ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

大晦日

2007年12月31日 | Weblog


昔は何故か楽しみだった「紅白歌合戦」、今は見る気
も起こらない。
すでに過去の出来事ととして、「三丁目の夕日」の世
界となっている。
遠い国で、日本を懐かしむ時、もう一度輝きを増すか
もしれないという対象であるということだ。
そんな「紅白」は大晦日の風物詩として、なんだかん
だ言われながらも今でもそれなりに支持されているか
らまあ良いが、他の局のテレビ番組が、もういい加減
にしてくれと思うようなものばかりで、相当うんざり
する。
いっその事、普段どおりの番組にしてくれた方がまだ
ましだ。
タレントの馬鹿騒ぎという番組は、限界に来ているの
ではないか。

もう今は、昔のように正月三が日はあらゆる店が休み
という状態ではない。
以前は、その間街はひっそり、いやが上にも正月を意
識させられた。
テレビでは、この時ばかりは特別番組。
これが正月だ、という雰囲気に茶の間で浸る喜びを感
じていた時代があったような。
ところが、晴れの日が日常化した今は、特別なという
意識が希薄になり、正月の風情もなくなった。
テレビもそれに合わせ、年中特別番組。
脳みそが溶解するような番組を流し続ける。
垂れ流し、と言った方が良い。
今の状況にうんざり、と感じている人は、一体どれほ
どいるのだろうか。

テレビの劣化と言われて久しいが(一部の間で)、こ
れは視聴者の劣化でもある。
たまに劣化している自分を発見する時もあるが、これ
からはテレビに対しては、更に厳しく対応しないとい
けない(一番影響力がある媒体なので)と、感じる日々
なのである。
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イナダ

2007年12月30日 | 生き物 自然


カフェのT君が忘年会をやろうということで、急遽、
松本の定番「クリヨー.ド.ヴァン」に行くことにす
る。
わざわざ、松本くんだりまでと思うかもしれないが、
お気に入りのところというのが、他に無いのだ。
電車で30分ほどだが、都会の30分と違い、田舎
の電車30分は、その距離にして倍くらい違うかも
しれない。
運行速度が違うし、駅と駅の間隔が違うので。
だから、それなりに遠出という感覚はある。

店に着いたのが夜の8:00頃。
私的なものなので予約などしていない。
もし一杯だったら、最近出来たスペインタパスの店
にでも行けばよいか、と一応対応策は練っておいた。
幸い、席は空いていたので、問題なく入店。
ところが、団体の予約客がいて、その対応で他の客
までは手がまわらない状態だったので、暫しの待ち
を余儀なくされた。
時間的には、8:30くらいか、最初の固形物を口
にしたのは。
ただのオリーヴと、ツナのブランダード。
お腹が空きすぎの状態で、飲み物のシードルとビール
を飲んでいたので、ここでお腹が中途半端に膨らんだ
状態になる。
だから、その後のチキンとか食べる段になったら、妙
に苦しくなってすんなり胃に収まらなくなってしまっ
た。
時間はすでに9:00過ぎ。
間がありすぎということだろう。

T君も同じようなことを言いつつメインの「イナダの
ポワレ」を食べている。
そこで、もう一人合流。
魚料理は、どうも田舎では危険なのであまり頼まない
が、そのイナダはどうかと聞くと、「美味しいですよ」
と言う。
それより、その大きさが、いかにもビストロっぽく大
きく良いのだが、調理もただ焼いて、トマトソースが
かかって、付けあわせがグラタンドーフィノアという、
これまたビストロ定番のジャガイモのグラタンで、見
た目も良い。
問題は、イナダの鮮度だ。

ここでは、過去鯖を何回か食べ、他の魚を数回食べて
いる。
正直なところ、鯖以外はちょっと打率が悪い。
鯖に関しては、7割というところだ。
でも、今回の「イナダ」はT君を信じればストライク
であったようだ。
めでたしめでたしである。
本当は、「ムール貝」が食べたかったのであるが、す
でに売り切れで(団体客に回ってしまった)仕方無し
の選択だったのだが、けっかオーライであろう。
同じ魚系であるが、ここのムール貝は、産地直送でぷっ
くらしていて中々美味いのだ(T君はまだ食べたこと
がない)。

帰りの最終の時間を確認して、食後のコーヒーなどを
飲んで、合流した人間を含め話し込んでいたら、はっ
と気が付いた時には、すでに時間ぎりぎりとなってい
た。
残ったコーヒーを一気に流し込み、ややあわて気味に
店を後にしたのだが、例の団体客はまだ居座っていた。
11:00近くだったので、4時間はいるのではない
か。
「長いね」などと話しながら電車に乗ると、最終電車
ということもあり、結構混んでいた。
こういうところは、都会と同じだ。
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ブルターニュ

