ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ブロークン フラワー

2007年05月31日 | 映画


レンタルヴィデオ屋にジムジャームッシュの「Broken
Flower」(映画はジャームッシュのものとしてはどう
にも中途半端で、変にオーソドックスな物語にしてい
る分余計にそう感じてしまった。前の「デッドマン」
は神話的な詩情が充溢していてかなり良かったのだが
今回のはあまりに普通すぎる)を返しにいくと、特設
古本コーナーがあった。
文庫本が100円均一、その他は300円均一。
こういうコーナーにあるものは、大体嘗てのベストセラー
とか推理小説系が多いので、興味のあるものはまずみ
つからない
それでも何気なく覗いていると、カフカの「変身」が
あった。
有名な作品なので買う人は多いと思う。
しかも、他のカフカに比べるとかなりの薄さ。
充分に、とりあえず買っとくかという理由で買われる
小説ベストテン、的作品と言える。
まあ、いずれにしろ、他のカフカの作品に比べると桁
違いの売り上げであることは間違いない。
殆どは放置の運命で、今日のように100円均一コー
ナーに並べられたのは、変身ならぬ復活という運命を
辿った幸せものということになる。

後売れるもう一つの理由として、ホラー系と間違えら
れるというのもあるんじゃなかろうか。
「恐怖の蠅男」の系列だ。
だから「変身」の主人公も「蠅」になると思っている
人は結構いるはずだ。
私もそうでした。
正確にはそうです。
というのはまだ読んでないから、この目で確認してな
いのだ。
実は、他のものは一通り読んでいるのだが、この一番
有名な「変身」はまだ読んだことがないのだ。
普通は最初に買うのにね。

ということで、この「変身」を良い機会だから買うこ
とにした。
定価を見てみると270円。
大してお得感はないし、新しいのを買ったほうが良い
んじゃないとも思えるが、これも何かの縁。
どちらにしろ100円なのだから。
この一冊だけではと思い、他を物色するが、有名どこ
ろでヘッセの「車輪の下」などがあったが今ひとつ自
分のテイストではないので食指は動かない。
唯一引っかかったのは、イーストウッドの「父親達の
星条旗」の原作となった本。
こちらは「変身」とは対照的にいやに厚い。
「変身」の5倍はありそう。
ということは、かなりのお得感がある。
って、量り売りの世界ではないのだから本は。
で結果、二冊200円の買い物をした。
本屋(レンタル屋と併設)で本を買うのは、何か久し
ぶりのような気がする。
すっかりアマゾン漬けだったから。
あとは、今現在読みかけの本が4冊あるところにもっ
てきて、今回買った本が果たして順調に消化できるか
どうかということだ。



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2007年05月30日 | 食べ物


異常気象という言葉を使えば、全て納得出来てしまう
というのは、何かしらの原因がすっきり提示されたか
のような気がするだけで、決して根本的な問題が解決
されているわけではないのだが、あまりに便利で守備
範囲が広いので、ついつい「異常気象だからね」のよ
うに使ってしまうのは困ったものだ。
というわけで、異常気象のせいか(この場合は温暖化)
、最近本来暖かい地方の魚である「鰆」が、東北地方
で大漁ということらしい。
ちょっとしたボーナスと、獲れるところではほくほく、
方や不漁のところでは渋い顔と、対照的な風景となっ
ている。
「鰆」以外では「鯖」なども、今までとは違う獲れ方
となっているようだ。

水産王国日本、と嘗て言われたこともあるが(今でも?)
果たしてそんな王国の未来は、と想像すると、かなり
暗い。
すでに輸入なくして成立たない魚事情。
それに、これからは世界的(特に中国)な需要が増し、
今までと同じ価格では買い付けられない状況がある。
中国ヨーロッパなどに価格競争で負けるらしい。
この場合、他国の方が高い値をつけるという意味だ。
代表がマグロ。
世界的な鮨ブームというのは続いている(らしい)。
そうなると、回転寿司からマグロが消えるのも時間の
問題か。
別にマグロは消えても困らないが、それが全体の水産
資源の枯渇を意味しているのならそれは問題だ。

思うに、日本は今までそういう水産資源が無限である
かのように思っていたのではないだろうか。
つまり、乱獲が常態化していたと。
気付いた時には近海から魚は消え、外国に手を伸ばし
たら最初は良かったが、他の国でも手を伸ばし始め、
そっちの手のほうが最近では長くなってしまったと、
こんな感じでは。

しかし、今現在の魚事情を見渡すと、改善するべきと
ころはいくらもある。
まず、食べずに捨てる魚がどれほど多いか。
宴会、結婚式でどれほどの魚が廃棄されているか。
まあ、美味くないという問題もあるが、わざわざ美味
くもないものを用意するところも問題だが、そんなも
のでも形として必要とする日本の食文化、これが問題
なのだ。
始めから無駄を承知で形式優先、いわば様式美の世界
がここにも生きている。
「美しい日本」。
と言いたいところだが、様式の前に、その思想のもと
となる自然に対する畏怖がないから、空しい様式美だ。
水産資源の元になるのも海の環境だし、海と山とは一
体で、山の環境が海の環境を左右するというのも分かっ
てきたし、どちらにしろ全体の自然環境が重要である
ことは今や自明の理。
漁獲コントロールは当然のこと、環境も本気で考えて
ほしいものだよ「美しい日本」のここのところ身辺が
慌しく心身症にでもなりそうな安倍ちゃんには。
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躑躅

