やや途方にくれたスト
ローブ=ユイレの、「アンティゴネ」を見終わった。
最初は、それなりの知識がないと、この手の「古典悲
劇」は解らない、と思って観て矢張りそうなのかなと
納得しかけての中断だった。
ところが、その後再び観始めたら、全くそれは杞憂で
あった。
固有名詞が聞き慣れないと、人間関係が整理されるま
でにはちょっと頭の中が混乱するというのは、何も「ア
ンティゴネ」に限ったことではない。
その点に関しては、例えば、アルトマンの映画の方が
遥かに大変であったりする。
この「アンティゴネ」に登場する人間は、全部で10
人いるかいないかというものだ。
登場人物がそれだけというのは、それはそれで相当
「普通」の映画ではないということだが。

後、この映画の特徴は、全て野外ロケであるということ。
但し、同じ全編ロケでも、「エリック.ロメール」のよ
うな映画ではない。
全てが同じ場所なのだ。
ギリシャ(その後イタリアと判明)のどこかの野外円
形劇場。
そこだけなのだ。
しかも、登場人物は身振りによる演技をするわけでは
なく、殆ど直立不動で朗読するように喋るだけ。
形式としては、舞台の朗読劇という感じではないか。
それが、廃墟のような円形劇場で延々続けられるの
だ(この状況は、眠れ、と言っているようなものだ)。
ならば、舞台と同じではないか、映画である必要がど
こにあるのかという疑問も自然に湧く。
確かに最初はそう思った。
しかも、舞台の芝居は元々好きではないので、余計に。

それが、徐々に人物の背景が判ってくると同時に、そ
れほど退屈ではなくなって来るからあら不思議。
内容は、「国家の衰亡」と「国家と個人の問題」とい
うことになるのかと思う。
抑揚の無い会話を聞けば、そこは自然と理解される。
むしろ、余計な挿話がない分、判り易いといえるかも
しれない。
ただ、問題は、余計な演技というものも無いから、感
情移入とかそういうものの入る余地は、一切無い。
「劇的」という演出も、一切無い。
そして、問題の、舞台との違いである。

その違いを考えると、やってることは同じと言えるか
もしれないが、見てる部分が違うということではない
だろうか。
舞台は、観客が好きなところを見れば良い。
しかし、映画は、監督の目を通したものを、半ば強制
的見せられるものだ。
そこに大きな違いが生じる。
変化の無い映像であっても、実は、全体の中では重要
な部分であったりする、というよりそれが全体かもし
れない。
例えば、人もいない動きの無い地面の映像がアップで
映っている場面が、ところどころ挿入される、しかも
長く。
そこに言葉がかぶせられるのだが、一体何なのか、と
思われるが、これこそが映画体験だ、と実際に思えて
くるのだ。
映画と出合った瞬間(ちょっと美化しました)。
舞台では、絶対ありえない体験だと思う。
ストローブ=ユイレの映画は、夾雑物を取り除いた、よ
り映画の本質に迫ったものであると思う。
だから、退屈であるのだが、魅力的に感じてしまうの
だ。
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味の基準

2008年04月27日 | 食べ物


地元の主婦の間で評判の店(食べ物や)というので、良
いと思った店というのは、思い出してみても皆無に近
いのではないか。
何故こういうことになるのかというと、それは基準が
違うからだ。
評価する点が違えば、結果は当然違う。
厳密に言えば、人それぞれなのだが、あるグループで
みればおおよその基準ができる。
主婦グループ、学生グループ、親父グループ、それぞ
れの傾向がある。
タクシーの運ちゃんに人気だとか、芸能人に人気だと
かいうのも、そういうことだと思う。

で、主婦の店の評価基準が何かというと、味というよ
り安さ(しょうがないとも思うが)そして店の雰囲気
だ。
基本的に味は、ファミリーレストラン程度でよい。
それよりは、店の人のサービス、態度を含めた雰囲気
、そして料理の見栄え演出だ。
兎に角、そういうものにやたらとうるさい。
自分達の態度はどうなのかということは、一切考えな
い。
そういえば、食べ物ブログをやってる人間も、同じよ
うな傾向が見られる。
店の人間の態度が悪いとか、そんなことが多くて、肝
心の味については、単なる印象を述べるだけというブ
ログが殆どだ。
味についての基準が見えないのが九割。
要するに、殆どはあてにならないのだ。
「食べ物ブログ」についてではなく、主婦の話だった。

