ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

「24」シーズン...

2007年09月30日 | Weblog


このところ、熟睡できたと思う日が殆どない。
全くないと言ったほうが良いかもしれない。
必然的に、夜中に目が覚めることが多くなる。
と、どうするか。
取り敢えずテレビを付ける。
BSでヨーロッパ辺りの風景を流してれば、ちょうど環
境ビデオ代わりになって見るには良い。
それがないと、映画だ。
殆どしょぼい映画だが、こちらも期待値は高くないの
で質は全く問わない。
その他だと、シリーズ物の「24」とか「プリズンブレ
イク」なんかだとこういう条件の時にはぴったりだ。
まあ、それなりに良く出来ているから。
では、何故条件付なのか。
それは、真剣に見ると、うんざりする可能性があるから
だ。

どちらも、ストーリー展開は上手い。
思わせぶりな人物、次から次と押し寄せる危機、そこ
に挿入される取ってつけたような個人の苦悩(全くい
らないと思うが)、そして一回ごとのその思わせぶり
な終わり方。
次を見たくなるような作りになっているのだ。
しかし反面これは、「あざとい作り」とも言える。
「プリズンブレイク」などかつての「逃亡者」と殆ど同
じだし、基本をしっかり押さえているが、どうも弄ばれ
る視聴者という言葉が浮かんでしまう。
作り手側の意図が見え見えなのだ。

「24」などは、シリーズをシーズンと言い換え、差
別化を図っている、ひょっとしたらこれは、見るほう
に特権的な意識を持たせる効果があるのかもしれない。
いずれにしろ、調子に乗って作り続けている。
確かに、1は、そのアイデアの面白さで(24時間の
出来事を一時間毎リアルタイムで描くという)面白く
見られる。
シナリオライターの勝利である。
評判となれば当然2を作る。
今度はお金をかけられるので、スケールが大きくなる。
その分面白さは増す。
そしてまたまた好評を博す。
当然次は3だ。
この辺りになると、また同じつくりか、と飽きはじめ
る。
或いは、そもそも24時間でこれだけのことが起こる
はずもない、とその前提そのものに疑問を感じ始める。
しかし、世の中には飽きない人間も多い。
次はなんだ、と期待を抱き続ける。
4、5とシリーズは続く。

受け取る側の態度によって、楽しめるか楽しめないか
決まるのだが、これらのシリーズ物は、やりすぎると
うんざりするものなのだ。
基本的には、新聞や雑誌の連載小説みたいなもので、
見始めると次が気になる。
その気になる部分を濃縮強調するわけだが、そこには
程度というものがある。
だから、話は最初に戻るが、真剣に見ると馬鹿馬鹿し
くなる可能性があるので、深夜の朦朧とした状態で見
るのがちょうどということになるのだ。
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2007年09月29日 | Weblog


毎日同じ枝先に止まっているトンボがいる。
今では、毎日会う顔見知りのような感覚を覚えている。
いなくなると寂しくなりそうだ。
大分寒くなってきたし、もう後何日の命だろう。
季節は秋。
でも、寒いのは勘弁してほしい。

ミャンマーでは、軍の弾圧が起こり、日本人が撃たれ
た。
その割には日本政府の対応は鷹揚である。
至近距離から撃たれたのはまず間違い無さそう。
こういう時には、演技でも良いから強くでるべきではな
いか。
どうも国の態度は頼りない。
しかし、国際的対応での一番のネックは、ミャンマー
の軍事政権をを援助している中国である。
自国も似たようなところがあるから、正論を吐けない。
下手をしたら、自分のところに飛び火する恐れもある。
結局、国際外交の力では解決できそうにない。

一番なのは、軍部が内部分裂して一部が民主派に付く
というものだが、特権を捨てるわけないから現実的で
はない。
激しく弾圧したところで、世界の警察アメリカが乗り
出し民主化、これじゃあイラクと同じだが、イラクよ
りは成功する確率は高そう。
中国の出方がどうなのかというのはあるが。
問題は、ミャンマーという国の重要性。
軍事戦略的には、中国に睨みを利かせるという意味で
は少しはあるかもしれないが、それ程重要ではない。
一番は、資源がないということだろう。
アメリカにとっては、大してメリットはない。
それに、都合の良いときだけアメリカ任せでは、国際
的な原則、秩序そのものが無化してしまう。
一番効果的だとは思うが、これも現実的ではない。
そうなると、民主化するための手段は何かあるのだろ
うか。
制裁措置で兵糧攻め、結局はそれだけか。
これも、特権階級の軍部だけは独自のルートで調達し、
苦しむのは一般国民という図式が思い浮かぶ。
何か良い方法はないものか。

一つ良い方法を思いついた。
細木某と江原某を送り込み、軍部の連中を改心させる。
彼らならその力があるはずだ。
その力があるという前提の今の立場なのだから、出来
ないはずはないのだ。
霊に国境はないし、言語は全く問題ない。
是非トライしてほしいものだ。
成功した暁には、勲章でもやって讃えよう。
その前に、カリスマ化して、その国の神になってしま
うかもしれないが。
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リトグラフ

