ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

アンチョビ

2006年10月31日 | 食べ物


アンチョビのスパゲティ(スパゲティーニ)を食す。
キャベツとアンチョビという組み合わせで。
嘗ては、アンチョビのスパゲティといえば、アンチョ
ビとニンニクだけのものだったのだが、いつからかこ
のキャベツと合わせるものがポピュラーとなった。
確か、どこかのイタリアンが始めたのがきっかけだと
思ったが。
やってみると、結構旨い。
以来、キャベツがあるときはこれで行っている。

アンチョビは、最近は使いやすさからペーストが殆ど
なのだが、この前瓶詰めをもらったので、久しぶりに
フィレを使った。
まな板が生臭くなったり、オイルでべたべたしたりで、
今ひとつ使い辛い食材であるが、食材としてのポテン
シャルは高いので、特に、パスタには絶対欠かせない。
聞くところによると、本場には、日本のようなしょっ
ぱいばかりのアンチョビではなく、そのまま食べても
旨いやつがあるらしい。
一度、食してみたいものだ。

しかし、日本にある普通のアンチョビ(アホハタとか)
を初めて食べたとき、旨いと思った人はどれほどいる
だろうか。
まず考えられるのは、オイルサーディンと間違えて食
べて、「ゲッ、腐っている」という反応。
兎に角、使い方が分からないので、開けたはいいがし
ょっぱいだけのものに閉口して、結局廃棄、なんてパタ
ーン多かったと推測する。
いまだと、「サラダニソワーズ」には欠かせない、な
どと気取ったことも言えるのだが、そんなのもこの十
年ほどの話だろう。

今現在、田舎のスーパーでも普通に買えるようになっ
ていることから考えても、一応食材としては認知され
たようだが、一体どうやって使ってるのか、非常に興
味がある。
ピザのトッピングで使ったりしているのか。
個人的には、しょっぱくてあまり好きではないのだが、
ピザメニューではすっかり定着している。
後は、バーニャカウダーか。
しかし、都会ならまだしも、田舎じゃね。

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「抵抗」その後

2006年10月30日 | 映画


ブレッソンの「抵抗」を見終わった蕎麦屋の主人は、
やっぱりこういう映画の方が良い、という感想を漏ら
した。
まあ、娯楽映画は娯楽映画で気楽に楽しめば良いし、
この手と比較してもあまり意味は無い。

確かに、映画の個性という観点からすれば、ほかとは
違う明らかな差異が感知されなければ、見る価値が無
いとは言える。
その点ブレッソンは、「ブレッソンの世界」という確
固たるものがあるから、代替不可能な個性というもの
を充分に堪能できる。
画家の作品を見るのと同じ感覚、と言えばよいか。
娯楽映画とは根本的に違う、同じ映画という名が付く
別物が存在している、ということなのでしょう。

そうなると違う監督の作品も紹介したくなる。
エリック.ロメールあたりが良いか。
まずは、秘蔵のヴィデオから「モード家の一夜」なん
かを、と密かに思っているのだが。

そう言えば、昨日のマラソン親娘は、なんとか完走し
て(ハーフマラソン)、その後温泉に入りその「蕎麦
屋の主人」の蕎麦を食べに行った。
時間はすでに2時過ぎ。
ゆっくり食べてきたと思ったら、店は、同じようなマ
ラソン帰りの客で大賑わいだったらしい。
大盛況に、思わずにんまりだったのではないだろうか。
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マラソン

2006年10月29日 | Weblog
本日、地元ではマラソン大会(諏訪湖マラソン)が行
われる。
それに参加すべく、学生時代の友人がわざわざ神奈川
から来た。
しかも、娘を同伴で。
年頃の娘と親父が一緒に走る、これって結構世の親父
どもの夢だったりするのではないか。
とりあえず、コミュニケーションが取れている証なの
だろう。
今時、珍しい光景、と思う。
マラソンを全くしない自分からすると、本当ご苦労さ
んの世界なのだが、やるほうからすると楽しみなのだ
から、余計なお世話というものだろう。