そんな主婦代表と話したのだが、一応こちらにお勧め
の店などを聞いてくる。
しかし、個人的に気に入っている店をそのまま勧めて
も全く気に入らない可能性がある。
過去に何度か経験しているが、大体がその店の良さが
感知できないことによる結果だった。
要するに、差が分からないのだ。
だから、その相手の好みとか、どの程度知っているの
か、そしてこれが一番重要なのだが、そういう味覚セ
ンスがあるのかどうかを判断しなくてはならない(勝
手に個人的に判断するわけだが)。
そして、相手に合わせて店を選ぶことになる。
センス無さそうな人には、よく雑誌なんかに出てくる
一般的な人気店を適当に勧める(ということは、それ
らの店を個人的には気に入ってないということになる
が、その通り)。

今回の主婦は、一般的な主婦よりはいろいろ知ってそ
うでしかも自分達の傾向が、ちょっと情報に弱い(例
えばこだわりの食材を使っているとかの)ことを知っ
ている。
考えようによっては、それだけ相対化できているわけ
だから、普通レベルではないともいえる。
それで、いくつか(そうはないのだが)、注釈付きで勧
めた。
すると、その注釈があまりに多く、もっと簡単に言っ
てくれないかと要求されてしまった。
講釈ではなく、注釈なのだが、厳密に言おうと思うと、
やたらと「注」が多くなってしまうのだ。
それは、「絶対に美味い」というものが存在しないこ
とによる、無数のケースを想定しての結果なのだ。

コメント

中国留学生

2008年04月26日 | Weblog


中国人サポーターも(そんな雰囲気なので)、ワール
ドカップでもあるまい、あんなでかい国旗を振る必要
ないのに。
応援して昂揚したいのは分かるが、もう一度、ワール
ドカップではないのだから。
普通に、中国の旗と日本の旗を半々くらいでやれば、
少しは印象が良くなると思うのだが。
そうすれば「平和の祭典」(飽くまでも表面上)とい
う演出ができたのに、と思う。
こういうところが、国際情勢を読めないというか、俺
達は俺達だという中華思想のあらわれなのか(実際、
「腫れ物的」立場だから、他の国も強く言えないとい
う事情もあるが)。
それとも、単に発展途上ということなのか。
いずれにしろ、デモの風景と見間違うような不思議な
光景は、長野の人の記憶に深く刻まれることだろう。
興味の無い人にも、野次馬的好奇心を刺激し、思わぬ
娯楽をもたらしたし、それなりに意味はあったのでは
ないだろうか(とは、思ってないが)。

今回、日本から各地の中国人留学生が集結したが、実
際、この辺でも、結構中国人留学生と思しき人は多い。
以前は、一部のエリートだけだったろうが(そういう
人は今はアメリカらしい)、今は普通の学生が普通に
留学といった感じだ。
ホームセンターで良くバイトしているが、これがまた
日本語が上手く、始めは分からなかった。
兎に角その語学力には感心する。
細かいやり取りがあるのに、普通にレジを打っていた
りするのだから。
中国全体の識字率とか考えれば、普通にここらにいる
彼らも、エリートとは言わなくても、上流に近い或い
はかなり優秀な人たちなのかもしれない。

いずれにしろ、民間レベルでは、どんどん中国人との
接触交流は増えているのだ。
そうなると直ぐに問題になるのは犯罪であり、実際そ
ういうものがセンセーショナルにクローズアップされ
たりする。
一部であるのは間違いないのだが、全体の印象になる
のが世の常だ。
数が増えれば、犯罪も当然増える。
しかしそれは、中国人に限ったことではなく、日本人
でも同じことだ。
条件的には、より犯罪に走りやすいというのはあるが。
ただ、中国人の国民性とか言われるものには、良い感
情を抱かない日本人も多い。
それに中国人の反日思想も加わると、更にだ。
この辺りが一番難しいところだろうう。
肝心なことは、日常レベルでは、変な偏見を持たずに、
フラットに接することだ。
中国人であろうが日本人であろうが、へぼいのはへぼ
いのだから。
しかし、集団となって、例えば「アジアカップ」の時
の重慶での出来事などを目の当たりにすると、草の根
運動の先は長いなと思うし、なかなか冷静に対応する
のも難しそう。
しかし、同じようにヒステリー状態になることだけは
避けないといけないのだ。