2007年09月28日 | 芸術


先日来た学生時代の友人は、最近「リトグラフ」を始
めた。
最近といっても、もう二年ほどは続いていて、一応と
いうか、そうでもしないと続かないと思うが、教室に
通っているらしい。
周りには、美大を目指す高校生もいれば、所謂典型的
な、「ちょっとイメージの良い趣味をしたい」という
主婦などが多いそうだ。
彼の動機も、それらの主婦と似たようなものだ。
学生時代のクラブ活動は、同じ美術クラブだったが、
そういえば彼の作品らしい作品は見たことがなかった。
当時は、油絵などをせっせと描いていたのだが、全く
彼の作品は覚えてない。
その代わり、マージャンをやったのは覚えている。
頻度では、圧倒的にマージャンの勝ちだった。

そんなあまりに貧弱なクラブ活動体験であったが、そ
れでも「三つ子の魂」というほどのものではないが、
接してはいたので、再び描いてみようという気になっ
たのだろう。
油絵は、ちょっと大袈裟というか、下手に大きいと「無
駄に大きい」という印象を与えがちだし(実際多くはそ
うなのだが)、始末に困るところがあるので、印象も
実際の重さも軽い「リトグラフ」を選んだ。
日本語だと「石版画」といわれる「リトグラフ」だが、
要するに昔の印刷技術なので、木版のように木を削っ
た独特のタッチとかが出るものではなく、描いたもの
を忠実に再現するような仕上がりとなる。
で本当に良いのだろうか。
知ったように書いたが、実は「リトグラフ」というも
のを詳しく知っているわけではないので、ほぼそんな
ものだという程度の認識で話を進めたい。

それで教室では、基本中の基本のデッサンから始める
らしい。
そりゃあ、そうだ。
風景なり静物が描く対象なので、デッサンが出来なけ
れば上手くは描けない。
そんなことはしたことない彼は、自分の下手さ加減に
愕然としたらしい。
全く、やったことないから当然だが、建築士の資格も
あるのだからある程度はいけそうにも思うが、関係な
いのだろうか。
それでも、何度もやってるうちに上達してきて、ある
程度にはなったらしい。
それで、今度は、周りの主婦連中の下手さ加減に呆れ
ている。
「大して変わんないんじゃないの」という言葉は、ぐっ
と飲み込んだ。

いずれにしろ教室では、技術的なことを教えるので、
間違いなく最初より上手くはなる。
色の使い方とかそういうのも技術で教えるのだから、
「一見上手そう」という作品はできるようになる。
そういう「一見上手そう」な作品を求めるから教室に
来るのだから、それはそれで良いのかもしれない、で
はなく、良いのである。
芸術志向であったなら、そもそも教室になんか通うは
ずもないのだから。
それで彼は、山登りが趣味でもあるので、山の写真を
元にせっせと「リトグラフ」を作るのである。
そしてその作品は、周りの主婦連中には非常に評判が
良いということだ。
めでたしめでたし、であった。



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ベジタリアン

2007年09月27日 | Weblog


元フレンチのシェフ中ちゃんは、レストラン営業は止
めて、次のステップに行くつなぎとして、ケーキと喫
茶で営業を続けている。
レストランを止めて一ヶ月ほど経つ。
まだ、周知されていないので、今でもたまに予約の電
話がかかってきたりする。
その次のステップというのは、前に聞いた時点では、
「マクロビオテクス」を基本とした、健康に良い食べ
物を提供する宿泊施設であったが、今回話を聞くと、
その「マクロビオテクス」のトーンがやや下がっていた。
こちらは「マクロビオテクス」というものがどういうも
のかは知らない。
自然食の原理主義的なものかな、程度の認識だ。
それと、菜食主義。
つまりベジタリアンの徹底したものかと。

それで何故、今回「マクロビオテクス」のトーンが下
がったのか探ってみた。
どうやら予想していた通り、その厳格な決まり、つま
り原理主義的な部分がどうにも窮屈に感じ出したよう
なのだ。
あまりに柔軟性がないと中ちゃんは感じたようだ。
中ちゃんの考え方としては、自然の中で自然のものを
食べて成長した鶏であれば、たとえ肉であっても摂取
してもいいというものであった。
飽くまでも、「自然」中心の考え方なのである。
ここで大いなる疑問が生じる。
その「自然」というのはどこからどこまでのことであ
るのかと。
たとえば、人工的なものを排除したものと言った場合、
大気に関しては、厳密に言えばどこであろうがすでに
程度の差こそあれ汚染されている。
植物にしろ動物にしろ、必ず接しているものだ。
つまり、全くの自然というのはすでに存在していない
いということになる。
ここで、その「自然」に関して問うと、多分収拾が付
かなくなるので、あえてスルーすることにした。

