ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ホイアン

2007年10月30日 | Weblog


ベトナムの「ホイアン」は、古くは朱印船の時代から
太平洋戦争前まで、交易の要所として、日本とは浅か
らぬ縁があった。
と、まるで昔から知っているような書きかただが、全
ては最近知ったことである。
ある雑誌で、ベトナム特集を見ていて、いろんな麺料
理があり、地方色も富で美味そうだ、などという印象
を持った。
その印象が消え去る前に、今度はNHKの番組で「ホイ
アン」特集を見たのだ。
始めは、雑誌の記事と結びつかず、こんなところがあ
るんだなどと漠然と眺めていた。
そしてホイアンにある「日本橋」という日本人が造っ
た橋が今でも残っていると紹介された時、雑誌と結び
ついた。
どこかで見たぞ、と。
軽い「deja vu」といったところか。
そしてホイアン特有の麺料理の登場。
うどんのような麺で、一般的な「フォー」とは異なる。
ここで確信した。

嘗ては、日本人も多く暮らしていたらしく、いろんな
ところに日本とのつながりが残っている。
「名古屋コーチン」のコーチンという名前も、ベトナ
ムの地名「コーチ」から来ているとか。
そして何よりびっくりなのは、ベトナム通貨のドンと
いう名が、日本の「銅」が語源であったということ。
朱印船の時代に、日本の「寛永通宝」がそのまま現地
の通貨として使われ、それが「銅」(ベトナムでは産
出されない)であったことから名前として残ったとい
うことらしい。
「ほんまかいな」と思ったが、実は今でも半信半疑。
そして、うどんのような麺は、「伊勢うどん」がルーツ
らしい。
「伊勢うどん」そのものを知らないので、まずは「伊
勢うどん」から、といきたいところだが。
これも、諸説あるのかも知れないが、そういう説が有
力のようだ。

嘗ての、南ベトナムに位置しているが、北との国境が
近く相当な激戦地であったという複雑な歴史もあり、
人々に(特に年寄り)暗い影を残しているようだが、
表面上は、いかにもベトナムという、バイクがわんさ
かの活気のあるところだ。
川の周辺で(海から70キロほど、グーグルアースで
計測)発達した、独特の建築様式の家や、その他には
ヨーロッパのコロニアル風の建築も残っていたりと、
なかなか魅力的な街である。
ベトナムに行ったら、是非とも足を運びたいところで
ある。
取り敢えず想像の旅では行ったのでいいが、本格派旅
好きOLだったら絶対外せないところであろう。
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狩野派

2007年10月29日 | 芸術


狩野派と言って思いつくのは、「狩野永徳」「狩野探幽」
「狩野芳崖」の三人くらいだ。
他にも一杯いるのだが、有名なのは(自分の中で)この
三人なのだ。
中でも、一番だと思っているのは「狩野永徳」。
これも、本物を実際見たわけではなく、知識の中ではそ
うであるという話だ。
その「狩野永徳」の大規模な展覧会が、今、京都の国立
博物館で行われている。
彼の作品がこれほど多く一堂に会すのは、初のことら
しい。
描いた作品は多いが、現存するのが少なく、しかも分
散しているから、まとめて観る機会はそうなく、今回
が唯一のチャンスかもしれない。

京都国立博物館といえば、かつて同じように大規模な
「若冲展」をやって、かなりの好評を博した。
あれもこの時期だったような。
5年ほど前だが、まだ今ほど人気沸騰ではなく、そん
なに人も多くなくゆっくり観られた。
未だに、個人的過去十年のベストワン展覧会であり続
けている。
さすが京都というか、良い企画物をすると思うが、今
回の「永徳展」、ちょっと調べてみると、ある日の日
曜の混雑状況が出ていて、なんと80分待ちだという。
人気ラーメン屋か。
展覧会で80分待ち、ということは、入場制限という
ことだから常に会場にはかなりの人数がうごめくこと
となる。
何が厭かといって、ベルトコンベヤー式にどんどん押
し出されながら観賞を強いられる事。
混雑している展覧会場というのは、絶対避けたいとこ
ろベストテンの、第6位には入るだろう。
行きつ戻りつ自由に観賞、これが良いのだ。

ここのところテレビにも取り上げられ(美の巨人でやっ
たのを見た)、更に人気化してしてきたのだろうが、
そもそも「狩野永徳」って、それ程の知名度があった
のだろうか。
有名なのは「探幽」だと思うが。
こちらが知らないだけか。
まあどちらにしろ、日本の過去の絵師に焦点が当たり、
再発見されるのは喜ばしい事なのではないか。
しかし、京都か。
ちょっと、遠いな。