コメント

聖火到着

2008年04月25日 | Weblog


いよいよ聖火到着だ。
って、なんでこんなことがこれほど話題になってしまっ
たのか。
たかが聖火なのだが、まるで「麻原彰晃」でも乗った
車を追いかけるような、実況中継だ。
そのバスを見れば、見慣れたバスだし(地元のバスと同
じ)、普段は観光バスを運転しているだろう運転手も、
まさかこんなことでこれほど緊張を強いられるとは夢
にも思わなかったことだろう。
さて、この先どうなるのだろう。
結局は、大したことも起きずに、一体あの騒ぎはなんだっ
たのかなんてことで終わるんじゃないだろうか。
いずれにしろ、お祭りの象徴ではなくなった聖火に、意
味は見出せない。

そんな五輪の、日本人向けツアーがこの前紹介されて
いた。
印象としては、結構高い。
多分、ホテルも良いところなのだろう。
そうであれば、中国らしいトイレ体験はしなくて済むと
いうことなのだが、競技場のトイレは大丈夫なのか。
しかし、所謂「和式トイレ」が多いのが問題視されて
いたわけだから、そういうのに慣れている日本人は問
題ないとも言える。
他の、西洋人だろう、困るのは。
それとも、ウォシュレットに慣れすぎたに日本人には
すでに「和式」も過去のものなのか。
「ぼっとん」でないだけましだ、ともならないのか。
しかしこの「ぼっとん」に関しては、下手に水洗の流
れないものより「ぼっとん」の方がましだという経験
者の話を聞いているので、一概には言えないようであ
る。
それなら、ドアの無いトイレで無いだけましだ、と思
えば良いわである。
そういう問題ではなかった。

そのツアーの内容だが、例えば「ソフト観戦ツアー」
とか「野球観戦ツアー」とか、完全に日本人限定ツア
ーであった。
当たり前か。
日の丸を見たいだけなのだから。
しかし、「ソフト」とか「野球」なんて、日本人しか見
ないのではないだろうか。
やる方も見る方もそれで良いのだろうが、なんだかしょ
ぼいと感じる。
これって私だけ?
ああ、見ない人がとやかく言うことではなった。
やりたい人がやり、見る、これでいいのだ。
関心がないなら、見なけりゃ良い、それだけのことだ
った。
でも、絶対目にしないというわけにはいかないから困る
のだ。
特に、テレビなどが一段とがうるさくなるのが耐えられ
ない。
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カタクリ

2008年04月24日 | 食べ物

 

三週つづけてカタクリの群生地に行く。
気温も20度を超えるかという、かなりのぽかぽか陽気で、
「ヒメギフチョウ」にはうってつけの天気である。
が、期待に反して、その姿は全く見えない。
どうも、この場所とは相性が良くないようだ。
というわけで、別のもう一箇所のカタクリ群生地に移動す
ることにした。
移動距離は10キロほど。

その移動中、ついでにどこかで昼飯でもと思った。
しかし、入りたくなるような店も思いつかず、さりとて何を
食べたいという積極的な気持ちも無く、パンでも食べるか
ということになった。
そこで、途中にあるスーパーに(初めてのスーパーだが、
多分パン屋が入ってると思い)に寄って行くことにした。
案の定パン屋があり、昼飯代わりとなるものを物色した。
それにしても、スーパーに入ってるパン屋というのはどこ
も同じような店である。
菓子パン系以外のパンは、カレーパン、ピザ風、そしてソ
ーセージを使ったもの、後は、マヨネーズをグラタン風に
したもの。
大体こんなものではないだろうか。
個人的には、「コロッケパン」(キャベツとウスターソース)
などがというか、それだけで良いのだが、変に一工夫し
た物が多くて困ったものである。
本当に美味しいものがほしいのなら、「バゲットサンド」の
ハムであるが(ジャンボンサンドイッチ)、この場合「バゲッ
ト、ハム、それにバター(絶対マヨネーズを使っては駄目)
がそれぞれ美味くなくてはならない。
そんなものを、田舎のパン屋に要求しても始まらない。
食べたければ、自分で用意だ。