自分でも使うが、「自然」という言葉は、使う度ごと
に微妙に内容が言った本人に都合のよいように変えら
れる、相当抽象的で便利な言葉である。
いずれにしろ、原理主義的に使う場合の自然は、どん
どん厳格になり、最終的にはその原理そのものが成立
しなくなる領域にたっするので、そこで論理的なもの
を超える特別な何かを持ち出さないといけなくなり、
なにやら宗教的な色を帯びてくる、というのが大体の
パターンなのではないだろうか。
やはりその前に「適当」という言葉が必要になってく
る。
イージーゴーイングもたまには必要ということだ。

で、トーンダウンした中ちゃんは、小麦粉からグルテン
を抽出する作業を、日々こなしている。
肉代わりの生麩作りをしているらしいのだ。
大豆グルテンじゃ駄目なの、と聞くと、あれは旨味調
味料を添加してるから駄目だ、と言う。
普通に出回っている大豆グルテンはそういうことらし
い。
いずれは、小麦も自家栽培でやって行くつもりのよう
だ。
どこまでやるのか、傍からすると見ものであり楽しみ
でもある。
ただ、こちらとしては、「より安全な食材で美味い」
ということだけを望むのである。
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ワイン

2007年09月25日 | 食べ物


フランスの、ワイン業界の内幕を追ったドキュメントを
見たが、「いずこも同じ春の日ぞ(で良かったか?)」
どこも同じような状況である、と改めて認識する内容
であった。
グローバリゼーションの波は、容赦なく押し寄せる。
分かりやすく、市場原理と言い換えた方が良いか。
つまり、ワイン業界も、売れ筋の味というものがあって、
どこもそういう味を目指し、結果、伝統的な土地の個
性を持ったワインが駄目になっていく。
そして、伝統的な作り方ではなく、科学的な方法でその
味を出す、というより出せるのだから、土地の個性な
ど益々必要でなくなる。
手作りで代々の味を守っているところは、その市場原
理で、つまり売れないワインを造り続けることによっ
て退場を余儀なくされる。

その市場原理を引っ張るのは、アメリカ資本、或いは、
権威を持ったワイン評論家である。
その現実に直面すると、当事者が問題だと思いがちだ
が、それを支持している一般ワイン愛好家あっての彼
らなので、彼らに責任があるというのは筋違いとなる。
問題なのは、一般消費者。
一部の権威に誘導されるという部分はあるが、実際そ
ういう(売れ筋の味)ワインを美味しいと思うのだか
ら、いまの状況を作ったのは、一般消費者ということ
になる。
そしてもっと肝心なのは、そういう味を好む一般消費
者にとって今の状況は全く問題ではないということ。
つまり、問題そのものが存在してないのだ。
コンビニ好きに、現在の日本の食文化が駄目になった
のは、コンビニに代表される食べ物に慣らされた日本
人の味覚の劣化によるところが大きい、などと言って
も、その味が好きなコンビニ好きにとっては、全くの
余計なお世話というか、彼らにとってはそれがスタン
ダードなのだから、同じように問題は存在しない。
マーケティングによる売れ筋がそういう品なのだから、
むしろ多数派は彼らで、批判的な人間がおかしいという
ことになってしまう。
ワインの世界もそういうことのようだ。

個性がなくなって面白くないと思うのは、本当極僅か
しかいない(多分)。
どんどん味は画一化されているので、郷愁と共にそう
いう言い方をしがちだが、実際にそういう個性的な味
を好むかどうかとなるとかなり怪しいのが現実。
味覚は、思った以上に早く平準化されているのだ。
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新首相

2007年09月24日 | Weblog


麻生さんというのは、飲み屋の親父にはうってつけだ
が、首相としてはあまりに知性を感じない(過去の首
相がどうであったかはこの際不問)。
しかし、大衆演劇のスターの資質はある。
一方福田さんは、その点では全く麻生さんには敵わな
い。
結局、その資質のあるなしが、麻生さんの善戦につな
がったということなのだろう。
福田さんは、冷たく感じるから、人気面では望めない。
個人的には、なんとなく「のらくろ」のイメージがあ
るのだが、それは特殊な感覚か。
しかし、攻撃する方からすれば、福田さんはやりにく
いのではないか。
どこか飄々として、つかみ所がなく、本心ではまずい
なと思っているかもしれない。
自民党も、その辺のところは分かっていての人選とい
う気がする。
そんな老獪さはまだまだ健在らしい。