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読書2

2007年10月28日 | 芸術


昨日の続きではないが、考えてみれば、ブログで書い
ていることは、純粋な日記でもないし、さりとて随筆
という立派なものでもないし、結構作っている部分も
あるし、そういうところは小説的だしと、要するに中
途半端と言えば中途半端、色んな要素が入った新しい
形態、と言いたいところだがそれほどのものでもない
し、まあ「ブログ的」という大まかな形のようなもの
で良いのか、と思う。
なんと言おうと、すでに無数に存在しちゃってるのだ
から(ここも含めて)。

で、昨日の読書で思い出したが(書いていくうちに思
い出すという事は確かな事実で、その点では間違いな
く脳のある部分を刺激するのだろう、つまり書いてい
る人にとっては少なくとも、脳の活性化という利点が
ある)、高校生の時に買った本を思い出した。
3点。
「野菊の花」「蓼食う虫」「布団」だ。
これを見て、その共通点が判った人はかなりの文学通、
或いは、全く自分と同じ理由でそれらを知っているか
のどちらかだ。

当時、買おうと思ったそもそもの動機は、このまま本
とかに接することなく生きていくのは、やばいのでは
ないか、つまり最低限の教養的なものは無いと、など
と一応ある種の危機感があったのだと思う。
それは、初めての「知に対する目覚め」だったのかも
しれない(かなり格好つけてます)。
それで、取り敢えず本屋に行く。
漫画以外買った事が無かったので、文庫のある棚に行
くだけで何故かどきどきしてしまう。
全くの予備知識なしで、何を選ぶか。
視覚的に魅力的なもの。
それは何か。
ずばり本の薄さだ。
つまり、三つの本の共通点は、その薄さなのだ。

選択理由が、本の薄さというのも笑っちゃうが、当時
はその程度で一杯一杯だったのだ。
読む習慣の無い人間にとって、本の厚さは脅威だ。
たまに、平気で厚い本を読んでいる人を見かけると、
その内容に関係なく(全く知らないのだから当時は)
尊敬の対象であった。
自分の限界は、文庫で200ページ。
それ以上になると、眩暈を覚えたものだ。

肝心の内容だが、感動した記憶もないし、内容は全く
覚えてないし、ただただ読んだという事実だけで満足
したのだろう。
未だに当時のままそれらの本がある。
よほど嬉しかったのだろう。
その時は、本棚に自分の読んだ本をずらっと並べて、
多分、これだけ読んだんだと自己満足を得ようなどと
思ったはずだが、いかんせん、薄い本はそんなに数は
無く、結局本格的読書は身に付かず、その3点だけの
寂しい棚のままで終わった。
そんなものである。
まさかその後、対極の「失われた時を求めて」を読む
事になろうとは。
この点だけは、自分でも良くやったなと思う。
こういうのを、隔世の感などというのだろう。
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読書

2007年10月27日 | 芸術


義務ではなく、能動的に読書をし始めたのはいつだった
か思い返してみると、小学校の時ではないことははっ
きりしている。
図書館などは無縁の場所だった。
課題か何かで、無理無理「リンカーン」かなにかの自伝を
一回借りたような借りないような。
兎に角、皆無に等しい無読書時代だ。
そして中学では。
ここでも、似たようなもの。
家にある本を読むべきという圧力は感じていたが、全
く実践はなし。
高校生になれば、と周囲の楽観とは裏腹に、ここでも不
毛の時代をすごす。
結局、本当に興味を持って本を買ったのはその後の大
学時代ということになる。
かなり遅い。

だから、ある年代で読むであろう本、例えば名作全集
に必ずあるような「夏目漱石」「島崎藤村」「森鴎外」
などはまともに読んだ事はない。
洋物では「トルストイ」「ドストエフスキー」「ジイド」
など。
別に、今読んでも良いのだろうが、もう、なかなか読
む気にはならない。
こういうところが、文学少年的ではなかった故の現実
である。
今となっては、あまりに好みがはっきりし過ぎている
のだ。

とかなんとか読書について書いていると、これは随筆
かと一瞬錯覚する。
ブログであった。
「お前に随筆などない」と白犬お父さんに怒られそう
だ。
ブログに戻そう。
日記だ、web log。

今日の新聞に、小学生の読書時間が、少し増えたとあっ
た。
携帯漬けの子供が読書に移行する方が、字を見るとい
う共通点がある分、缶けり好きの子供が読書に移行す
るよりは無理がない。
これは、今考えた理屈だが、傾向として今は、アウト
ドアではなくインドアであるから、まずは家の中とい
う環境は、少なくとも読書には適している。
昔よりは、環境的には移行しやすいとは言える。
しかし、一番重要なのは興味があるかないかという
ことだ。
自主的にその気にならないと、面白さも分からない。
須らく...。