2007年05月29日 | 芸術


花瓶に花を生けなければならいという状況があり、そ
のためにわざわざ花を買いにいくのも面倒だし(一回
限りのために)と思い、何か他に無いかと考えた。
そこで浮かんだのが「躑躅」だった。
今がシーズン。
オレンジ色が鮮やかな躑躅の花で、充分誤魔化すこと
は出来るだろうと、早速畑の躑躅を持ってきてくれる
ようにと兄に頼んだ。
これで花はOKだ。
しかし、これだけでは今ひとつ見栄えはしない。
バックがほしい。
背景があってのオレンジ色。
その効果を発揮するためには、緑がほしいと思った。
何か無いかと思案している時、良いものを思いついた。
いつも行く蕎麦屋さんの前に、葉っぱにまだらの白い
模様の入った背景にはうってつけの「何とか」(名前
は知らない)があって、ちょうどこの前行った時、そ
ろそろ剪定しないとと言っていたのだ。
早速葉っぱを貰いに行った。
主人は快く承諾した。
ついでに看板にかかっていた部分も剪定し、気持ち手
伝ってきた。

ある程度ヴォリュームを持たせないとしょぼくなるの
で、それなりの量をもらって家に帰り、いよいよ花瓶
に生ける段階となった。
と言っても、ばさっと突っ込むだけのことだが。
「草月流」をイメージしてとか一切無く、ただただ躑
躅の後ろにその葉っぱ(正確には葉の付いた小枝)を
突っ込むだけ。
ここまでの文章だと、それなりの経験があるかのよう
に思われるかもしれないが、今回がまるっきり初めて
のこと。
だから完全に自己流の世界だ。
侘び寂びの世界からは「遠く離れて」なのだ。
全体のバランスだけを考えて、無理やり葉っぱの向き
を変えたり、長さによって位置を変えたりと、しめて
10分ほどの作業だった。
緑に映えるオレンジ色、まあほぼイメージしたような
出来映えだ。
買った花を生けるよりは数倍良いんじゃないの、と自
画自賛して終了した。

使う場面が、とりあえずあれば良いというものなので、
これで充分なのだ。
実際、「わあ豪華」(只なのに)などという声も聞こ
えたのでそれなりの仕上がりにはなっていたのであろ
う。
自然のものを利用してそれなりの効果を得る、CPは
めちゃくちゃ良かった、今回の「生け花」であった。
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相撲

2007年05月28日 | Weblog
殆ど見ることはなくなったが、以前は贔屓の力士とか
(相当昔の話だが)いて、それなりに楽しみだった時
がある相撲、今回久しぶりの横綱誕生となるようで、
一応明るい話題を提供することになったのは、協会に
とっては喜ばしいことだ。
しかし、二人ともモンゴル出身と、100パーセント素
直に喜べないという事情はありそうだ。
それに、先輩横綱の振る舞いの問題も常に付いて回る
ようだし、八百長問題も何かあるごとに噴出するしと。

そうなるとでてくるのは純潔主義。
しかし、すでに今の大相撲は外国人力士の存在なくして
成立たない。
国際化すれば、相対的に日本人力士が弱くなり、そう
しなければ今度は力士そのものの数が少なくなりと、
どっちにしろ協会が思い描くようにはいかない状況が
ある。
理想的には、外国人力士より圧倒的に強い日本人横綱
がいる状態、だろうが、今の日本人で力士になりたい
という人がそういるとは思えないし、この先増えると
も思えないから、無いものねだりに近い。

思うに、相撲をスポーツとして捉えた時点で、未来は
決まったのではないだろうか。
相撲の特殊性イコール相撲の魅力と考えると、スポーツ
のグローバルスタンダードを持ち込むこと事体が間違
いだったのではないかと。
例えばその儀式性。
スポーツなら、勝ち負けのみが問題になるが、相撲の
場合はそれも見所。
品位とかを判断するのも、儀式を如何に優雅に遂行す
るかを見てのものだ。
その演技も重要な要素となる。
だから、スポーツ性を追い求めればその辺のところは
おろそかになるし、外国人力士にとっては、多分その
重要性より強くなることを優先するから、理解の範囲
外であろう。
そういうものを教え込んでいなくて、横綱になってか
ら求めても遅いのだ。
過去の日本人横綱に本当の品位があったかどうかとい
うのは別問題だが、とりあえずそう見えるかというこ
との重要性は文化として理解していた。
これは日本人として共有していた文化だから、外国人
力士に無いのは当たり前だ。
つまり、その特殊性を維持するためには、相撲をスポー
ツではなく「伝統芸能」として捉え、日本の文化を守
るための保護する対象とすればいいのだ。
様式美を見せるための、格闘技的な要素、スポーツ的
な要素、ついでに八百長的要素がある、極めて特異な
世界に誇る日本独自の伝統芸能。
やっぱり、駄目か。