笑っちゃうのは、小泉チルドレンと言われる連中。
親分をもう一度担ぎ出そうとして失敗。
傍から見てると、滑稽としか思えないのだが。
そもそも小泉さんの政治って、どこが良いのか未だに
良く分からない。
「真夏の夜の夢」の夢が、本当に夢だったと気付いた
時、首相が安倍ちゃんだった、という側面もあったの
ではないだろうか。
間違いだらけの人選連発で、自爆を早めたということ
も勿論あるが、幻想が大きかった分、誰がやっても同
じ運命だったのではないかと思う。
ただ、お坊ちゃん首相は、思想だけは教え込まれたが、
問題解決能力までは備えてなかったので、全くの不適
任であったのだが、そこが分からなかった自民党の見
る眼のなさは救い様がない、と思っていたのだが、今
回はちょっと揺り戻しが働いているようで、鵺のよう
な自民党も相変わらずしぶといと思わざる得ない。
果たして福田さんでどうなるのか。
前回、前々回と違って、今回はちょっと興味がある。



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城の名前

2007年09月23日 | Weblog


昨日、「烏城」は「岡山城」のことで、「熊本城」は
そうではないということを書いたが、あるところから
の情報で新事実が分かった。
どうやら「熊本城」も「烏城」と呼ばれているらしい
のだ。
というと、こちらの記憶も、強ち間違いではなかった
ということになる。
ついでに「松本城」も「烏城」と呼ばれているという
ことだ。
こちらは身近すぎてノーマークだった。
何のことはない、黒っぽい城は大体同じような発想で
「烏城」と呼ばれているというのが正解、のようだ。
但し、本家と言おうか、昔から定着しているのは「岡
山城」で、しかも発音が違い、カラスジョウではなく
ウジョウと言うらしい。
「烏城」一つで、いろんな事実が分かってきた。

それにしても、黒いからと言って「烏城」ではあまり
に発想が貧困ではないか。
別に「燕城」でも良さそうなものなのに。
燕は黒より青よりのイメージだからか。
そうやって考えると、あまり黒のイメージの生物って
数は多くない。
ついつい烏になってしまうのも致し方ないような気が
してきた。
しかし、「とり」(漢字で書くとカラスなのかトリな
のか分からないのでひらがな表示)限定というのが決
まりのようになっているが、これも不思議と言えば不
思議だ。
権力の象徴としての天に向かうイメージがそうさせる
のか。
確かに、地面を這うイメージの「鼠城」では、威厳が
保てないということになりそうだし、「油虫城」なん
て付いたら完全に嫌われ者になりそうだ。

逆に良さそうなのは、窓の周りを朱色で縁取って「朱
鷺城」。
攻める方も、特別天然記念物では攻められまい。
屋根瓦にいろんな色を混ぜ「軍鶏城」なんてのも良さ
そうだ。
しかも、強そう。
「梟城」というのも、なんだか思慮深い城主がいそう
で良い。
これが「ミミズク城」となると、可愛さは増すが威厳
もなくなる。
塀を黒白のまだらにして「山蝉城」というのもいけそ
うだ。
当然(何が当然なのか分からないが)「隼城」はあり
だ。
基本的に猛禽類はありだろう、その直接的イメージか
らして。
しかし、「ノスリ城」「大鷲城」「熊鷹城」「犬鷲城」
は勿論ありだが、「チョウゲンボウ城」「ツミ城」「サ
シバ城」「ヨタカ城」は今ひとつの気がする。
「ハチクマ城」はどちらに入るか、漢字で「蜂熊城」
だったら辛うじて合格ということだろうか。
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クイズ番組

2007年09月22日 | Weblog


テレビ番組の中では好きで、ついつい見てしまうの
が「クイズ番組」。
脳の活性化のためにも、という思いもあるが、実際は、
「タレントの出来の悪さに悪態をつく」という楽しみ
の方が強いかもしれない。
作る側もその点は意識して、必ずひどいレベルのタレ
ントを用意する。
つまり「タレントの無さを売りにしたタレント」とい
う存在自体矛盾した「タレント」が出現する。
元々タレントと言われる連中が、本当にタレントがあ
るかというのは疑問だが、こういう「タレント」もあり、
という現実は、日本だけの現象のような気がする。
にぎやかし芸の中の阿呆芸という位置付けか。

しかし、結局そんな番組を見て楽しんでいるのだから、
こちらも同じようなものということになってしまうの
だろうか。
ある種のカタルシスを味わっているのは事実だし。
しかし、決して番組によってある事柄についての興味
が増し、それについての知識が深まったことはない、
これもまた事実。
つまりその場限りの知識が通過しているだけだ。
しかも素通りで。
にも拘らず、何となく勉強になったような気がする、
と思えるようなのがクイズ番組で、これがまた支持さ
れている理由なのだろう。