とここで、映画少年Yが来た。
ここから急遽実況。

「この前言ってたカレーあります?」(Y)
「覚えてた?」(私)
「当たり前ですよ」(Y)
「そうか、じゃあ野菜、チキン、シーフードがあるけ
どどれにする?」(私)
「オーソドックスにチキンにしますか」(Y)
「それが良いかもね」(私)
「種類の違いは、香辛料の違いですか?」(Y)
「ザット イズ ライト」(私)
「で、いくらです?」(Y)
「今回は、試食ということでいいよ」(私)
「あっざーす」(Y)
「作り方は箱に書いてあるから」(私)
「じゃあ、感想文を原稿用紙二枚分書いてきます」(Y)
「くれぐれも、物語にしないように、飽くまでも批評
だからね」(私)

と、映画少年Yは、「ネパールカレー」の箱と共に去っ
ていった。
Gone with curry

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ヴィトゲンシュタイン

2007年10月26日 | 映画


「ヴィトゲンシュタイン」、知る人ぞ知る哲学者だ、と
言っても本当に名前を知っているだけだが。
何せ、名前のインパクトが強いので。
それでは、何故今「ヴィトゲンシュタイン」か。
資本主義経済の末路が見えた今こそ哲学の時代である、
とかそういうことではなく、このタイトルの映画を見
つけてしまったから故のことに過ぎない、真相は。
なんだ、そんなことか、と言われそうだが、そんなこ
となのである。

ヤフーの無料映画を探索していると、突然その名前が
飛び込んできた。
何故、ここに、と誰もが思う違和感である。
こんな映画があることは、全く知らなかった。
監督の名前を見ると「デレク.ジャーマン」。
えっ、「デレク.ジャーマン」か、と思わず椅子から
転げ落ちそうになった(嘘です)。
「デレク.ジャーマン」と言えば、独特な耽美的な映
画を撮るイギリスの監督で、代表作と言えば、とここ
で考えた、一体どれが彼の代表作と言えるのか。
「カラバッジオ」か「ラスト.オブ.イングランド」か、
はたまた「エンジェリックカンバセーション」か。
これは、単に、自分が見たのを挙げただけに過ぎない。
だから、はっきり言ってどれが彼の代表作になるのか
見当が付かない。
そう言えば「カラバッジオ」はカフェのT君お気に入
りで、「ラスト.オブ.イングランド」は、映画少年
Yのお気に入りであった。
かく言う私は、特別お気に入りというのはない。
正直、そんなに好きではないのだ。

映像コラージュ的な彼の作品は、確かに美的センスは
感じるのだが、あまりそれに酔いしれることはない。
同じような作品と言えるかどうかは分からないが、「パ
ラジャーノフ」は気持ちよく酔いしれる事が出来る。
デレク.ジャーマンの特徴でもある、ホモ的センスが、
今ひとつしっくり来ないその原因かもしれない。
で、「ヴィトゲンシュタイン」だが、結構面白いと言
えば面白い。
映画の中で「ヴィトゲンシュタイン」が発する言葉が、
箴言であったりするので、それを聞いているだけでそ
れなりに楽しめる。
一応は、自伝的な映画ということなのだろうが、現実
的な、つまり具体的な日常描写は皆無の映画なので、
所謂「難しい映画」の範疇になると思う。
鬼才とか言われる監督の特徴は、解り難いということ
なのである。

そんな「ヴィトゲンシュタイン」で驚いていたのだが、
なんともう一本「デレク.ジャーマン」の映画があっ
た。
「ザ.ガーデン」だ。
こちらの方は、もう会話すらない、完全にイメージだ
けの映画だ。
夜、寝がけにかければ最適ではないか、という事だけ
は言える。
それにしても思うのは、何故ヤフーが今「デレク.ジャ
ーマン」なのかということ。
案外、関係者にジャーマン好きがいたから、それだけ
のことかもね。
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体感温度

2007年10月25日 | Weblog


寒くて目が覚める日が続く。
布団の調整が難しい季節だ。
しかし、昼間は結構暖かかったりと、どうもはっきり
しない気温に悩まされるが、自分では寒いと思っても、
まだ半そでTシャツの人間がいたりするから、一体ど
うなってるんだ他人の体感温度は、とびっくりするこ
ともしばしば。
そう言えば、昔は寒さに強かった、と自分の十代のこ
ろに思い馳せれば、これも納得。
若さには勝てないのだ。
それにしても、寒さに弱くなったものだ。

さて、「コンフィ」であるが、無事に完成して試食を
してみた。
結論から言えば、合鴨(鴨でもいい)の胸肉はコンフィ
には適さない、ということ。
もも肉が一般的なのは、それなりの理由があったとい
うことだ。
もも肉のように、繊維にそってほろほろ崩れる方が美
味いのがコンフィである。
胸肉は硬めのレバーのような感触で、わざわざコンフィ
にする必要がないと感じた。
そのまま、ソテー、ローストにした方が美味い。
それぞれの素材には、それに適した調理法があるとい
うことだ。