結局、「野菜カレーパン」と「ピザ風パン」を買う。
今は、店の殆どの「カレーパン」のカレーは業務用のもの。
だから、昔のように、とてつもなく美味くないという「カレー
パン」はないが、反面どこで食べても同じでしかもそこそ
この味となっている。
万人向けに、やや甘め、旨味もある(旨味調味料)、だか
ら、決して不味くは無いのである。
今回も、そんな甘めの「カレーパン」。
こういうものに本格を求めてもしょうがない。
そして「ピザ風パン」。
トマトソースにチーズを載せ、更にマヨネーズをかけてある。
こういうものには定番の「コーン」もちゃんとある。
予想通りの味。
これも、子供向けの味だ。
不味くは無いが、決して美味くも無い。
こんな時でもないと食べないものだ。
しかし、当然のこと満足感は無い。
一言、「マヨネーズ」と「コーン」は追放したい。

そんなものを食べながら、「カタクリ群生地」を探索し、つ
いでに川伝いに上流に向かって散歩をする。
しかし、収穫は一切無し。
まあ、気持ちの良い散歩だったから良しである。
当然のこと、パンの包みなどのゴミは、ちゃんとバッグに入
れ持ち帰った。


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フレンチのシェフ

2008年04月22日 | 食べ物


サミットが行われる「ウィンザーホテル」の、フレン
チレストラン「ミッシェル.ブラス」のシェフが傷害
罪で逮捕されたというニュースは、思わず笑ってしま
った。
その理由が、マクドナルドのポテトか何かのソース
(有料)を勝手に使い注意され暴行というもの。
あまりにしょぼすぎである。
よくこんなせこいシェフを使ってたものだ、と誰しも
思うのではないか。
一応、フレンチのシェフである。

しかし、実際のところ一応どころではない。
仮にも「ミッシェル.ブラス」は、フランスの三ツ星レ
ストランである。
日本版ではなく、本当の三ツ星だ。
ここで、本当のと言ったのは、日本版と違って本国版は、
日本版とは比べ物ににならないほど権威があるという意
味で。
その高級レストランの、唯一の支店である店のシェフな
のだ。
しかも驚いたことに、それはイギリス人だった。
ここでの「驚いたことに」という表現は、察しの通り、
イギリス人のシェフに美味しいものが作れるのか、とい
う先入観(偏見)から生じたものだ。
イギリスの美味いものはポテトのチップスとチーズの「ス
ティルトン」のみ、というのはもうすでに自分の中では
ゆるぎない真実なのである。
それが今回、計らずも証明されてしまった。

フレンチのシェフが「マクドナルド」に行くこと自体
、すでに信用できないのだ。
あの「ハンバーガー」を美味しいと思って食べられる人
間の味覚は、絶対に信用できない。
今回「ハンバーガー」を食べに行ったのかどうかは分か
らないが、もしそれが「フィレオフィッシュ」であるな
ら理解できる。
「フィッシュアンドチップス」のフィッシュみたいなも
のだから。
それに「ハンバーガー」と違い、何の魚かは判らない
が、変なものは入って無さそうだし、それなりに食べ
られるものだと思う。
そして「ポテト」を付ければ、それこそ「フィッシュア
ンドチップス」の完成である。
ならば問題無さそうなのだが、暴行の原因となった「ソー
ス」を使うという行為が大いに問題なのだ。
何故、ポテトにソースが必要なのか。
しかも、わざわざ不味くするような。

コンビニなどの食べ物にも共通するが、何が不味いか
といって一番不味いのはソースである。
大体が変な甘味があり、旨味調味料たっぷりで、スナッ
ク菓子的な味がその共通するところ。
今時の学生だったらしょうがないが、フレンチのシェフ
がすることか。
塩だけで充分美味いのが「ポテト」であろう。
事件としては、しょぼい事件なのだが、ブランド的なダ
メージは相当なものではないだろうか。
下手をすれば、本国の店にまで波及するかもしれない。
それにしても、イギリス人のシェフとはね。