考えてみると、今まで長距離を走ったのは、高校のと
きに100キロ強歩というもので走ったのが唯一だ。
これは、最初の十数キロを走って、後は歩いたり走っ
たりと、夜中の睡魔との戦いがポイントの、今から思
うと酔狂なイベントであった。
確か、昼の三時ごろスタートで、早い人間だと走りっ
ぱなしで十時間ほど。
一般生徒である私の場合、翌朝の八時ごろの到着だっ
たと記憶している。
何箇所かに関門があり、それぞれ制限時間が設けられ、
脱落していく生徒は脱落していくというもの。
いやになれば、自らギブアップ宣言して止められるの
だが、必ずその前に尻をたたかれ、大体は、しぶしぶ
次の関門に向け歩き出すといったことになる。

今のように、高性能のジョギングシューズなど無い時
代、最初のランニングで豆だらけになる。
それがつぶれて、その下から新たな豆が、といった過
酷と言えば過酷な強歩であった。
両足で、十五六できたと思う。
そうなると靴が履けないので、ビーチサンダルのよう
なゴムぞうりを履いた。
あんなもので、ぺたぺた歩いたり走ったりしたのだか
ら、長閑と言えば長閑だ。
実際、当時は夜中に車など走ってなかった。
その代わり街灯も無かったので、完全に闇の世界だ。
その時聞いた、ウマオイの鳴き声は今でも覚えている。
それと、突然闇の中から聞こえた赤ちゃんの泣き声も。
ホラーですね。

どういう訳か、最後の五キロくらい再び元気になって
走ってゴールして終わったのだが、あれも一種のラン
ナーズハイだったのだろうか。
しかも、そこで七八人抜いて良い気持ちになってるん
だから、幸せというものである。
最後に、このイベントの趣旨である、「苦しいことを
乗り越えることによって自信を植えつける」に関して
は、いまだに実感するに至ってないことをここに報告
する。

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51

2006年10月28日 | Weblog
この数字は、野球選手の背番号とかそういうものでは
なく、日本の「報道の自由度」世界ランクだ。
「国境無き記者団」の調査によるランキングらしいの
だが、まず、「国境無き記者団」というものがあるこ
とにちょっとびっくり。
「国境無き医師団」には少々関心はあるが、「国境無
き記者団」とはねえ。
まあ、それは置いといて、日本のランクだ。
51位。
ちょっと低いんじゃないか、と多くの日本人は思うの
ではないか。
サッカーのFIFAランクだったら、それほどの違和
感は無いが、一応先進国の、曲りなりにも民主的な国
の日本としては、「うーんどうだろう」であろう。

低くなった原因の一つには、「記者クラブ」の存在と
いうものがある。
閉鎖的な仲良しクラブ的「記者クラブ」は、前々から
批判されているが、依然として存在し続けている。
なあなあ体質を生みやすいこの「記者クラブ」は、報
道の自由という観点からすれば、邪魔な存在だ。
しかし、属している人間からするとやり易いし、心地
良い。
多分、自分たちで改善することは無いだろう。

次に問題となったのは、タブー。
つまり皇室関係の記事が書けない。
これは、右翼の実際の圧力を恐れてというより、自分
たちで自主規制してしまう、その姿勢が問題というこ
とのようだ。
要するに、度胸が無いわけだ。
たとえば、石原都知事に対してのインタビューを見て
もその辺の腰の弱さは分かる。
恫喝されると反論できない姿は、一言、情けない。
ジャーナリズムを放棄しているようにしか見えない。
ひょっとして、ロシアのように、闇に葬られる危険が
日本にもあるということなのか。

結局、今の日本には真のジャーナリズムはない。
のかな?
スポーツにだけ関心を向けさせようとしている、とし
か感じられない今のマスコミの現況を見ていると、国
民は、スポーツで感動して幸せになってれば良いんだ
よ、という声しか聞こえてこないのだ。
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日本シリーズ

2006年10月27日 | Weblog
日本シリーズも、呆気なく日本ハムの優勝で終わった、
と言っても、全く興味は無いのだが、いつも思うこと
だが、「ビールかけ中継」というのはそれ程のニュー
ス価値があるのだろうか。

レポーターも一緒になって感激を分かち合う、それを
見た視聴者も「感激」を共有しろ、そんな図式を意図
しているのだろうが、はっきり言って、見たくないし、
面白くも無い。
どの局も「いかにわれわれは感激しているか」、とそ
んなところを競っているようにしか見えない。
一言、レベル低過ぎ。