それにしても、熊本の人間が「姫路城」と「熊本城」
を間違えるか。
「白鷺と烏では天と地である」。
これを読んで、違うだろうと思った人はどれほどいるだ
ろうか。
つまり、これは内容が間違っているのだ(と言ってる本
人が実際間違って書いて今気付いたのだが)。
実は、「白鷺城」が「姫路城」であるのはあまりに有
名だから問題ないが、「熊本城」の別名を「烏城」とば
かり今さっきまで思っていたのだ。
正解は「岡山城」が「烏城」であった。
こんなところで一つ勉強になってしまった。
「岡山城」が「烏城」と呼ばれていることを知っている
人は、岡山県以外ではどの程度であろうか。
それと、「熊本城」を「烏城」と思ってた人がどれほど
いるのかそちらも興味がある。
「熊本城」も黒っぽい印象があるので、ずっとそう思っ
ていた。

しかし、ここで勉強になったなどというと、今日の内
容と矛盾してしまうのだ。
つまり、クイズ番組で知識が深まることはないし、とい
う内容と。
ということで訂正。
たまにはそういうこともある、ということでした。


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哀愁のヨーロッパ

2007年09月21日 | 音楽


往復20キロ程度の距離を「ロードレーサー」ですっ
飛ばしたら、と言いたいところだが、実際はゆっくり
走ったら、結構足にきてしまった。
今年二度目の10キロ以上の走行なのだが、全く、こ
んな情けない脚力では話にならない。
どうしたものか。
もっと頻繁に乗れば良いだけのことだ。
というわけで、もう少し乗るようにしよう、と最近は
思っているのだが、思っているだけで終わる確立もか
なり高いことも分かっている。
どうなることやら。

WCラグビーは(あまりに蔑ろにされているので無理
やり取り上げ)ウェールズ相手に大差の負け。
残る相手はカナダ。
そのカナダはフィジーに負け、結果最終戦が最下位争
いとなる。
25日、どちらが勝っても悲願の一勝。
カナダ相手だったら勝ってもおかしくないが、こうい
う場合、最後の体力勝負になるので、大体余力のない
日本が負けることとなる。
1勝してほしいが、予想は38対13で日本の負け。

話は自転車に戻るが、この前走ったのは、川の土手沿
いの道が多かったのだが、その道は舗装もされてなく、
どう見ても「マウンテンバイク」用というものだった。
幸いにも、草は刈ってあるのでスポークに絡みつくこ
とはなかったが、それでも「ロードレーサー」では走
り難い。
そんな抵抗のある道を、エッチラオッチラ自転車を漕
ぐ姿はなかなか「哀愁のヨーロッパ」であるのだが、
実際、そのメロディーが一瞬頭を過ぎるのだから困っ
たものだ。
タイトルからすると、まるで「ポールモーリア」か、とい
う「サンタナ」の曲は、やはり一歩間違うと、ムード音
楽だ、と今でも思う。
しかし、この手のメロディーが、「ふと浮かびやすいメロ
ディー」の壺を押さえているのも事実だ。
「マイルス」だ「キングクリムゾン」だと言いながら
も、「哀愁のヨーロッパ」。
まあ、「オリーブの首飾り」でないだけでも良いので
はないだろうか。
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買い時

2007年09月20日 | Weblog


先日、マイルスの「ゲットアップウィズイット」を、中
古で3500円という値段で買ったのだが、同じアマゾ
ンで他のを見ているとき同じものが眼に留まったので
見てみると、新品で2500円ほどで売られていた。
こういう場合、物凄く損したような気になる。
なんだか詐欺にあったような気分とでも言おうか。
一言で言えば「そりゃあないぜ」だ。

散々探し、自分では掘り出し物を買ったつもりが、それ
より安いものが身近なところにあった、などという経験
は誰しもあると思うが(ない人もいるか)、あの探す
時の労力がその瞬間無駄になったと思うある種の喪失
感。
「失われた時を求めて」というのは、案外日々繰り返
されていることなのである。
と、格好つけたいところだが、今回は、単に価格の問
題で、損したと思っただけのことだった。
こういう場合は、なるべく早く忘れることである。
高く買ったマンションが、いきなり半額で売り出され
たのと同じケースだが、こちらは幸いにも直ぐ忘れら
れる値段なのだから。
それに、そのCDはレコードでは持っているが、それ
故聴かれなかったので買ったわけで、しかも久しぶり
に聴いてやはり良かったので、それだけで十分といえ
る。

それより困ることは、いろいろ検索している時に他の
ものまでほしくなってしまうことだ。
実は今回も、注文してしまった。
CDではなくDVDを。
この間観た「長江哀歌」のジャ.ジャンクーの他の作
品を。
「青の稲妻」と「プラットホーム」という作品だ。
本当は、取り敢えず一枚で良かったのだが、二枚買う
と割引になるという、売り側の作戦にまんまと引っか
かったというわけだ。
「うーん、ちくしょう」であるが、多分地元の「蔦や」
では取り揃えてないし、観る機会もないと思うので、
この際というこちらの事情も重なったのでその気になっ
てしまった。
まあ、「ほしい時が買い時」、という言葉を信じよう。

それにしても、なんだかんだと自分に言い聞かせない
と納得できないのか、と自分自身に言いたい今日この
頃ではある。
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鮭のパスタ