コメント

マンタ

2008年04月21日 | Weblog


この前の「ホームコンサート」の時に買った、というか
買わされたCDを聴いているが、サンバ調ありバラード
風ありの、確かに聴きやすいアルバムとなっている。
マイルスの「Get up with it」が好きだなどと言っ
ている人間からすると(私です)ちょっと物足りない
が(傾向が全く違うし)、普通にかかってても邪魔に
はならないという意味では、気楽に聴けるし、楽しげ
でもあるし、入門編(他の人たちは多分ジャズアルバム
など持ってないだろうから)としても良いのかもしれ
ない。
本人曰く、太平洋で「マンタ」を見たときに着想した
ということである。

ところで「マンタ」だが、和名は「オニイトマキエイ」
というのは知っていたが、英語だと「Manta ray」という
ことが今回調べて判った。
本当に「マンタ」なんだ。
「Ray」はもともとエイだし(<Stingray>が有名だと
思うが)。
「マンダレイ」だったら知っているが「マンタレイ」と
は。また勉強になってしまった。

ところでその「マンダレイ」だが、ラース.フォン.ト
リアー監督の映画で有名だが(一部では)、同じ名前
の場所が「ミャンマー」にあるのはあまり知られてな
いのではないだろうか。
そちらの方は「マンダレー」と表記だが。
これも、知ったのは最近だが、太平洋戦争時、日本兵
が悲惨な敗走をしたところで有名らしいのだ。
希望を失った日本兵が、ばたばた倒れながら敗走する
光景は今では想像つかないが、いろんなところで同じ
状況があったはずなところ、この「マンダレイ」とい
う名前が出てくるところを見ると、中でもより悲惨で
あったであろうことは想像に難くない。
「ビルマの竪琴」などと、ちょっと牧歌的にさえ思わ
れる「ミャンマー」であるが、気候的にも他の国と比
べると相当過酷だったらしい。
最近は、首都も「ヤンゴン」から何とかというところに
移転したが(軍事的な理由で)、今でも「ミャンマー」
は充分過酷(別な意味で)なところのような気がする
(新しい首都の名は<ネピドー>でした、何だか<リ
ピドー>を連想させる)。

と、「マンタ」から「ミャンマー」と何だか取りとめも
ない話になってしまった。
ということで、せめて画像は一服の清涼剤的なものと
思い、今回も似つかわしくない花の写真を。
コメント

聖火リレー

2008年04月20日 | Weblog


長野の聖火リレーも、まさかこんなことになるとは関
係者も思ってなかったことだろう。
兎に角、無事に終わることだけを考えているのではな
いだろうか。
本音は、「チベット問題」がどうのなんて関係ないだ
ろう、であろう。

「セレモニーを予定通りに遂行」、こういうことに関し
ては、日本人は信じられないくらい神経質になる。
どうでもいいんじゃない、というようなことでも、急
に尤もらしく神妙になるのは、傍から見ていると滑稽
ですらあるのだが、何かと権威付けしたくなるらしい。
名誉だとか、伝統を持ち出すのもその為の道具である
と思う。
そんな文化の日本だから、「名誉ある聖火リレー」も
是非とも成功させたいと、他の国以上に思っているは
ずである。
しかし、今回は、中国との関係を悪くしたくない国、企
業の思惑が、否応無しに絡んでくるので更なるプレッシャー
をかけられてしまった。
一番の本音は、こんなことなら受けるんじゃなった、な
筈だ。

こういう問題は、オリンピックが肥大すればするほど
起こりうるものだ。
すでにベースは商業主義なのだから、理念と実態の乖
離は相当なもので、大きな矛盾を抱えながら肥大化す
る五輪、という一つの流れは止められない。
考えてみれば、五輪そのものが今の中国のようなもの
とも思える。
となると今回は、「五輪」と「中国」がシンクロする
歴史的瞬間を我々は目撃することが出来るのかもしれ
ないのだ。
そんな僥倖が訪れるとは夢にも思ってなかった。
なんてことは、一切思ってない。
何故かと言うと、「五輪」には興味が無いから。
やってれば見ることはあるし、日本選手の活躍が気に
ならないことは無い。
だから、全く興味が無いというわけではない。
が、全てに行き過ぎという感じがするのだ。
マスコミも選手も国も国民も。