そして、またまた新庄にスポットライトが当たってる
ようだが、これも本当どうでもいいことだ。
日頃から、なにやら幼稚なパフォーマンスで人気を得
ているのだが(テレビ的には所謂美味しい素材という
のだろう)、しかし、こぞってマスコミがもてはやす
のってのはどうだろうか。
個人的には、いつも違和感を感じる。
こんなことを感じる方が少数派なのは分かっているが、
なんだかねえ。

基本的に、野球でもなんでもそうだが、人気コンテン
ツがほしいだけのマスコミは(特にテレビ)、その為
だったら幼稚だろうが馬鹿だろうが、物でも人物でも
なんでもいいから、スター化させて兎に角人気化させ
たい。
結果、視聴率が上がれば良いわけだから、良識や倫理
などというものは二の次だ。
典型的な、数の論理の世界。
そして、これが一番問題なのだが、その中身が溶融し
たというかメルトダウン寸前のテレビが、一番影響力
を持っているという事実。

と、大袈裟な表現ではあるが、実際のところ今のテレ
ビ界というのは、どれほど腐っているのか、或いはま
だまだ捨てたものではないのか、どっちなんだろう。
とりあえず、マスコミ批判をしてればすっきりすると
いう我々の(私の)事情は置いといて。
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新そば

2006年10月26日 | 食べ物


久しぶりに、初めての蕎麦屋に入った。
予定していたところが臨時休業で、急遽近場で済ます
かということになって、目に付いたのがたまたまその
蕎麦屋だったというわけだ。

まずは、ブンガク的食べ物ブログ調で。
凛とした空気に包まれ、山々は色付き始め、八ヶ岳も、
刻々と変化する日の具合により様々な表情を見せる。
そんな雄大な八ヶ岳を仰ぎ見るところに、その蕎麦屋
はあった。
まだ出来て間もなくのようだ。
新しい店特有な、ある種の緊張感が微かに漂っている。
まずは、軽く日本酒でもといきたいところだが(嘘で
す)、そうもいかない。
ぐっとこらえ、メニューに目を通す。
盛り蕎麦、掛け蕎麦のみのようだ。
それ以外は、てんぷらが僅かにあるだけ。
蕎麦に自信があるのだろう、と独りごつ。
どうやら、盛り蕎麦以外の選択肢はなさそうだ。
時を経ずして蕎麦が運ばれてきた。
薬味は本わさびと葱。
その横に、蕎麦せんべいとでも言えば良いか、一セン
チ四方ほどの揚げた蕎麦が添えられている。
そして、野沢菜が。
これでは、ますます日本酒がほしくなる(嘘です)。
まずは、何もつけずに蕎麦を手繰る(この部分手繰
るがポイント)。

ここからは、普通の食べ物ブログ風に。
蕎麦は、やや緑がかった、新そばみたいでした。
硬めでこしもあり、香りもありで、美味しかったです。
ちょっと甘めのそばつゆも、私好みで、蕎麦湯が進む
こと進むこと。
野沢菜も、流石本場と思わせるものだったし。
蕎麦せんべいとか蕎麦以外のちょっと工夫したものも
ありで、私的には丸のお店でした。
満足して、お店を出ると、八ヶ岳の雄大な姿が目の前
に、またまた感動しちゃいました。

さて、実際はどうだったかというと、蕎麦は確かにや
や緑がかった、収穫直後のもののようで、香りはそれ
なりにあった。
しかし、甘みはそれほどでもなく、蕎麦自体の腰は、
硬めなのだが、乾麺を硬めにゆでた時のような硬さで、
蕎麦本来のこりっとした腰ではなく、切れのよさとか
を感じないもの。
そばつゆも、鰹の臭みが強すぎの甘み強すぎ。
野沢菜も、最近すっかり流行の甘み付けの堕落系漬物。
結局、二度目は絶対無い、というのが結論でした。

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アイランド

2006年10月24日 | 音楽


「アイランド」というのは、しょぼい映画のタイトル
ではなく、キングクリムゾンのアルバムのタイトルだ。
30年も前のアルバムなのだが(キングクリムゾンの
中では一番好き)、昨日それが話題となった。