2007年09月18日 | 食べ物


去年も一度やったのだが、今年もその季節到来。
と言っても、鮭の季節ということではなく、バジルが
「最後の勢い」を迎えているという意味での季節だ。
いつものトマトと合わせるだけでは、流石に飽きる。
そこで何か違うものはないかと去年思いつき、やって
みて、思いのほか美味くてそろそろ今年も、というこ
とになったのだ。
確か去年は、自家製の「ジェノヴェーゼ」を使ってし
まおうという事情があった。
今年は、まだその段階ではなく、フレッシュバジルが
一杯あるという状況なので、そのバジルをたっぷり使
うことになった。

パスタは「フェデリーニ」。
去年は「スパゲティーニ」だと思った。
何故「フェデリーニ」に変わったかというと、湯で時
間が短くて済むという、それだけの理由。
鮭は普通に売っている「塩鮭」。
今のはあまりしょっぱくないので、そのまま使う。
普通に焼いて、身をほぐす。
後は、オーソドックスな作り方で、ニンニク少々オリー
ヴオイル、アンチョヴィペースト、ほぐした鮭、白胡椒
で味付けだ。
最後の仕上げに、たっぷりのバジルをざっと合わせ出来
上がり。
塩はアンチョヴィと鮭の塩分のみ。
今年は更に、お皿に持った後「ロケット」(これも勢い
良く成長している)なんぞを散らした。
まるで、どこかの店のパスタだ、と一人ほくそえんだが、
味のほうはどうなのだろうと一口食べると、結構この「ロ
ケット」(イタリアだとなんて言ったか、また忘れてし
まった)が効果的で、いいアクセントになっている。
勿論、バジルは鮭と合う。
つまり、今年も充分美味しい「鮭のフェデリーニ」が完
成したというわけだ。
塩鮭も、こういう風に使うとお洒落な一品になる。
元々そんなに好きではないものだが、自分で言うのも何
だが、これだったら食べたい。

と、今思い出した。
「ルッコラ」だった。
この名前も「しょっちゅう忘れる単語」の一つだ。
間違いなく年々そういうのは増えている。
そう言えば、先日スノッブなM氏と話していた時、フリッ
ツ.ラングの映画のタイトルがお互いに思い出せなく難
渋したのだが、そんなのは別に珍しいことでもないの
で良いのだが、ある地名が出てこなかったのは非常に
気分が悪かった。
その地名はエリック.ロメールの「モード家の一夜」の
舞台になっているところで、こんな例を出したって殆ど
の人はピンと来ないのは分かっているが、M氏は一通り
知っているのでそう聞いたのだった。
こちら以上にぼけているM氏は勿論分からなかった。
地中海に面した、スペインの国境に近い方の、大学のあ
る都市だよ、ほら、ということになるのだが、結局埒が
明かず分からずじまい。
これも後でふっと思い出した。
正解は「モンペリエ」。
よく、一生懸命思い出そうとすることが脳の活性化につ
ながる、などという言い方をするが、あれは本当か。
それに倣えば、毎日している筈なのだが、どんどん思い
出せないのが増えるのは一体どういうことだ。

その後確認してみると「モンペリエ」は「モード家の一
夜」とは関係ないことが分かった。
「モンペリエ」が舞台なのは、何の映画だったんだ。
こちらは、とても思い出せそうにない。
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世界大会

2007年09月17日 | Weblog


現時点で、世界大会が三つも行われているんだ、と改
めて気付くと、どこまでスポーツ好きなのか人間は、
と呆れてしまうような現実があるのだが、同時に、娯
楽の最高峰としてのスポーツの実力も思い知らされる。
批判的な思いと関心と両方あるから、自分でも困った
ものであるのだが、ブログのネタとしては、やはり重
宝。
現実的には、ありがたい。

ということで、まずはWC女子サッカー。
「ドイツ戦」で決勝リーグに行けるかどうかなのだが、
かなり難しい。
次はWCラグビー。
結局オーストラリア戦は危惧したようなスコアーだっ
た。
どうやらオーストラリア戦は捨てゲームにして、次の
フィジー戦に賭けたようなのだが、そのフィジー戦も
非常に良い試合だったらしいが、惜しくも負け。
これは予想通りの、全敗の可能性が高い。
それにしても、日本では人気がないというか、気の毒
なほど注目されない。
野球なんかより、遥かに国際的なのに。
やはり、タレントを呼ばないと人気化しないか。
なんとも情けない日本のスポーツ事情だが、こういう
点は厳しく批判したほうが良いのでは、と思うが、結
局行き着くところは商品価値なので、人気があるなし
が一番重要となり、そのためにはタレント込みの人気
化が一番有効となるという事実の前に沈黙、ってとこ
ろなのだろう。