特に、「国威発揚」の部分があまりに強くなっている
今回の「五輪」に代表されるのようなものは、本当な
くてもいいと思う。
しかし、それがあるゆえ、更なる感動を多くの人にあ
たえるから厄介なのである。
世界最高のテーマパークみたいなものか。
感動製造装置としては、多分間違いなく最高のものだ
と思う。
きらきらした目で「感動をありがとう」、などと言われ
ると、「これこそが真実だ」なんて皆直ぐ思っちゃうか
ら、弱ってしまうのだ。
コメント

ホームコンサート

2008年04月19日 | 音楽


昨日書いた、トイレを借りにお邪魔した家に、昨日夜
再びお邪魔することになった。
連日のお邪魔であるが、こういうのは重なるもので、
ある期間を取ると集中するが、長いスパンで見ると平
均化されるもので、その偏りが今回だったということ
なのである。
で、その理由だが、その家でジャズピアノのホームコ
ンサートがあったのだ。
ホームコンサートと言っても、ピアニストはれっきと
したプロで、東京ではない「ブルーノート」で演奏す
ることもある人である(今回は、内内のものであるの
で、名前は秘すが)。
何故そのピアニストがその家で、というのは、たまたま
主がピアニストと知り合いで、「高遠」の花見ついで
にやろうではないかということになった、らしい。

コンサートの前には、飲み食いがある。
ピアニストも交え飲んだり食べたりであるが、その料
理がこれまた品数が多く、ちょっと作りすぎではない
かと思うくらいだった。
こちらも手ぶらでは、と思い、「カスレ」用にと作っ
ておいた「子牛のコンフィ」を持参して、「コンフィの
サラダ」を作った。
が、量的には他のもので充分過ぎるくらいだったので、
必要なかったと言えば必要なかった。
ざっと思い出しても「鶏の中華風」「アスパラとスモー
クドダック」「なすとピーマンの味噌餡」「鰻の蒲焼」
「筍の煮物」「ポテトサラダ」「サンドイッチ」「炊
き込みご飯」「鯉の洗い」「野菜のお浸し」「お吸い物」、
おいおいバイキングか?といった状態であった。

その後、コンサートは始まったわけだが、いつも思うが
ジャズはこのくらいの規模が一番良い。
つまり、コンサートホールとはでなく、ライヴハウス位
の大きさがちょうどということだ。
聴くほうもリラックスして、演奏する方もリラックス、
しかも生の音が聴こえる規模。
更に息遣いも。
そうなると、今回のようなコンサートが理想的なものと
なるのだ。

とは言え、今回集まった人たちの多くは、殆どジャズな
どを聴いたことが無い人達。
ピアニストも、ジャズ入門編といった感じでトークを交
え飽きさせないような工夫をしていた。
こういう客層の場合、全員同じようなジャズ経験値であ
るなら良いが、変にある程度知っている人(今回の私)が
混じっていると返ってやりにくいのではないかと思わ
れる。
こちらからすると、そんなこと知っているよというよう
なことから始めないといけないから。
途中から、変にこちらを意識し始めたのを感じてしまっ
た。
そんなこともあり、帰りにはちゃんと入場料代わりにCD
は買ってきた、というより買わされた?
久しぶりに定価のCDを買ってしまった。

今日の写真も、その家の庭に咲いていた花(名前は忘
れてしまった)。
コメント

里山2

2008年04月18日 | 食べ物


野良猫などを撮りなが、らぶらぶら30分ほどしたと
ころで何やら催してきた。
小であるなら、いくらでも周辺で可能なのだが大では
そういう訳に行かない。
車で家まで引き返すか、或いは、近くのスーパーかな
どと考えながら歩いていたが、一番良いのは近くの知
り合いの家でトイレを借りることかな、と思いそこへ
向かうことにした。
小学生でもあるまいし、とは思ったが、良く知ってい
る家なのでまあ良いだろうという感じであった。