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王子

2007年05月26日 | Weblog
待望久しいスターの誕生。
男子ゴルフ界が、のどから手が出るほどほしいスター、
照準は「はにかみ王子」に決まったようだ。
「ハンカチ王子」の次は「はにかみ王子」か、へっ馬鹿
らしい、と思っている人間も数多くいるだろうが、恐
らく、これからマスコミ(主にテレビ)にしつこく登
場する一連の事態は、それらの人々を更なる「うんざ
り世界」へ引きずり込むことだろう。
嬉しそうな顔で「凄い」を連発する、みのもんた、福
留...の顔が容易に想像できてしまう。
典型的な「ゴルフ親父」だし、彼らは。
ああいう体質の人間が「報道番組的」なものに携わっ
ている日本の不幸。
待て待て、ちょっと話がずれてきた。
スターを作ってはしゃぐ、マッチポンプ的マスコミの姿
勢が目に余る、というか、鬱陶しい、というか、阿呆ら
しい、ということが言いたいことだった。
まあしかし、今から先回りしてうんざりしてもしょう
がないので、これからはなるべく目に触れないように
することを心がけ、そして「うんざり」を織り込み済
みにすることも心がけねばならない。
いつも同じことを言って同じ反応では、能がない。
少しは学習しないと。

それにしてもゴルフ界というものは、「紳士のスポーツ」
などとあまりに実態とかけ離れた「ゴミを捨てるな」と
同じくらい無意味な標語というか「枕詞」をつけるが、
今はそういうことも言わないのだろうか。
見渡してみると、どこに紳士が存在するのか。
皆気付いたのか、そんな人がいないことに。
プロの世界を見ていると、はっきり言って教養の無さ
そうな人間は何人も思い浮かぶが、その逆となるとは
てさてという感じである。
そんなことより、プロは成績が優先だから、人間性或
いは教養度などは二の次だから関係ないということだ
ろう。
一流のプロは人間性も一流などということは間違って
もないのでは。
これは別にゴルフに限ったことではないだろうが、ゴ
ルフは特にそういう面、つまり「紳士的」などという
美しいことを強調したりするからより欺瞞的に感じて
しまい、厳しく見てしまうのだ。
実際、体質的にそんな人間が集まりやすいものである
ということは感じているが。

要するに、個人的にはゴルフに対しては良い感情を持っ
てない、つまり偏見があるということなのだ。
絶対に好きになれないということに関しては自信があ
る。
ゴルフ場によって多くの森がなくなってしまった事実
もあるし、とても暢気にゴルフなんてやってられない
という気分だ。
一言で言えば、体質的に合わん。

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Zoo

2007年05月25日 | 映画


Zooと言って思い出すのは、ピーター.グリーナウェイ
の映画「Zoo」だが、あの映画の中で、動物が腐って
いく姿をフィルムに納めるシーンが何回か登場する。
低速カメラで、動物の死体が粉々になるまでを、記録フィ
ルムのように撮影するのだが、はっきり言って趣味が
良い世界ではない。
しかし、映画の中では重要な部分であり、全てのもの
は風化するという厳然たる事実を端的に表現していて、
決して見世物的映像にはなってなかった(と思う)。
しかし、もしこれを趣味として捉えたら、世間一般で
は、変態的悪趣味ということになるのだろう。

なんでこんなことを思い出したかというと、中国の動
物園のニュース映像を見たから。
最近、遊園地とかのキャラクター問題も含め、何かと
話題を提供してくれる中国だが、今回もまたまたやっ
てくれました。
日本で言えばサファリパークのような動物園だろう。
その中を、車で巡るのだが、虎のエリアで餌をやって
その迫力を眺めるという趣向なのだが、日本だと車に
肉を引っ掛けて間近に見られるようにするところだろ
うが(確か)、その動物園では一味違った。
いや、二味三味か。
やおらもう一台のトラックが登場して、無理やり積荷
を降ろす。
それが何と、生きた牛だったのだ。
生肉ではなく、生の牛を餌としてそのエリアに放り込
んで、虎が襲うのを見物するという趣向なのだ。
あまりにストレートだ。
当然牛は必死に逃げようとするのだが、周りは虎だら
け。
その後の展開は推して知るべし。

これを知った「動物愛護団体」は当然の如く抗議。
まあそうだろう。
ローマの闘技場のような世界が未だに存在している、
ってな感覚か。
悪趣味な世界、と批判するところだろうが、そもそも
動物園というものが見世物的空間であることを考える
と、より面白くするための仕掛けとしてそう考えるの
は別に不思議ではない。
生肉をぶら下げるのとの違いは、それほど大きいだろ
うか。
苦しんで死んでいく姿を楽しむという一点で、悪趣味
ではあろうが、そうなると闘牛との違いはどうなのだ
ろうかという疑問も浮上する。
歴史伝統の違いか?
どちらにしろ擬似自然の動物園という不自然な空間で
は、様々な矛盾した問題が付いて回るということだろ
う。