最後は世界柔道、ではなくJUDO。
それにしても勝てないのだが、今や柔道の主導権はヨー
ロッパが握っているという現実が、彼らよりのルール
改正に直結して、益々日本人が勝てなくなるという流
れを作っているようだ。
今の柔道は「ジャケットを着たレスリング」と表現さ
れているらしい。
力勝負になったら、日本人は不利だ。
グローバル化すると相対的に日本が沈下するというの
は、相撲と一緒。
それにしても、日本的な柔道、つまり「柔よく剛を制
す」「きれいに一本」を捨ててまで国際化する価値は
あるのかという根本的な疑問は消えない。
柔道とJUDOの違いは大きい。
もう充分国際化したのだから、日本は「柔道」の道を
歩むで良いんじゃないか。
オリンピックのメダルに汲々としない態度こそが、「道
的」と感じる。
美学を大切にするなら、そのくらいのすっきりした毅
然とした態度を示してほしい。
ここだけ見れば、「国連を脱退した松岡」待望論のよ
うになってしまうが、陶酔ではなく淡々、そうやって
ことを進めれば、柔道ナショナリズムなどという批判
も起きないだろう、かな?
しかし、日本人のメダルフェチ、特にオリンピック好
き振りはすごいから、絶対そうならないことは分かっ
ている。


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スイス

2007年09月16日 | Weblog


T君との会話の続き。

「T君がキッシュで寝不足とすると、こちらはサッカー
で寝不足だよ」(私)
「えっ、見たんですか、で結果はどうだったんですか?」
(T君)
「今気付いたんだけど<キッシュで寝不足>って、なん
だか語呂が良いね、というのは置いといてサッカーだけ
ど(この前のスイス戦の話)、ぱっと目が覚めてテレ
ビを付けるとちょうど前半の15分くらいのところで、
スコアーを見たら0-2で負けていて、おいおいどう
なってるんだと見始め、あまりにスイスの動きが良く
てこりゃあ完敗だな、と思ったのよ」(私)
「それで?」(T君)
「ちょうど、ワールドカップの時のオーストラリア戦
の時のような雰囲気を感じたんだけど、つまり絶対負
けるといった、それでも30分過ぎくらいから日本も
ボールをキープできるようになって、何とか落ち着い
てきたんだけど、とても点が入りそうな気はしなかっ
た」(私)
「ふむふむ」(T君)
「結局0-2で前半終了、ここで考えた、後半をこの
まま見続け気分が悪いまま寝ようとしても、どうせ良
く寝られないから、もう見るのはよそうと」(私)
「じゃあ、前半だけしか見なかったんですか?」(T君)
「そう、でも結局その後良く寝付けなかったので同じ
ことだったんだけどね」(私)
「ちゃんと最後まで見ないと」(T君)
「ここが弱いところなんだよね、勝ってほしい気が強
すぎると力が入って疲れちゃうんだよね」(私)
「で、結局試合はどうなったんですか」(T君)
「なんと、後半4点も入れて日本が勝ったんだよ」(私)
「スイスって結構強いんですよね」(T君)
「まさかそんな相手に日本が、4点も入れるとは思わ
ないじゃない、見とけば良かった、と本当後悔したよ」
(私)

その後、得点経過をT君に説明し、スイスつながりで
「ラクレット」の話となった。

「ラクレットって美味いですか」(T君)
「美味いよ、と言っても親戚のところで一回ご馳走に
なっただけだけどね」(私)
「というと、あのフランスの」(T君)
「そうそう、ラクレット専用の鉄板でラクレットを焼
いて、それをゆでたジャガイモとかハムに乗せて食べ
るんだけど、香ばしく焼けたラクレットがなんとも言
えず、いくらでも食べられそう」(私)
「チーズのおこげって美味いですものね」(T君)
「焼くとこだけ見れば、もんじゃ焼きに近いかもね、
食べたこと無いけど」(私)
「そうですか?」(T君)
「はい、適当に言いました」(私)

「レストランなんかだと、専用のヒーターを使って
溶けた部分をこそげ落とし食べるみたいだけど、家庭
では専用鉄板というのが一般的みたいだね」(私)
「皆で突付いてわいわい食べる、その構図もんじゃ焼
きにやっぱり近いかもしれませんね」(T君)
「でしょう、しつこいようだけど食べたこと無いけど」(私)
「お好み焼きでも良いですけど」(T君)
「でも、チーズが溶けてどろってところが喜ばれると
ころ、もんじゃ焼きのどろどろが喜ばれるのと同じな
んだよね、イメージ的には、またまたしつこく食べた
こと無いけど」(私)
「一回食べてみれば良いじゃないですか、もんじゃ焼
きも」(T君)
「ラクレットは食べたいと思うけど、もんじゃ焼きは
一回も食べたいと思ったことないんだよね、多分この
先もないと思うけど」(私)
「確かに、食べるべき食べ物、とは僕も思いません」(T君)
「でしょう」(私)
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キッシュ2