今現在二十歳前の若者、仮にP君としよう、そのP君
が最初に買ったものがこの「アイランド」だという。
どこで買ったのかと尋ねると、ブックオフで。
ブックオフって、そんなものまで売ってるんだ、とい
う話は置いといて、興味はなにゆえこれを、というこ
とになった。
答えは、たまたま。
まあ、こんなもんか。
きっかけは、些細なものだ。
しかし、後々必然としか考えられないような、ある力
が働いているとしか思えないような出来事というのは、
時としてあるものだ(ちょっと尤もらしいか)。
その後、P君はキングクリムゾンを気に入り、一通り
「レッド」まで買い込んだらしい。
この年代でこんなものを聴く人間がいるのか、という
事実には、とりあえずびっくりだ。
すかさず、「同年代で話が合う人間はいないだろう」、
と問うと、「ええ」と即答。
そりゃあ無理ないわな。
我々の年代だって、そういないのだから。

そして、その他にはどんなものを聴くのか訊いてみた。
「ビルエバンス」。
なにー、ビルエバンスと。
P君は同時進行でビルエバンスを聴いていたらしい。
キングクリムゾンと並行してビルエバンスか、ちょっと
我々からすると考えられないような組み合わせだ。
色眼鏡なしに音楽を楽しむ、そんなことが出来るのか、
この年で。
色眼鏡だらけの自分としては、うーむと唸るのみ。
キングクリムゾンからビルエバンスに辿り着くのに、
十年はかかったぞ。
それを、二十歳前の若者が同時進行か。

そこで、少しは先輩風を吹かしたい私は、「マイルス
は?」と訊いた。
すると「マイルスはまだ聴いたこと無いです」と答え
た。
よしよしと内心思い「やっぱり、マイルスは聴かない
とね」と満足げに言い放った。
「真のフュージョンとはどういうものか、よく解るよ」
と更に付け加え、ひとまず先輩面を見せて夜は更けて
いったのだった。
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ピザ

2006年10月23日 | 食べ物


先日、今ひとつ覚えの悪い映画好きと、お気に入りの
ピッツェリア「フォルマッジョ」の話になった。

「あそこのピザと比較すると、ここらにあるファミリ
ー系イタリアンのピザなんか食えないですけどね」
(今ひとつ...の彼、以後長いので今と表示)
「確かにね」(私)
「でも、ファミリー系のほうが受けるんですよね」(今)
「特に二十代や若い主婦にね」(私)
「何ででしょう?」(今)
「そりゃあ、違いがわからないんだから」(私)
「明らかに違うんですがね」(今)
「それが、彼女らにしてみれば明らかじゃあないんだ
ね、本格的になりすぎると受けない典型だね」(私)
「値段も問題ですかね」(今)
「そう、味が関係ないんだったら重要なのは量と値段
だろう」(私)
「サラダバーとかないと、ってことですか」(今)
「そうね、それと如何にもイタリアンだよって演出も
ある程度必要だね」(私)
「その点、フォルマッジョはそっけないですからね」
(今)
「あと、彼女らは長時間いたいから、それなりの規模
もあった方が」(私)
「その点フォルマッジョは小さいですからね」(今)
「結局、質に目がいかない限りこの状況は変わらない
ということだ」(私)
「結論はそこですか」(今)
「まあ、全てに通ずることだから」(私)
「でも、それってセンスがないと駄目じゃないですか」
(今)
「That’s right」(私)
「いきなり英語ですか」(今)
「じゃあ、Oui c’est ca」(私)
「今度はフランス語ですか」(今)
「この場合、イタリア語で返すのが正解か?でもイタリ
ア語でなんて言うんだ」(私)
「そういう問題じゃあ...」(今)

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コレクター

2006年10月22日 | 映画


それにしても不思議なのは、昨日のレーザーディスク
コレクターのラインナップだ。
他人の映画や、本でもそうだが、その品揃えを見ると、
当人が、どういうものに興味があるのか、或いはどう
いった傾向があるのかがよく解る。
しかし、このレーザーディスクコレクターのは、あま
りに脈絡が無く、今ひとつつかみ所が無い感じなのだ。