ところで昨日の画像だが、当初は「一村」をイメージ
して作ろうとしたのだが、結果は全然違い、それでは
と、昨日の画像を元に再び作ってみた。
しかし今度も、「一村」というよりは、むしろ「若冲」
のイメージに近いものとなってしまった(と自分では
思っているのだが)。

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田中一村

2007年05月24日 | 芸術


まるで初夏のような陽気に誘われて、「田中一村」
の展覧会を見に行ってきた(うーん、あまりに定型的
な書き出し)。
「田中一村」という人は、所謂「孤高の芸術家」とい
言われる人で、最後は奄美大島で孤独に生涯を終えた。
団体には属さず、自らのために描き続けた画家で、そ
の奄美大島での作品が彼を死後評価させることとなっ
た。
よく、「伊藤若冲」との共通点を指摘されるので、個
人的にも一度本物を見てみたいと思っていたなのだが、
タイミングよく地元の美術館でやることになったので
ほいほいと出かけたわけだ。

諏訪湖畔を自転車で半周ほどのところにある「ハーモ
美術館」についた時は、すでに汗だくだく。
ここは、「素朴派」(ルソーを代表とする)中心の美
術館で、何故だか知らないが今回「一村展」をするこ
とになったのだ。
今ひとつ判りにくい自動ドアから入ったら、その割り
に中は暑かった(関係ないが)。
いきなり目に飛び込んでくるのは、これも何故だか知
らないが「ダリ」の時計が溶けかかっている彫刻。
そう言えば、二階には何故だか「マンレイ」の彫刻も
あった(ここだけ見ればダリからダダというつながり
か、なわけないな)。
これらは常設なので常にあるもの。
「素朴派」のコンセプトはどうなっているのだ、とい
う疑問はこの際不問。

「一村」の展示室は別室を使っていた。
これがまた本当に別室で、一旦外(二階)の廊下を通っ
ていかなくてはならないという判り辛いところで、案
の定迷っている人がいた。
一村の作品は、奄美の50才以降と以前ではまるっき
り違う。
以前のは南画的な、割にオーソドックスな作品で、一
村らしいというのはなんと言ってもそれ以降の奄美で
の作品群だ。
その時代のものは6点(?)ほどあった。
有名な「アカショウビン」(カワセミの仲間で、全身朱
色のいかにも南方系の鳥)も。

さて本物の一村であるが、まず気付くのは、そのモチーフ
に対する個性的な視線。
そこに、若冲との共通性を感じた。
動物や植物は一般的なモチーフであるが、それが昆虫
までいくと一般的ではなくなる。
若冲もそうだったが一村も、普通に接する昆虫を実に
細かく描いている。
主に蝶だったが、確認したところでは「アサギマダラ」
「イシガケチョウ」「ツマグロヒョウモン」が描いて
あった。
他には蛾の「シンジュサン」など。
この辺の個性的な視線は、個人的にも嬉しかったりす
るところ。

後一村の個性は、その洗練されたデザイン性か。
そのまま「エルメス」かなんかのスカーフとして使えそ
うな植物の装飾性は、かなりのレベルだ。
そのデザイン化された植物の中に、たとえば「アカショ
ウビン」のアカショウビンだけは陰影を持った立体で
配置する。
周りは、殆ど平面的な装飾的背景。
この表現スタイルは「クリムト」などに共通するもの
ではないか。
色彩は、南国的なはっきりした色。
バリなんかでよく目にする色彩感覚だが、こういう色
はその風土特有なものかと思われる。
そう言えば、「ゴーギャン」が絵は装飾的でなくては
ならないというようなことを言っていたが、その条件
にも一村の絵は当てはまる。
南国的色彩感覚と装飾性、確かにいろんな画家との共
通点を見出すことは出来る。
モチーフとか斬新なデザイン性など「若冲」との共通
点があることも分かったし、「クリムト」「ゴーギャ
ン」にも通じる点があることも分かったが、そういう
のは美術史家的視点で、「一村」の作品を見るのにな
んら重要なことではない。
「一村」は「一村」であるのだから、重要なことはた
だただ作品を見るということで、分析することではな
いのだ。




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2007年05月22日 | 食べ物


子供の時には好物の対象外であって、その後気付くと
好きになっていたという食べ物がある。
劇的に変化するというものではなく、謂わば漸近的に
ひっそりと転換していく食べ物。
私の場合、その代表が「豆類」だ。
例えば「豆の煮物」など、以前は絶対に食べようとは
思わなかったのだが、今や結構好きなものとなってい
る。
イメージ的には典型的な年寄りの食べ物だったのだが、
こちらが歳を取ったということは置いといて、もうそ
ういうイメージでは捉えない(ことにした)。
むしろ、時代にあったヘルシーな食べ物と、都合の良い
イメージに転換した。