これでフランス料理モードに入った訳ではないが、久
しぶりに蓼科の途中にある店に行ってみた。
基本的なフランス料理を丁寧に作るところで、この辺
では一番まともなフランス料理であると思っている。
早めに行ったので、一番乗り。
あまり、肉関係で食べたいのがなかったので、たまに
は魚をと思い、メインは魚にした。
後は、スープが付く。
ミネストローネ風の野菜スープかサツマイモのポター
ジュだったが、野菜を選択。

そうこうしている内に、他の客が入ってきたのだが、
その客がこれまた珍しい構成で、全員70歳以上と思
われるおじいさんだった。
しかも6人。
「たまには高級なものをね」などと喋りながら、どや
どや入ってきたのだが、内心大丈夫かいな、と正直な
ところ思った。
「ライスはないかい」などといわなければ良いが。
しかし、スープの前に出てくる自家製パンをばくばく、
バターをたっぷりつけ「こりゃあ美味い」と食べてる
くらいで、全く問題なかった。
まるで昔の自分を見ているようだ。
パンがやたらと美味く感じるんだよね、こういうとこ
ろだと(ここの自家製パンは実際いい出来だが)。
その後のスープで「こりゃ美味い」メインの豚三枚肉
の煮込みで「こりゃ美味い」となかなか楽しそうで、
良かった良かったというところであった。

こちらの取ったスープも、普通に美味かった。
ここのスープは、安定して美味い。
で、メインの魚は、多分フッコ、それと鯛系の魚にもう
一つイサキか何か、その三種のポワレのバターソースで
あった。
これは、大体この辺のどこでも感じることだが、やは
り鮮度が良くない。
食べられなというレベルではないが、良くはない。
やはり、魚は避けたほうが良いようだ。
前回魚を食べた時も同じ印象だったが、これはもうしょ
うがないことかも知れない。
これよりもっとひどい魚が、普通にスーパーで売って
いるのだから。
しかも、皆平気でそれらを食べている。
そんな魚食文化の土壌では、多くは望めないというこ
となのである。



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温度

2007年10月23日 | Weblog


「子牛と合鴨のコンフィ」は、ほぼ4時間ほどで完成
した。
味のほうは、まだ確認してないので分からない。
一晩置いてから、改めてフライパンで焼くので、出来
立てを味見したのとは違う味が本来のコンフィである。
それは後のお楽しみということになる。

今回は、火加減を更に工夫した。
90度前後を保つための工夫だが、前回は、最弱の火
を保つのに苦労した。
どうしても、100度近くになってしまうのだ。
消えるか消えないかという火が、実際に消えてしまっ
たりと、ちょっと安定しなった。
そんな前回を踏まえ、どうにかしようと考えた。
鍋と火の距離を長くすれば良いわけだ。
高くするための道具はないかと考えた。
適当なものがない。
石でも3箇所に置き、それに鍋を乗せれば良いのだが、
そんな高さが同じ都合の良い石などそうあるわけでも
ない。
その為の道具をわざわざ買うのもなんだし、と周囲を
見渡すと良いアイデアが浮かんだ。
コンロにかかっている、鍋を置く台、なんて言うのか
知らないが、あれを重ねれば良いのではないか。
早速、空いているその台を45度回転させ重ねてみた。
がたつきもなく安定している。
鍋を置くと、その鍋も安定している。
火をつけ油の温度を確認する。
順調に、80度くらいになったところで肉を投入。
暫くすると、肉から水蒸気が出て、あたかも沸騰した
かのようになるが、これは想定内。
じわじわ温度は上がり、いよいよ90度近くになった。
こちらの予想通り、上がる勢いは弱まり、臨界点が近
付いてきたことを予感する。
結局、事態は思惑通りの展開を見せた。

と、何やら鍋の温度だけで実況中継と、自分でも何を
書いているんだかという気分ではあるが、こんな些細
な一工夫だけでも、思惑通りになると嬉しいという話
をしたかっただけのこと。
そんな過程を踏んだ「コンフィ」はさぞかし美味しい
ことだろう。
とは行かないのが世の中。
それはそれ、あれはあれ。
これは、愛情を込めた料理が必ずしも美味しいわけで
はないという事実と通じるものがある。
ちょっと違う?