目に付いたところでは、まずトリュフォー。
これが六七枚。
これだけだったら、ああ結構本格派の映画好きか、と
思う。
更に、ゴダールが同じくらいあれば、確信に変わると
ころだが、あることにはあるが「勝手にしやがれ」と
「気狂いピエロ」の二つだけ。
この二本だけとなると、当時の知的流行としての「ゴダ
ールは押さえとくか」の類かもしれない、と疑念がわ
く。
しかし、フランス映画を中心に、というものだったら
それはそれで整合性はある。
事実、もっと古い「モンパルナスの灯り」などの、オー
ソドックスな「名画」も数多くある。
が、この後が問題だ。

「トムとジェリー」などの懐かし漫画シリーズ。
子供の心を忘れない、ってことか。
しかし、わざわざ買うか。
日本映画では小津安二郎が五六枚。
渋い「東京暮色」まで入っている。
トリュフォー好きだったら、真に納得だし、なかなか
の映画好きと感心するのだが、これに続くのが五社英
雄の「陽暉楼」。
これは、ちょっとだろう。
結局、個人的にはちょっと、と思うものが七割ほどで、
一番多い。

しかし、本当に驚いたのは、次に挙げるものを発見し
たとき。
パゾリーニの「ソドムの市」「アラビアンナイト「カ
ンタベリー物語」。
ホドロフスキーの「エルトポ」「ホーリーマウンテン」。
そして、デレクジャーマンの「カルヴァッジオ」。
完全にカルト系ではないか(エルトポはマイコレクシ
ョンにもあるのだが)。
この手の映画好きは、一般的には徹底しているものだ。
間違っても五社英雄は入らないと思うのだが。

まあ斯様に、こんなコレクターは初めて見た、という
根本的に他人がとやかく言うことではない、話でした。

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ヴィデオ

2006年10月21日 | Weblog
昨日のヴィデオ、ブレッソンの「抵抗」を巻き戻そ
うとすると、何かおかしい。
反応しないのだ。
ならばと、早送りにしても動かない。
いやな予感がして、テープを出してみる。
予感的中。
ヴィデオからテープがビローンと、まるでミル貝のよ
うな状態になっていた。
おいおい貴重なヴィデオなのに。
仕方なしに、無理やりテープを押し込んでたるみが無
いように手回しした。
過去に何回かやったことがあるので、その部分が完全
に良くならないことは知っている。
しかし、全体を駄目にするよりは良い。

なんとか見かけ上は元通りになった。
改めてデッキにいれ作動させてみた。
おいおい下三分の一しか写ってないぞ。
完全におかしい。
試しに、他のヴィデオでやってみる。
同じように、三分の一。
なんだ、デッキが駄目だったんだと納得。
こうして、また一つヴィデオデッキがお釈迦となった。

考えてみれば、もうヴィデオの時代ではないのかもし
れない。
かもしれないではなく、その時代ではないのだろう。
過去の遺物に半身状態、か。
時代はすでにDVD。
そんな中、「100パーセント過去の遺物」に遭遇し
た。
その名はレーザーディスク。
今時ね。
カフェのT君が、お客さんにもらったもの。
そのお客さんは、何百枚ものレーザーディスクを持っ
てたらしい。
処分しようにもお金にはならないし(誰もほしがらな
い)、むしろ処分代がかかるくらいだろう。
そこで困って、T君に引き取ってもらった。
人が良いからT君も。
いきなり百枚ほどのレーザーディスクコレクターにな
ったT君は、勿論それほど嬉しくは無い。

大きい割には片面三十分。
特別画質が良いわけでもない。
しかも、裏返さなくてはならない。
重いし、プレイヤーの反応は鈍いし、よくもこれだけ
操作性の悪い代物を開発したものだ。
結局、中継ぎでしかなかったわけだが、買った人はご
苦労さんの製品だった。
そう言えば、発売当時、誰がこんなの買うんだろうと
思ったことを思い出した。
興味は、あとどれほど人々の記憶に残り続けることが
出来るか、だけですな。
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抵抗

2006年10月20日 | 映画


脱走つながりで、蕎麦屋の主人より「第十七捕虜収容
所」を借りる。
かなり昔に見た記憶がある。
ウィリアム.ホールデンが出ていたことは覚えていた
が、内容は完全に忘れていた。
結構面白かった、と当時思ったことは記憶しているの
だが。