豆を使った料理の中でも特に好きなのは、「カスレ」の
インゲンだったり、「カレー」のヒヨコ豆、レンズ豆
だったりするのだが、要するに煮込みの食材としては
今や欠かせないものとなっている。
で、以前「トリッパ」の時に、「インゲン豆」を探して
彷徨したという苦い経験をしたので、その後いつでも
使えるようにと「インゲン豆」(自家製と店売りのも
のを)を確保したわけだが、久しぶりに食したいとい
う欲求がむくむくと湧きあがった(この場合立ち上が
った?)。
そこで「インゲン豆のカレー」を作ることにした。
過去に食べたことも無いし、見たこともないが、多分
いけるだろうという前提の下やってみることにした。
最近お気に入りの「野菜カレー用香辛料セット」があ
るので、それを使えば大丈夫だろう、と考えたのだ。

まず一晩ふやかしたインゲンを、柔らかくなるまで水
で煮込む。
そこへ、オイルで炒めた香辛料のシードと、玉ねぎ、
そしてその他の粉末スパイスをいれる。
どんなスパイスかというと、「ターメリック」「ジン
ジャー」「チリ」「コリアンダー」「ガーリック」「ク
ミン」「ガラムマサラ」だ。
後は、適当に煮詰まるまで。
これだけの、実に簡単な作り方のカレーなのだが、果
たしてこれで味が出るのだろうか、という不安がないわ
けではなかった。
仕上げ前に味見をする。
う、旨味がない。
当然だ、出汁になるようなものは使ってないのだから。
特に動物系の旨味は一切ないし。
やはり、豆だけでは駄目か。
ここで「スープの素」を使う誘惑にかられる。
しかし、その誘惑を振り切って塩を足し、もう少し煮
詰める。
この微妙というよりちょっと大胆な塩加減が重要だった。
もう一度味見をすると、結構行けてきたではないか。
香辛料の香りと豆の味が一体化してきた。
ということで、「インゲン豆のカレー」は無事完成し
た。
そして、今回もまた実感した。
カレーは香辛料の競演だと。
「出汁の素」よさらばだ。
ついでに、「カレールー」も。

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カンヌ

2007年05月21日 | 映画


毎度のことだが、今年も「カンヌ映画祭」で日本人が
どうしたこうしたと、毎日テレビは騒がしいというほ
どではないが、しつこく放送している。
今回は「松本人志」がそのターゲットのようだ。
「ダウンタウン」として、「お笑い界」では「大物」と
いう位置づけになってるようで、自然とテレビの注目
度も高くなる。
しかし、この「大物」というのは、飽くまでも「日本
のお笑い界」という閉じた世界での話で、世間一般で
も「大物」であるかというのはまた別な話で、それは、
芸能人が特別なものであるかという視線によって変わっ
てくるものである。
まして世界の「大物」が集まるカンヌでは尚更だ。

そんなカンヌでは、他がより有名ですでに世界的だか
ら、日本限定の「大物」などは全く意味を成さないと
いうことになる。
だから、日本での注目がまるで世界でもあるかの如し
放送には注意しないといけない(大騒ぎすると相対的
にしょぼさがかえって強調される)。
お笑い芸人としての価値など関係ないのだから、この
カンヌでは。
飽くまでも、一映画監督としての能力が問われる舞台
であるのだ(一応)。
と、大袈裟な言い方をすればそういうことになるのだ
ろうが、松本人志がもし北野武のように映画監督とし
てのセンスがあるとしたら、それはそれで喜ばしい。
笑いのセンスは、相方の浜田よりは数段上だと思うが
果たして映画ではどうだろうか。

今まで何人もの芸能人が挑戦した映画監督、残念なが
ら今のところ成功例は、北野武のみ。
成功例と言っても、商業的にという意味ではなく、才
能として評価した場合での話だが。
芸能人の多くのひどい映画にはうんざりだが、そろそ
ろ新たな才能が出てきても良い頃だ。
松本人志にはちょっぴり期待している。
と言ったが、本当のところは、やはり期待薄かな。
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憲法

2007年05月20日 | Weblog
どうも今の首相「安倍ちゃん」は、憲法改正したくて
しょうがないようだ。
一人前の国家として、いつでも武力行使できるように
という思いが根本にあることは、彼の思想的背景を考
えれば当然と思われる。
国家主義的な体質は、疑いようはないだろう。
「美しい国」などという陶酔的匂いがする言葉を、恥
ずかしくもなくいえる感覚は、そんな体質がなければ
でてこない筈だ。
彼の姿を見ていると、大して物を考えていないのに、
上手いこと周りから使われているな、と感じる。
行く行くは、徴兵制というものも視野に入れてるのだ
ろう、と自然に推測できてしまう恐さ。
そのくらいのことも考え、「憲法改正」は考えなくて
はならないことだと思うが、どうしても抽象的な議論
というか、「集団的自衛権」という言葉だけが一人歩
きして、今ひとつ本質的なところが見えてこない、そ
う思っている人も多いのではないだろうか。
何となく気分だけで進んでいってしまう状況に、ある
恐さを感じるのは、果たして杞憂だろうか。