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ラード

2007年10月22日 | 食べ物


更科の主人に、合鴨の胸肉を「コンフィ」用にと貰った
ので、久しぶりに作る事にした。
前回作ったのはいつだったかと思い返すと、かれこれ
十何年も経っているではないか、ということは勿論な
いが、約一年は経っている。
冷蔵庫に入れっぱなしの「ラード」が、ちょっと心配で
ある。

作る時は、ある程度の量があった方が良いので、合鴨
以外の何かを一緒に「コンフィ」にしたい。
そう言えば冷凍の「子牛肉すね」があった。
何かのためにと思い、ストックしていたのがあった。
こういう時こそ出番である。
「子牛のコンフィ」など勿論食べた事は無いし、店で
出しているというのも聞いた事がない。
しかし、基本的には肉なら何でも大丈夫なはずだ。
一種の煮込みなのだから、すね肉など適しているかも
しれない。
ということで、「合鴨と子牛のすね肉」のコンフィを
作るため、それらを一晩塩漬けにした。

翌日、肉を洗い、水気をペーパータオルで拭き、さて
いよいよラードの出番だと、冷蔵庫からラードの入った
ボウルを引っ張り出した。
一見、以前と変わらない白い固まり、しかし良く見る
となにやら黒い部分が見える。
確か、こんなものはなかったはずだが。
その黒い部分は、内部にところどころ存在している。
青カビチーズが入り込んだような状態だ。
ひょっとして、これも黴か。
その部分をほじくり匂いを嗅いで見る。
特別強烈な腐敗臭がするわけでもなく、黴っぽい匂い
がするわけでもない。
ラードの臭いしかしない。
ここで「悪魔の囁き」が。
まあ、大丈夫か。
出来たら、誰かに食べさせて様子を見れば良いし。
と、一瞬考えた。
しかし、これでは偽装表示の当事者と同じだ。
やはり、これはまずい。
しかも、油関係はお腹に来るし。
というわけで、このラードは廃棄処分が決定。
「固めるテンプル」が必要ないところは有難い。
充分使ったし、お役御免といったところだ。

そうなると、新しいラードが必要になる。
早速スーパーへ行き、油売り場に直行。
マヨネーズのプラスチック容器のようなものに入った
ラードはあるか、と棚を見回すと、あったあった。
相変わらずの小ぶりなラード。
棚にあるラードを買占め、これで準備万端整った。
後は、煮るだけだ。
ということで、まだ「コンフィ」は完成してない。
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赤福

2007年10月21日 | Weblog


偽装表示なんてものは、多分、どこでもやっている事
だろう。
昔だったら、消費者も大して気にせず、下手をすれば、
黴てても、外れに当ったと済ましたかもしれないほど
表示など気にしてなかった。
しかし、時代は変わって、厳格になった。

発覚しなければ何の問題もないと経営者が思うのは、
普通といえば普通。
基本的に、大きな会社にする為には、そんな現実的な
判断をする経営者こそが必要であるから。
代々の味を守るため、などと思ったら、そもそも大き
くするわけがない。
工場生産とは相容れない筈だ。
しかし今の消費者は、情報で食べるのが最優先だから、
そのブランドと安心のための表示があれば、それだけ
で充分といえる。
だから逆に、発覚しなければ問題ないが、もし発覚し
たなら、その時の影響は計り知れないと覚悟しないと
いけない。

赤福も初めて食べた時は、結構美味しいと思ったもの
だが、今は全くそうは思えない。
ああいう食べ物は、手作りの店でその日のものを食べ
る、が基本だ。
素朴な餡子の香りを楽しみながら。
正直なところ、あんなもので会社があれだけでかくな
るという方が不思議だ。
ブランドというのは凄い。
実体など関係ないのだから。
しかも、実際好きな人も多いのだから、大したもので
あるというか、信じられない。

それでは、今回何故発覚したのか。
多分、内部告発だと思うが、この手の事件は、経営者
に対して良く思ってない従業員による告発が多いので
はないだろうか。
老舗にありがちな、所謂ぼんくら経営者、二代目三代
目とどんどん信望がなくなるというのは、世の中でよ
くあること。
単純に、けち、或いはせこいのかもしれない。
実際どうなのかは判らないが、そんなところが推測さ
れるのだ。

同じ偽装表示でも、今回の製造日変更などは、原材料
不正表示よりは悪質ではないと思うが、そういうこと
をするという背景は共通である。
無駄を出したくない、つまり原価を安くしたいという
のは基本中の基本であるから。
誠実な商売などというのは、全く儲からないのだから、
どういうところが怪しいかというのは消費者が気付か
ないと、ということなのだ。
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マウス

2007年10月20日 | Weblog


どうも最近マウスの調子がおかしく、たまに動かなく
なったりして大丈夫かなと思っていたのだが、とうと
う完全動かなくなった。
ということで、初めてのマウスのお遣い。
改めて商品を見てみると、いろいろある。
驚いたのは、今は光センサーで反応するという仕組み
になっているという事実。
球がごろごろではないのか。
いつからこういうことになったのか。
本当、この手の商品は、浦島状態になる事が多い。
多分、もはや常識なのだろうが、こちらとしてはちょっ
とびっくりなのだ。