家に行くと、ちょうど知り合いは外にいて、用件を伝
え、かって知ったる家なので、さっと用事を済ます。
直ぐに帰るつもりだったが、時間がちょうど昼前(時
間的にちょっとまずいとは思っていた)だったので、
昼飯を食べていけということになってしまった。
ちょっと話をしている間に、同時に用意していたのだ。
もうすでに出来上がってしまっていたので、結局、食
べていくことになった。

そして、その出してくれたおかずがこれまたお昼には
珍しいもので、「馬刺し」であった。
確かにこの辺は「馬肉文化圏」ではあるが、なかなか
お昼に食べる習慣があるほどのディープさは持ってい
ない。
居酒屋のメニューに普通にある、その程度の浸透度で
ある。
聞くと、たまたま何かの為に買ってあったということ
であった。
そりゃそうだ。
しかし、「馬肉の刺身」というのはご飯のおかずに合
うのか。
好きな人は好きなのだろう。
これは、個人的な問題であろうが、元々私の場合、馬
肉に限らず刺身はご飯のおかずにはならない。
どうしても、おつまみというか単独でたべるものなの
だ。
鮨飯だったら、魚の刺身は最高の組み合わせだ。
しかし、白米ではどうもなのである。

馬刺しだったら、ちょっと焼けばおかずに一気に変身
なのだが、と思いながら(せっかく出してくれたもの
に文句は言えない)、ほぼ二人前ほどの「馬刺し」
を食した。
肉そのものは、赤身で充分美味しいものであった。
考えてみれば、「馬刺し」なんて食べたのは何年ぶり
かのことである。
元々積極的に食べたくなるというものでもないので、
そう機会はない。
多分、今回の「馬刺し」は、「個人的馬刺し食」の歴
史の中で、確実に記憶される出来事になるだろう。

その後、その家の庭に咲いている様々な花のレクチャー
を受け(直ぐ忘れてしまうが、今回<二輪草>は覚え
た)、「ヒメギフチョウ」の食草の「ウスバサイシン」
を確認し、あまりに模様が美しかった「椎茸」の写真
などを撮りお暇したのだった。
というわけで、本日はその椎茸の写真。
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里山

2008年04月17日 | 生き物 自然


先週に引き続き、里山散歩。
気温が高くなるという予報の割には、暖かいという感
じはしない。
寒くは無いが、春のぽかぽかでもないという中途半端
な天気の中、ほぼ先週と同じコースを辿った。
相変わらず、虫系の姿は見られない。
カタクリも、咲いているのは数本で、殆どは蕾すらま
だ出てない。
当然「ヒメギフチョウ」などいるはずも無く、唯一、
これも先週と同じなのだが「キタテハ」(越冬した成虫)
がいたのみである。
しかし、今回はじっくり撮影できる程度に停止してく
れたので、やっと、今年初の「蝶撮影」に成功した。
季節が進めば見向きもしない「キタテハ」も、今年初
となると価値が増す(先週全く同じことを書いた、deja 
vuではなく、反復の美か?)。

周辺は、後ろに雑木林の山を控え、前は田圃という、
絵に描いたような里山的風景の場所で、「長閑な風景」
の原型に指定したいと思う場所である。
そんなところに、これまた絵に描いたような「野良猫」
が日向ぼっこをしている。
カメラなど持った人は、間違いなくこれは良い被写体
だと思いシャッターを押すだろう。
「野良猫」と「日常」、これはもう対になった被写体
とテーマというものではないだろうか。
誰が撮っても絵になる風景とは、こういうものを指す
(同時に類型的ともいうが)。

そんなあまりに類型的な風景を目にしていると、その
類型の磁場でこちらもそんな風景を撮ってしまいそう
になる、というか撮ってしまった。
類型恐るべしである。
本当は、あまりに他の動物系がいなかったので、つい
ついその類型の魔力に負けてしまった、ということな
のである。
手近なところ済まそうという、安直な気持ちが働いた
というわけだ。
ということで、今までだったらまずこのブログに登場
しないような、所謂、可愛らしい写真が載るかも知れ
ないが、びっくりしないでください。
決して、「猫クラブ」に転向したわけではないですか
ら。