街角インタビューなんかでも、言うべきことを言う為
には制約はないほうが良い、その程度の気軽な気持ち
で憲法改正に賛成している人が多いと感じる。
前提として、戦争参戦という具体的な事体はまあない
だろう位の楽観論があっての発言だろうが、今無くて
も道筋をつけるのが憲法であることを考えると、軽い
気持ちで言うべきことではないと思う。
そんな気分を上手いこと利用したい与党は、盛んに攻
められた時どうするのか、と脅しをかける。
やられっぱなしで良いのかということなのだが、過去
の歴史の枠組みでは、やられっぱなしで良いわけない
ということになり、それなりの軍事力は当然整備し、
いつでも出動出来るようにしよう、ということになる。
それが他国であれば、国際貢献という大儀もあるし、
ここで「一人前の国家」というものの姿を見せなくて
は、とどうしてもなってしまう。

基本的には、アメリカの後を付いていくのが日本の外
交戦略だが、この点でも、アメリカに対して言うべき
ことを言うには「一人前の国家」というものが必要で
あり、アメリカ軍に頼ってる限りはいつまでたっても
頭が上がらないよ、つまり発言力の裏づけは結局軍事
力なのだよ、という現実主義が根本にある。
一言で言えば、奇麗事ではすまないよということだろ
う。
結局、旧来の発想から脱却できない現実があるわけだ
が、取るべきは、憲法改正などより、如何に軍事力に
頼らない外交を確立するか、そして事前に戦争を回避
するにはどうしたら良いのかということなのだが、現
実主義を標榜する理念なき政治家は、何の努力もしな
いで手っ取り早い方法を選択し、あまっちょろい理想
論と、その考えを一蹴するのである。



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カウリスマキ

2007年05月19日 | 映画


昨日の続きになるが、アキ.カウリスマキにはミカ.
カウリスマキという兄弟がいたはずだが、そう言え
ば最近名前を聞かないがどうしているのだろうかと、
気になって調べてみた。
すると「ヘルシンキ.ナポリ.オールナイトロング」
というサミュエル.フラーも出ていた映画が、彼の
作品であったことが判り(結構面白いアクションロー
ドムーヴィー的な映画だった)、その後あまり作品は
作ってないようなのだ。
つまり兄弟で監督な訳だが、フィンランドと今ひと
つ日本からすると縁が無い国ではあるが、カウリスマ
キ、と日本人からすると何故か引っかかる名前でもあ
ることだし、決して覚えていても損はない映画監督で
あると思う。

そのカウリスマキの「過去のない男」を見たことは昨
日書いたが、その映画のトーンが「北野武」に通ずる
ということにも触れた。
そして感情ではなく関係を描く監督であるという、訳
の分かったような分からないことも同じく書いたが、
それをもっと徹底した映画が他にあった。
ストローブ=ユイレである。
先日アマゾンで注文した「階級関係」(カフカのアメ
リカが原作)が来たので早速見てみたのだ。

過去唯一見たストローブ=ユイレの「あの彼らの出会い」
とは違い、この「階級関係」は一応物語りの形はとっ
ている。
勿論、カフカの原作でもあり、論理的に納得できる、
所謂安心して見られる収まりの良い物語ではないこと
は言うまでもない。
港近くの白黒の風景から始まるのだが、いやに緊張感
がみなぎっていて、只者ではないと否応なく感じる。
出演者は徹底して無表情。
そして会話も抑揚がない。
そんな会話が行われる船の場面、ホテルの場面、部屋
の場面、と滑らかな展開はなく、唐突に展開していく。
そこが、結構心地良かったりするのだが、「普通」の
映画からすると「訳がわからない」ということになる
のだろう。
しかし、「カフカ」の世界は非常によく表現されてい
るのではないか。
ありがちなのは、如何にも迷宮的な装置を使ったり、
時間軸を意図的に変えたりする手法だが(オーソンウェ
ルズの<審判>は良かった)、そういうわざとらしさ
は一切なく、しかし「カフカ」の世界だと思わせる
ものを持っている。

それと後感じたのは、このそぎ落とし振りは「能」(は
い、見たこともないのに想像で言っています)ではな
いかということ。
関係を突き詰めると、こういう形式に行き着くのか、と
思わず納得した。
その度合いで監督を並べると、「カウリスマキ」「ブレッ
ソン」「ストローブ=ユイレ」ということになるのだ。
コメント

北欧

2007年05月18日 | 映画


BSで「過去のない男」を放映していたので、久しぶ
りにリアルタイムで見た。
監督はアキ.カウリスマキ。
フィンランドの監督と言えばカウリスマキ、そのくら
い有名な監督だ(飽くまでもある程度映画を知ってい
る人の間ではという限定付きだが)。
特徴は、その風土によるのか、兎に角寒々しい風景、そ
して登場する人間はその風景に合わせたかのように無
表情、無口、そして感情は殆ど表わさない。
あと、大胆な省略。
説明調な部分がない。
と、まとめるとこうなるが、これだけでみると暗い映
画の一言で済まされそうだ。
確かに暗いか明るいかと言われれば、間違いなく暗い。