で、改めてみると、監督はビリー.ワイルダーだった。
特別、関心のある監督ではないが、名匠と呼ばれる監
督の一人ではあるだろう。
今回の「第十七捕虜収容所」も、よく出来ていて結構
面白かったというか、ワイルダーのなかでは一番面白
いかもしれない(個人的には)。
しかし、今回これを見るにあたって、一つ余計な話を
してしまった。
例によって、ケースの出演者を見て、「ああ、ピーター.
グレイプスが出てるんだ」と言うと主人が、「どれどれ」
というので、写真を指差し「テレビのおはようフェルプ
ス君の本人だよ」と言った。
すると主人は「ああこれ、ドイツのスパイだよ」と言
う。

映画の中では、収容所の中のドイツのスパイが重要な
役柄なのだが、これで始めからスパイが誰だか分かっ
た状態で見る羽目になった。
推理小説で、犯人が誰だか最初から分かった状態で読
むのと同じ状況というわけだ。
所謂、ねたばれ状態。
まあ、分かってもそれなりに楽しめたから良いか。
そんな脱走モードで、久しぶりに秘蔵のヴィデオ、ブレッ
ソンの「抵抗」を見たいと思った。

これも一応脱走(脱獄)もの。
ベッケルの「穴」とよく比較される。
フランスのレジスタンスの話で、実話が元になってい
るという。
白黒の、緊張感が充溢しているブレッソンらしい映像
を久しぶりに見たが、つくづく異質な映画だ。
出演者は全員素人。
娯楽性というものを排除したブレッソンの世界は、見
るものを、映画の原点に連れ戻す。
会話も少なく、画面も暗く、一体何が面白いというの
か(今回途中で寝てしまった)、と素朴な疑問を感じ
る典型的な映画なのだが、どうしようもなく魅力的な
のだ。
ブレッソンでしか味わえない世界が、そこにあるのだ。

というわけで、見たいと言った蕎麦屋の主人の、見て
の感想は如何に。
興味があるところだ。
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タイカレー

2006年10月19日 | 食べ物


タイカレーを食す。
缶詰のグリーンカレーをもらったのだが、その時の一
言が気になっていた。
「旨くないですよ」。
「だったらいらない」と言ったのだが、T君は「でも
食べてみてくださいよ」と言うので、「じゃあどんな
もんか食べてみるか」ということになったのだ。

好みからすると、カレーはやはりインド中心のものが
美味しい。
過去に、タイカレーはレトルトで何回か食べたが、ま
あまあといった印象だった。
タイ料理やは、一回しか行ったことないし、本場の味
がどうなのかは、今ひとつ分からないが、大体想像は
つく。
甘辛酸に独特の香辛料、ココナッツミルクで出来上が
った味と言えばよいか。
いずれにしろその枠内の味であろう。
それと、この手のものは、基本的に現地の気候風土で
食べてこそのものという気がする。

で、今回のグリーンカレーだが、これがまたK君が言
ったとおりの代物だった。
ココナッツミルクの甘い香りがまず鼻をつく。
これは、想定内。
一口食べる。
いやに甘いな、と感じる。
過去の体験を思い出してみる。
こんなに甘かったか?と疑問に思う。
二口目。
やはり甘い。
それに、いやに油っぽい。
こんなに油っぽかったか?と疑問に思う。
三口目。
すでに箸というかスプーンが進まなくなる。
仕方なく、ビールで流し込む。

結論。
この缶詰はもういらない。
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松澤宥

2006年10月17日 | 芸術


松澤宥(ユタカ)氏が死去した。
と言っても、殆どの人は知らないと思う。
地元の「芸術家」だが、地元での知名度も、多分大し
たこと無いだろう。
所謂、わけの分からない「芸術活動」をしていた代表
とも言える人なので。

しかし、その独自性は、地元では言わずもがな、国内
でも一部の間以外では評価されてなかったが、世界で
はそれなりに評価されていたのだ。
国内でのコンセプチュアルアートの第一人者、と言っ
ても良いのではないか。
概念芸術。
方向的には、作品という物が消えていく芸術。
典型的な「よく解らない芸術」の代表なのだが、新し
い芸術の地平を切り拓くという意味では、明らかに重
要な位置にいた人である。
量子芸術などというのも唱えていた。
量子の世界と宇宙は、規模があまりにかけ離れてるの
だが、かなり似通った力学の働くところ。
内なる極小宇宙と、無限大の宇宙との融合を、芸術で
果たそうとしていたのか。
正直なところ、その辺は全く解らない。