早速、取り付けてみる。
ちゃんと反応する。
どういう仕組みになっているのか、裏返して見ても、
当然分からない。
手を当てて動かすと、やはり反応する。
良く出来てるねえ、とひとしきり感心し、普段の作業
をする。
今までの、ごろごろに慣れているので、今ひとつ手応
えがない。
それに、ポインターの移動速度が速い。
というよりこれは、反応が早いといったほうが良いの
かもしれない。
ごろごろだと、反応までの時間差があったからだ。
まあ、直ぐに慣れるかと思うが、暫くはあのゴロゴロ
の感触が懐かしく思われることだろう。

もう一つ気になったのは、真ん中の一輪車の車輪みた
いなもの。
一体何だこれは。
今までのマウスにはこんなものはなかった。
早速回してみる。
えっ、スクロールが出来るのか。
これは便利だ。
これで一々ポインターを移動しなくても済む。
多分、これも今は常識なんだろうな。

これでマウスも一安心。
しかし、もう一つのマウスも相変わらずの、大活躍だ。
今は、スーパーラットなどといって、こちらも日々進
化している。
進化しないのは人間だけだ、などと余裕をかましてい
る場合ではない。
駆除用の薬を、上手いことマウスに食べさせる工夫を
しないといけない。
最近のマウスは、本当賢い。
直ぐ学習する。
学習しないのは人間だけだ、などと言ってる場合でも
なかった。
どうにかしなくては。

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詩の秋

2007年10月19日 | 芸術


一年で、一番厭な季節が今頃だ。
秋になりきったとも言えず、さりとて間違っても晩夏
ではないし、しかし、体はまだ夏の暑さを記憶してい
る。
要するに、中途半端な時期なのだ。
だから余計に寒さは感じる。
体がまだ、冬に向けての仕様になっていないから。
完全に紅葉にでもなれば、視覚的にも秋であると納得
でき、「ああ秋だ」ということになる。
そうなると、小津の「晩秋」でも観て黄昏るか、と一
つの流れが出来上がり、気分が体と同調し、良い具合
になるのだ(50%嘘)。

トンボも少なくなり、夏の勢いがなくなっている。
日に反射する羽の色が小麦色に輝く。
羽ばたきがすくなくなり、一瞬スローモーションであ
るかのような錯覚を覚える。
子孫を残す最後の仕事も終え、後は死を待つだけ。
その証を見せ付けるかのような光の反射。
死と生の戯れ。
ふと、眼を道端に向けると、羽が取れたノシメトンボ
の乾いた屍骸。
季節は秋である。

いやあ、作ってしまった。
詩のようなものを。
何故このような事態に至ったかというと、このところ
スポーツネタが続き、ちょっとネタ切れというか、書
く事が思いつかない、と書き始めたら、手が勝手に動
いて自然に出来てしまったのだ。
というのは、真っ赤な嘘で、無理無理作ったというの
が本当のところ。

一般的に、秋というのは詩の季節だったような。
どうもそれは、寂しさを感じる季節、或いは憂鬱に襲
われる季節だから、であると思う。
その気分に任せ何か書けば、それが詩になる、と言い
たいところだが、果たしてそうだろうか。
そもそも、詩とは何か。
詩情というのは分かるが、詩情をこめたものが詩であ
るかとなると疑問だ。
歌謡曲の詩も詩であるとなれば、間違いではないが、
そんなことはスタローンの「ランボー」は許しても詩人
の「ランボー」は許さないだろう。

実は、「詩集」というものを読んだ事がない。
正直なところ、詩の面白さが分からない。
だから、どういった詩が本当に良いものなのか、今ひ
とつ見当がつかない。
世の中に広くある、少女趣味、或いは感傷的なひどい
ものは分かるが。
今でも、ポケットにさりげなく「リルケ」「中原中也」
などがあると、ちょっと格好良いということになるの
か。
少なくとも昔はそうであった、ようだ。
そんな事はどうでも良いが、この先も未知な世界であ
るのだろうことだけは、多分間違いない。
コメント

SPORT

2007年10月18日 | Weblog


相変わらず「亀田問題」で騒がしいが、果たして、大
きく取り上げる価値のあるニュースであるかと考えれ
ば、全くそんな事はない。
本来は、一問題家族の、ボクシング界におけるトホホ
な事件に過ぎない。
騒げば騒ぐほど、日本のマスコミの程度の低さが露呈
されるというものである。
但し、TBSに関しては、それなりの責任を取ってもら
いたいと思うが、なんだか他人事のように、しれっと
他局と同じように放送している。
これに関しては、非常に釈然としない。