今回の「過去のない男」も、ホームレスのような連中
が、悪徳警官やら、暴漢などにひどい目に合ったりと、
社会の底辺でもがく様を描いているのだが、そこにこ
の監督の特徴でもある暖かい視線、そして不幸の物語
にならないユーモアがあり、見終わると何故かほっと
するような安堵に似た気持ちをもたらしてくれる。
間の取り方とか、ブラックな味付けとか、思わず笑っ
てしまうユーモアとか誰かの映画に似ていると思った
が、「北野武」だ。
今回、久しぶりに「カウリスマキ」を見て、強くそう
思った。
感情表現に囚われることなく、その関系を描くとでも
言えば良いか。

それにしても今回の映画で一番笑ったと言うか、日本
人だから受けたという場面が一つあったのだがあれは
一体なんだったのだろう。
記憶をなくした主人公が、元の奥さんに別れを告げ再
び戻る場面、列車の食堂車で日本酒と鮨を食べるのだ。
ご丁寧に日本の歌謡曲までかかっている。
北欧イコール冬の日本海、それまで感じていた印象が
一気に顕在化したシーンだった。
同じような風土からは、同じような感性が出来上がる
ということか。

そうだ北欧に行こう。
実際に北欧に行くわけにも行かないので、お為ごかし
に小淵沢に最近出来た「北欧料理」の店に行くことに
した。
「風林火山」景気か、例年より小淵沢周辺の人出は多
い。
林に囲まれた北欧風の建物(多分)の店にも、結構車
は止まっていて、この時期にしては、とまたまた思っ
た。
しかし、店はそれ以上に収容できる規模だった。
つまり、外見からでは判らない広い店内であったと言
うことだ。
白木のテーブルに椅子、壁も白木、まるで教室のよう
な店内。
つまり、殺風景。
北欧か(これこそ欧米か)?
ランチメニュウは全てセットで、一番安い1680円
の何とか(忘れた)を頼む。
オードブル、スープ、メイン、サラダ、デザート、コ
ーヒーというラインナップ。
量的には充分お値打ち感はあった。
味的にはどうか。
オードブルの「鰊の酢漬け」以外に、北欧風を感じる
ことが出来なかったのだが、なんせ北欧料理というも
のを知らないので今ひとつ確信がない。
そこで推測で言うと、味付けの特徴は、クリームバター
のこってり味。
寒いところなので高カロリーを要求するだろう、とい
うことなのだが、その基準で言うと、今回メインで頼
んだ魚料理は、魚自体はなんだか判らない白身で、多
分冷凍ものだろうが、ソースはこってりしていた(香
りとか、はっきりした切れのない味)。
付け合せの野菜も、素材の味は殆どしない。
全体の印象は、フランスの高速道路のサービスエリア
のセルフサービスのレストランの料理。
つまり、繊細さとか素材の味とか、そういうものを求
める味ではないということ。
不味くはないが(セルフサービスは不味いのもある)
それ以上でもないということだ。
多分本場だと、新鮮な魚介類があり、充分素材で食べ
られるのだろうと思うが。
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蕎麦粉

2007年05月17日 | 食べ物


カフェのT君が、ガレット用に違う蕎麦粉がないかと
言っていたので、じゃあ蕎麦屋さんから分けてもらお
うかとこちらが提案して、今度持ってくるよ、という
ことになった。
そこで早速、いつもの蕎麦屋に行き主人に頼んだ。
田舎蕎麦用の蕎麦粉をわけて下さいな、と。
主人は快く承知した。
「おーよ、好きなだけ持って行きな」とは言わないが、
500グラムほどいただいた。
そこで「いくらになります?」と聞くと、「いいよ」
と言う。
「T君が普通に払うんだから、普通に請求してくれれ
ば」と言ったが主人は「いいよいいよ松本イイヨ」と
言う。
そこで私は「じゃあ、T君に主人専用のガレット券で
も発行してもらって、ということにしますか?」と提
案した。
主人も「ああ、それでいいよ」と言った。

場面は変わりT君のカフェ。
「蕎麦粉貰ってきたよ」(私)
「ああ、ありがとうございます、でいくらです?」(T君)
「なんか、いいってよ」(私)
「ええっ、それじゃ悪いですよ」(T君)
「ということになると思ったから、主人専用のガレット券
発行で話はつけてきた」(私)
「ああ、そうですか」(T君)
当然、そんな券があるわけではなく、T君手書きのもの
を作ってくれれば良いということなのだ。

カフェラテなど飲んで暫くまったりしていると、T君が
蕎麦粉のガレットを試食用に出してくれた。
そう言えばまだ試食してなかった。
デザート用の基本の、バターと砂糖のガレットだ。
砂糖は、グラニュー糖で良いんじゃない、とアドヴァイ
スしたっけ。
見栄えを考え、粉砂糖も振りかけてあるが、グラニュー
糖のじゃりっとした食感がアクセントになり、なかなか
いける。
一度だけ、リュクサンブール公園の屋台で食べたことが
あり、その砂糖の効果が印象に残っていたのだ。