宇宙などを唱えだすと、「いってる人」に見られがち
だが、そもそも芸術家などというものは紙一重のとこ
ろがある。
普通ではないところがあって当たり前なのだ。
いずれにしろ、孤高の芸術家という名称がぴたりとく
る松澤宥氏の冥福を祈りたい。
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コラージュ

2006年10月16日 | 芸術


パソコンのおかげで一番楽になったのは、コラージュ
を作る作業だ。
以前は、はさみやナイフで切って、糊付けして、失敗
しては、はがし、ふたたび貼り付けと、何度と無く同
じ作業を繰り返した。
それが今は、一瞬にして切り貼り。
しかも、失敗してもすぐに元通り。
色も、自由に変えられるし、透明化とか今までだった
ら絶対出来ない効果も与えられる。
バリエーションは無限大。
こんなに簡単に出来て良いものだろうか、と思わず考
えてしまうパソコンなのだが。

手作りのものと、パソコンのものとを比較すると、明
らかに違うのは、質感。
パソコンは、プリントして初めて「作品」として出来
上がる。
その、紙質が全体の印象に大きく影響する。
実際に切り貼りしたものなら、使ってる素材の質、凹
凸などが微妙に影響しあって全体の質感が決まるのだ
が、パソコンでは、それらの要素がない。
安直と言えば安直なのがパソコンだ。

しかし反面、表層的な戯れには適しているともいえる。
深みが無い、と言われがちであるが、所詮我々が見て
いる(見ることができる出来る)のは表層だけ。
違いは「深み」を発見したい自分がいるかどうか。
そこには本質的な違いは無い(案外、立体的に見える
かどうかだけの問題だったり)。
つまり「深み」を見ることも表層の戯れの、一形態に
過ぎない。

てなことも、文章にすると、もっともらしい理屈にな
るのだが、本当のところは良く分からない秋の夕暮れ
なのである。
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U35

2006年10月15日 | Weblog
U35が何かというと、アンダー35、つまり35歳
以下の人のこと。
最近、ちょくちょく蕎麦屋の主人との間で話題になる。
どういうことかというと、この年齢を境に、味覚がが
らっと変わってしまったのではないかと。
彼らの好む味には、理解に苦しむようなものが多いの
だ。
考えられる大きな原因は、コンビニ。
ちょうどU35あたりから、子供のときからどっぷり
コンビニに浸かっているのだ。
つまり、味覚形成に重要な時期、コンビニの味によっ
て味覚が出来上がってしまった世代、それがU35で
ある、と結論付けたのだ。

その味付けの特徴は、一言でいって「濃い」だ。
塩味、旨味調味料、砂糖、全てが多い。
特に、スナック菓子が一番顕著。
しかも、子供が一番好きときている。
こんなものに慣れたら、素材の味を判別できる味覚な
ど形成されるわけが無い。
そうやって考えると、今の野菜の味に個性がなくなっ
てきている現実も理解できる。
今は、素材の味は甘みだけだ。
決して風味ではないのだ。

ラーメン全盛もそれと無縁ではない。
それらを支持している中心は、やはりU35だ。
いまだ嘗て、ラーメンのスープを全部飲み干したこと
が無い自分からすると、美味しそうに飲める人が信じ
られない。
どうやったら、あの「濃い」スープを飲めるのだろう。
しかも、長時間ぐつぐつ煮てあらゆるものが溶け込ん
だ、「濃厚そうだがさっぱり」と言われる臭いスープ、
完全にお手上げだ。
そもそも、ラーメンが美味しいものの上位にくること
からして信じられないのだ。
昔は、少なくとも良い大人はラーメンが好きなものの
上位に来ることは無かった。

都会だと、それでもいろんなレベルの人間がいるから
ひどいものばかりではないが、田舎だとそうはいかな
い。
ローカルの食べ物ブログなどたまに見ると、情けなく
なる。
書いている中心は、やはりU35辺りだと思われる。
個人的に、これはひどいだろうというレベルの店が、
はじからお勧めの店として登場する。
そして、そういうブログがかなりの人気という事実。
腹が立つほどだが、主流はすでにそちらにあるのだ。
そこで感じるのは無力感。
そして、蕎麦屋の主人と二人で、唯唯ため息をつく、
のである。
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