2007年09月15日 | 食べ物


昨日の続き。

「ところでそのキッシュだけど、出す時は温めて?」(私)
「はい、電子レンジで」(T君)
「やっぱり熱いほうが美味いものね」(私)
「ベーコンなんかが入ってるのは、冷たいと今ひとつ
ですからね」(T君)
「そうだよね、それに少々上手く焼けてなくても誤魔化
されるし」(私)
「今回も、全体ではまあ成功なんですが、ちょっと卵の
部分に穴があったりで」(T君)
「焼く時の温度が高いのかもよ、ほら、茶碗蒸しなん
かに(すが入る)というのがあるけどそれと同じ原理
の」(私)
「ああ、なるほど」(T君)

と、男二人で主婦のような会話をしていたが、ここで
やっとそれらしい話題に変わった。

「ところで、この前貸したマイルスの(ビッチェズブ
リュー)どうだった?」(私)
「最高です」(T君)
「だろう、こっちなんか久しぶりにアマゾンで注文し
ちゃったよ、当時の他のお気に入りを」(私)
「何ですか?」(T君)
「(ゲットアップウィズイット)っていうやつ」(私)
「どういうのですか?」(T君)
「二枚組みで、30分くらいの曲がそれぞれ入ってい
て、ちょっとミニマルミュージックの要素も感じられ
る当時から好きなアルバム」(私)
「レコードでは持ってるということですか」(T君)
「そう、あのころのマイルスは、フュージョン充実期
で、コンサート毎に一アルバムと言った感じなんだけ
ど、(ゲットアップウィズイット)はその中でもちょっ
と異色で、あまり爆発的な部分はなく、全体が抑制さ
れた感じでそれがまた魅力なんだよね」(私)
「良さそうですね」(T君)
「気に入ると思うよ、何故かというと、マイルスの中
でも一般的にはそれ程人気無いから」(私)

一般的に人気ないというのは、二人の間では「魅力的」
という言葉と同義語になりつつある。
受けないというのも同じ。
プログレッシブ野郎のT君の音楽的趣味と、こちらの
音楽的趣味はかなりの部分重なる。
メジャーとマイナーで言えば、間違いなくマイナー。
T君の場合、音楽的趣味に止まっているからまだ良い
が、こちらの場合は、全てにおいてマイナーとなりつ
つある。
と言って、メジャーが好きになりたいと思っているわ
けでもないので良いのだが、話が合わないという場が
多くなるということだけは覚悟しないといけない。
というか、すでにそういう状態。
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キッシュ

2007年09月14日 | 食べ物

T君のカフェへ行くと、T君は「いやあ、風邪引いちゃ
いましてね」となにやら調子悪そうであった。
原因を聞くと「寝不足がちょっと続いて」と言う。
もともとちょっとひ弱なので、ちょくちょく風邪を引
いたりするのだが、その寝不足の理由を聞いてみた。

「午前三時過ぎまでキッシュを作ってたんですよ」(T君)
「キッシュ?」(私)
「ええ」(T君)
「何でまた?」(私)
「ちょっとお昼用に頼まれまして」(T君)
「キッシュって、どんな?」(私)
「キッシュロレーヌです」(T君)
「皮も作ったの?」(私)
「ええ」(T君)
「そりゃあ時間かかるわ、それにしてもよく皮から作っ
たよね」(私)
「皮って言ってもタルト生地タイプで、パイ生地タイ
プじゃないですよ」(T君)

ここで言ってるタルト生地というのは、クッキーのよ
うなタイプの生地のこと、パイ生地というのは層になっ
たあのタイプ。
本来は、タルトもパイも同じ意味で、フランス語と英
語の違いだけで、生地のタイプを表わすものではない。
だから、タルトと言っても、層のタイプもあればクッ
キータイプもある。

「どちらにしても、皮が上手く焼けるかがキッシュの
ポイントだろう?」(私)
「空焼きしたりして、結構上手く焼けました」(T君)
「良くだよね」(私)
「でも、時間かかりました」(T君)
「そりゃあそうだよ、普通生地は予め用意するものだ
もの、それより最終的に成功したのが不思議」(私)
「僕も、そう思いました、途中、もうどうにでもなれ
と思いましたもの」(T君)
「冷凍パイシートを使えば済んだことなのに」(私)
「次回はそうします」(T君)

「あと、キッシュロレーヌだと、ベーコンが旨くないと
駄目じゃない、スーパーのベーコンじゃあ」(私)
「そうなんですよね、でもちょうどブロックがあった
んで、それとグリュエールチーズもあったし」(T君)
「なかなかT君も素材にはうるさいから、ポイントは
外さないね」(私)
「ええ、まあ、味はそういうところで決まりますから
ね」(T君)
「残念ながら、食べる方はその辺のところが判らない
という現実があるけどね」(私)
「良いんですよ、自分が納得するか、それだけですか
ら基準は」(T君)
「そうじゃないと、馬鹿馬鹿しいだけだからね」(私)

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