「T君、問題ないんじゃないの」(私)
「ええ、まあ」(T君)
まだ、何やら不満があるようだ。
「もう少し、皮がぱりっとしたほうが、っていうこと?」
(私)
「そうなんですよ」(T君)
そもそも違う蕎麦粉を探していた理由も、そのことがあ
るから。
「でも、充分許容範囲だよ、それに持ってきた蕎麦粉を
使えば改善されるとも思わないし」(私)
荒挽きの蕎麦粉で、香りは間違いなく強くなるが、荒挽
きだからぱりっとするかとなると、それは別問題という
気がする。
「それより焼き方じゃないの、器具の問題もあるし、薄
さとか温度とか」(私)
「やっぱりそうですかね」(T君)
「専用のフライパンだと、縁があるから、そこで蒸発し
た水分が停滞して蒸らし状態になるからじゃないの、つ
まり構造的な限界だよ」(私)
「なるほど」(T君)

と、一見論理的な尤もらしい理屈を言って感心させて、
ちょっと気分良くなった私であったが、T君殆ど口から
出任せだから。
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2007年05月15日 | Weblog
24万円で買った愛車オペル「ヴィータ」に対して、リコ
ールのお知らせが来た。
愛車と言ったが、その言葉ほど愛しているわけではな
く、単にその安さに釣られて買った車なのだが、走行
距離はいまだ3万キロと、値段ほど行ってるわけでも
なく、まだまだ当分は走ってくれるだろうと、そこだ
けは強く希望はしている。
つまり、基本的には「車好き」ではないのだ。
「動いてくれれば良い」派なのである。

そんなオーナーにもリコールの通知はくるわけで、こ
んな時、車会社のコストは相当なものになるんだろう
な、と赤字に苦しんでいる財政状況に対して同情する
ということも大してなく、それより修理に持っていか
なくてはならない面倒くささの方が先にたつ。
しかも、持って行く前に連絡しなくてはならないらし
い。
購入したディーラーにとあったが、個人から直接買っ
てるのだからそれはないだろう。

それにしても、何故判ったのだろうか、と不思議に思っ
たが、この書いてる途中で、登録の陸運局で対象の全
車種の所有者を割り出すのか、と思い至った。
多分、そういうことなんだろう。
担当者のぶつぶつ言ってる声が聞こえてきそうだ。
できれば知らん顔していたいところだろうが、そうな
ると三菱自動車の二の舞で、一気に倒産という危険性
が増すし、今は、そういった情報公開性も会社の信用、
格にも直結する世の中なので、如何にテキパキやるか
というのは会社の本質に関わってくる。
それに、「車好き」は五月蠅いし。

さてこの「ヴィータ」だが、中古車市場ではその不人
気を反映してか、かなり安めだ。
実際、今ひとつ個性はないし、外車としてのステイタ
スは端からないし、なんとも中途半端な感じの車であ
る。
もし余裕があって外車を買うという設定で考えた時、
これを買うかと問われれば、まず買わない。
買うとしたら、形が好きなフランス車だろう、飽くま
でも仮定の話だが。
しかし、決して今の車に不満があるわけではない。
動いてくれれば良いのだから。
強いて言えば、燃費か。
それと本音を言えば、「ヴィータ」よりは「ヴィッツ」
の方が、部品代もかからないし、信頼性がありそう
で良さそうだ、ということだ。
結局、振り出しに戻って、愛はないということのよう
だ。
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はしか

2007年05月14日 | Weblog
上智大学が、「はしか」によって一週間ほど完全休講
になるらしい。
このニュースを見て、今でも「はしか」って流行るん
だ、と思った人も多いのではないだろうか。
ともあれ、一週間の休みは、学生にとって結構嬉しい
お知らせのはずだ。
GW明けにすぐさまボーナスGWを貰ったようなもの
だから。
建前上は、学生の本分は勉学にあるのだから、休みの
間にやるべきことはある、ということになるのだが、
自分自身の経験に照らし合わせても、絶対そんなこと
は言えない。
もしその立場だったら、そりゃもう大喜びだったろう。

上智と言えば四谷。
四谷と言えばイグナチオ教会。
しかし、かつての風情のある教会の姿はもうない。
今のモダンな教会は、四谷のランドマークとしては弱
いし、なかなか教会であると認識されるのも難しいの
ではないか。
前の方が断然良かった。

次に四谷と言えば、「鯛焼き」だ。
これは賛否両論。
というより、少数派かな?
文化放送の近くの「わかば」。
若葉町にあるから「わかば」。
今でも、一枚一枚鯛の型で焼くという方法を続けてい
る。
皮も薄めでぱりっとして、餡子も素朴な味の自家製と、
鯛焼きの基本を守っている(ようだ)。
ただ、店の人間が感じ悪いとかネガティヴな情報も見
られる。
個人的には、麻布十番の鯛焼君より「わかば」の方が
好きだ。
甘いものが、むやみに好きだった頃は、食事代わりに
5枚食べたこともある。
全く限度をわきまえない、暴挙である。
これもある種の若気の至りというやつか。
ベルボトムに下駄を履き(中村雅俊か)、ぴちぴちの
Tシャツに長髪、そんな格好で「鯛焼き」を頬張りな
がら歩く。
馬鹿か!
と今なら思うが、そんなものが格好良いなんて思えた
美意識の時代。
笑えます。

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