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M氏の好み

2008年04月15日 | Weblog


スノッブなM氏が、ブレッソンの三枚組み「ジャンヌ
ダルク.裁判」「たぶん悪魔が」「湖のランスロ」を
観終わったら貸してくれと言う。
全く吝かでないが、「どうせまた、眠くなるよ」と皮
肉を言い添えることは忘れなかった。
ついつい余計な一言を。
いつものこととは言え、困ったものである。
しかし、これにも少しは理由があるのだ。
本当にM氏はブレッソンに興味があるのかどうか、そ
の辺りが不明なのだ。
兎に角、新しいものには飛びつくので、それだけの理
由とも考えられる。
この場合の新しいというのは、自分にとってという意
味だ。
そして、何せスノッブだから、所謂「カイエ.デュ.シ
ネマ」系、日本だったら昔の「ATG系」に弱いので
ある。

映画の好みなど人それぞれで、他人がとやかく言うこ
とではないが、話していると、本当に好みが合うかど
うかは判ってくるものだ。
M氏とはもう長いが、あまりに総花的で、これっと言っ
た核のようなものが見えない。
それで、本当に好きなのは何なのかと聞いたことがあ
るが、そこはスノッブ、こちらの反応を窺い、なかな
か本音を漏らさない。
下手に本当のことを言って、馬鹿にされるのを恐れて
いるのだ。
ついつい馬鹿にしてしまうこちらの態度も問題だが、
M氏もしぶとい。
吐いて楽になれ、と言いたいところだ。

一応M氏の名誉のために言っておくが、こと「ジャズ」
に関しては相当造詣が深く、いつも情報面でお世話に
なっている。
映画に関しても、結構総花的な部分の恩恵に与かって
いる。
いろいろ録画してもらっているのだから(しかもリク
エストまでして)。
そうやって考えると(考えなくても)、結構お世話に
なっているではないか。
それなのに、こんなところで面白おかしくいいように
いじられては、M氏も納得がいかないであろう。
もしこれが逆の立場だったら、怒ってしまうところだ。
しかし、そこはM氏、実に大人である。
というか、M氏だけに「マゾッホ」だったりして。
結局、最後はこれか。
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スティルトン2

2008年04月14日 | 食べ物


昨日の続き。

そのスーパーで買った「スティルトン」は、結果的に
は何の問題も無く、良い状態であった。
むしろ、予想以上で、青カビの香りも強く掘り出し物
と言っても良いかもしれない。
そして、問題の「バゲット」だが、こちらは全くの予
想通り。
正に、絵に描いたようなありがちな「バゲット」であっ
た。

絵に描いたような「バゲット」とはどんなものかとい
うと、まずその皮。
特徴は、薄さと軽さである。
「バリ」っという感じではなく「サクサク」という感
じなのである。
「サクサク」というと、美味いものに対する表現と思
われるかもしれないが、こと「バゲット」に関しては
当てはまらない。
物足りない。
これでは「コッペパン」である。
「バゲット」の醍醐味は、まずその皮をかんだ時の
「バリ」なのだ。
口内を傷つけるくらいの力強さがほしい。

次に、中身だが、これもやたらと軽い。
ふわふわして柔らかいが、粉の良い香りもないし、味
も深みが無い。
根本的に、粉が違うのだ。
「柔らかい=美味い」という法則は通用しないのだ「バ
ゲット」に関しては。
中身にも、二枚腰がほしい。
粘った先の旨味。
これだ、ほしいのは。

しかし、今は軽さが好まれるので、こんなタイプの「バ
ゲット」も美味しいと思う人がいるのだろう。
これはもう全体的な傾向だ。
こうやって、世の中から「本物」が消えていくのだろ
うか。
そしていつしか「本物」というもの自体が変質してい
き、気が付くと、昔の原型を全くとどめていない、何
てことになるのではないか。
平準化された味覚の持ち主が増えれば、いずれそうな
ると思う。
「コンビニ舌」Foreverである。


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