どうも、スポーツ関連が続くが、サッカー日本代表の
対エジプト戦、相手の戦力が今ひとつとはいえ、かな
り気持ちの良い勝ち方だった。
大久保もやっと一安心。
昨日の動きをコンスタントに出来たら、間違いなくレ
ギュラーだろう。
オシムになって、徐々にチームの形というのが出来て
きたというのは、間違いないと思う。
誰が出ても、基本的な攻撃、守りは出来ているように
見える。
ジーコの時とはえらい違いだ。

ところがU22は、カタールに1-2で負け。
しかも、ロスタイムのハンドによるPK。
それにしてもこのチームは、セットプレー以外でなか
なか得点できない。
全体的に感じるのは、戦術ばかりを押し込めようとし
て、それを、選手が消化しきれなていないということ。
今回のチームは、たとえ、五輪出場しても、勝ち抜け
るほどの実力はなさそうだから、別に出られなくても
良いんじゃないか。
五輪のサッカーで騒ぐのは日本くらいなものだし(敢え
て断定)。
出たからといって、飛躍的に進歩するわけでもない。
五輪で活躍して、その後さっぱりという選手は結構い
るが。

基本的に日本人は、五輪を特別視しすぎる。
これは、「輝ける東京五輪」というのが記憶の中に大
きく居座ってるからではないか。
感動の原体験。
体操日本とか、東洋の魔女だとか、過去の栄光にしが
みつき過ぎである。
いい加減、卒業したほうが良いんじゃないか。


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棒球

2007年10月17日 | Weblog


何が悲しいと言って、FMラジオで「高校野球中継」を
聴かされる事。
AMでやるのは分かるが、FMでやることはないんじゃ
ないの、と思う。
来年の、春の甲子園の代表を決める大会なのだが、NHK
FM長野、もう少し考えてほしい。
高校野球というものに全く興味がないので、特に思う
のだが、一般的に、FMラジオを聴いているような人は、
関心のない人の割合がAM好きより多いのではないか
と思うが。
まあ、こちらが思っている以上、高校野球好きは多い
のかもしれないが、あの野球関係のテーマ曲が流れて
くると、本当厭な気分になるのだ。
嘗て、日曜の昼、NHKの「のど自慢」のテーマ曲がか
かって来ると、決まって厭な気分になったものだが、そ
れに通じるものがある。
世の中に、この非常にパーソナルなニュアンスが分か
る人が他にいるのか甚だ疑問ではあるが、そうなのだ
から仕方ない。
尤も、「のど自慢」は、日曜の半分が終わってしまっ
たという憂鬱が含まれているので、より気分が悪かっ
たということでもあった。

プロ野球も日本シリーズに向けての、わけの分からな
い勝ち抜き戦をやっているし、大リーグでも同じよう
なことをやっていて、誠に日米賑やかだ。
それにしても、そんなに皆野球が好きなのだろうか。
いくらサッカーが台頭してきたとはいえ、一番人気が
あるのは相変わらず野球だとは思う。
北信越リーグなどという、新たな地方リーグの誕生と
いう動きもあった。
関係者は、地域密着型として盛り立てたいようだ。
しかし、野球というのは郷愁のスポーツのイメージが
強く、個人的にはやはり乗れない。

そんな中、亀田問題でますます片隅に追いやられた
「WCラグビー」。
決勝は南アフリカ対イングランド。
知らぬうちに「オーストラリア」も「ニュージーランド」
も消えていた。
「アルゼンチン」などの活躍とか、随分勢力地図が変
わってきている。
しかも南アフリカは、ランキング3位だという(サッカー
だったらもっと良かったろうに)。
単に、こちらが知らなかっただけのことだが、何度も
言うが、ラグビーの扱いの小ささ、大リーグより遥か
に世界的なのにあまりに気の毒である。
ローカルスポーツの方が世界的なスポーツより人気が
あると言うのは、別に珍しくもないだろうが、野球関
係者がその辺のところを勘違いし、まるで野球が世界
的であるかのような振る舞いをするのが、時に傲慢に
感じる。
特権的な態度が気になることが多々あるのだ
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ブルゴーニュ

2007年10月16日 | 食べ物


BSのブルゴーニュ特集で、猪猟の模様を放映していた。
伝統的な儀式で、ちょうどイギリスの狐猟のような感
じだった。
実際の猟はあんな悠長ではないだろうが、ジビエの季
節到来という事でのお祭りの一環であるようだ。
猪というと日本では、味噌鍋というワンパターンな料
理しか思いつかない。
フランスだと赤ワイン煮。
或いはロースト。
どう考えても、野生肉の食べ方としては、フランスに
軍配が上がる。
やはり肉食の伝統の差は、大きい。
猪に限らず、何でもかんでも味噌鍋というのが日本だ
から。
それと、肉の食べごろという考え方もあまりない。
新鮮であれば新鮮であるほど良いという、魚の感覚で
肉を扱うから、往々にして、硬いばかりの肉を食べる
という羽目に陥る。
そろそろ、変わっても良いころではないだろうか。

というのも、最近、鹿がやたらと増え、その処理に困っ
ているからだ。
その食害も無視できない。
下手をすると、禿山化するくらいの勢いらしい。
長野県も、毎年数万頭(確かではないが)の鹿を減ら
さないと、森が維持できないというレベルにきている
ようだ。
感情的には、鹿などは可哀想であるのだが、どんなも
のでも増えすぎというのは問題だ。
鹿のせいで、山崩れが起きたなどということになれば、
それこそ眼の仇にされ、感情的に殺しまくるなどとい
う事態になるかもしれない。
そうならないためにも、数は制限するべきなのかと思
う(科学的調査に基づいて)。
これは自然のためということではなく、人間のために
という話だ。

で、どのみち殺すのは間違いないのだから、ただ捨て
るのはもったいない。
なるべく利用した方が良いに決まっている。
つまり、美味しく食べたいということだ。
鹿料理だと、何故か味噌鍋ではなく、鹿刺しというこ
とになっている。
正直なところ、鹿刺しが特別美味しいものであるとは
思わない。
要するに、生だと癖を感じないので食べやすいという
ことなのでは、と思う。
レバ刺しが、食べやすい(見た目ではなく味ではとい
う意味)というのと同じ原理だ。
熱を通すと、どちらも鉄分の味(ヘモグロビンの味と
言った人間もいる)が癖となって一気に立ち上るが、
生だとそれがない。
考えてみると、その食べ方は、鹿の個性を消している
食べ方である、とも言える。
ここが、日本でのジビエの食べ方のネックになってい
るのだ。
肉の個性を味わう、ではなく、個性を消す食べ方。
結局、これが変わらないと、相変わらずの味噌味ワン
パターンの食指が動かない料理のオンパレードという
ことになってしまう。
鹿刺しや、鍋より、例えば「鹿のロースト苔桃ソース」
の方が遥かに食べたいと思うのだが。
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食い意地

2007年10月15日 | Weblog


最近、食べもの関係でカレーが多く登場しているのは、
自分にとっては未知の食べ物であるからだ。
以前は、好きなものではなく、一年に一回も食べなかっ
た年もあるくらいの、興味の対象外の食べ物だったの
だ。
つまろ、久しぶりに興味がもてる食べ物が登場したと
いうことなのだ。

振り返ってみると、食べ物の記憶というのは、他の人
と比較すると明らかに鮮明に残っている。
食い意地が張っているのは間違いない。
だから、他の人が忘れたような学校給食のあの味が、
未だに忘れられなかったりする。
残念ながら、それは良い意味ではないが。
例えば「カレーシチュー」なる、思い出す度に不味さ
が蘇ってくる食べ物。
粉の味と、そのダマ。
それと脂肉の塊。
子供心に、これは本物の味ではないと思った。
カレー風味にして、その味を誤魔化してる、と思った
ものだ。
全く厭なガキである。
そんな、どう考えても美味くないものを美味しそうに
食べる級友を眺め、その時は、こちらの味覚がおかし
いのかと、不安になったものだ。
或いは、単なる好き嫌いの激しさ故かと。

実際、好き嫌いは結構あり、今でもそうだが、豚肉は
好きではない。
特に駄目なのが「豚汁」などの三枚肉を使った食べ物。
しかし、これには学校給食が絡んでいる。
「カレーシチュー」に限らず、学校給食に出てくる料
理には豚肉を使う。
しかも、全てと言って良いほど、三枚肉の脂の多いも
のを使う。
味も悪く、しかも脂肉たっぷり、決定的に嫌いになっ
てしまったのだ、学校給食のお陰で。
たまに出てくる鯨肉は、赤身なので安心して食べられ
ほっとしたものだ。
今だと怒られそうだが、個人的には癒しの食べ物だっ
たのだ。

そんな、悪夢のような学校給食体験も経て、その後も
食べ物に関する興味は続いていった。
そして、今日に至っているわけだが、好みというのは
どんどん変化して、その都度関心のあるものも変わっ
ていく。
そんな数々の体験のふるいにかけられ残っているもの
が、自分にとっての本物である。
と、尤もらしく書いてしまったが、本物ってなんだ、
と思わないわけではない。
要するに、今の好みというのも、過去の体験があって
の結果であるということだ。
そして、それらに対する関心も、この先続いていくの
だろう。
因果な事である。
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