2007年12月29日 | 食べ物


映画少年Yが、原宿にあるガレットの店「ル.ブルター
ニュ」へ行ってきたと報告しに来た。

「で、どうだった?」(私)
「いやあ、前食べたのと比べると全然こっちの方が美味
かったですよ」(Y)
「何が違ってた?」(私)
「皮がぱりっとして適度にこげてて、前食べたのはもっ
と湿っぽくてべちょっとしてたんですよ」(Y)
「皮は、薄めじゃないとね」(私)
「これが本物ですよね」(Y)
「多分ね、本場のブルターニュ出身の人がやってる店だ
から」(私)
「ガレットって、ブルターニュのものなんですか?」(Y)
「そもそもがブルターニュ地方の郷土料理なんだから、だ
から同じくブルターニュで取れるシードルなんかもつき
ものになるわけだよ」(私)
「ノルマンディーと違うんですか?」(Y)
「大体同じような地方だから」(私)
「カレーは違うんですか?」(Y)
「カレーの市民のカレーか、あれはノルマンディーだ
よね、カレーで揚がってもヒラメとはこれ如何に、あと
ダンケルクなんかも有名だよね」(私)
「ノルマンディー上陸作戦じゃないですか」(Y)
「となると、オマハビーチも外せないね」(私)
「最前線物語ですね」(Y)

「まあ、兎に角ブルターニュ地方は寒くて葡萄がない
分りんごでシードル、そして土地がやせているので蕎麦
の栽培でガレット、という歴史だよね」(私)
「なんか、巨石文化も有名らしいですね」(Y)
「もともとブルトン人がイギリスから渡ってブルターニュ
だから、ストーンヘンジと同じようなものがあっても
不思議じゃないよね」(私)
「ブルトン人ですか、ケルトとはどう違うんですか?」(Y)

だんだん専門的になってきて、こちらのあやふやな知識
ではこなしきれなくなってきた。

「ケルトってその前は、北欧だろう?」(私)
「確かそうだと思いましたが」(Y)
「要するに、いろんな民族が絡んでいるということだ
よ」(私)
「大まかですね」(Y)
「ドーヴァーに面したフランスの地方は、イギリスの影
響を受けている、ということでどうだ」(私)
「そういうことにしましょう」(Y)
「あとは、本で勉強してちょうだい」(私)
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映画ベストテン

2007年12月28日 | 映画


良くある企画ものの、今年の映画ベストテンというも
のをやってみたいと思ったが、映画館で見た今年の作
品は、後にも先にも一本だけなので今年見た映画でいっ
てみたい。
因みに、去年も、映画館で見たのはたったの一本だっ
た。
「父親達の星条旗」だと思ったが。
どうも、一年に一本が基本的なペースのようだ。

で、今年の映画を思い出してみるのだが、去年だったか
今年だったかはっきり思い出せないのも多い。
よって、かなり適当なベストテンということになる。
とりあえず列挙してみる。

ジャ.ジャンクー「プラットホーム」
同じく「長江哀歌」(唯一映画館で見たもの)
同じく「青の稲妻」
ストローブ=ユイレ「アメリカ階級関係」
鈴木清順「殺しの烙印」
イーストウッド「ミスティックリバー」
ウェス.アンダーソン「ライフアクアティック」
黒沢清「アカルイミライ」
そして娯楽物としては、韓国の「グエムル」。

グエムルをいれても9本。
後何かあったか。
「カミユなんか知らない」は、そこそこだったがベスト
テンに入れるほどでもないという気がするし、うーん。
なにか掘り出し物がほしいところだ。

何か忘れてるとは思うが。
思い出せないので、最後はカウリスマキの「過去のない
男」にしよう。
これでベストテンは揃った。
そうなると順番だが、これは難しい。
娯楽映画も混じると、順位など付けようがない。
ということで、今年見て良かったと思った映画ベスト
テンということで、お茶を濁すことにしよう。
全く参考にならないベストテンだと思うが、個人的な
記録としての意味だけは辛うじてある、かな。
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レンズ豆3

2007年12月27日 | 食べ物


しつこくレンズ豆だが、名前の由来はレンズに形状が
似ているからと思っていたが、どうやらレンズ豆が先
で、レンズがレンズ豆に似ているからレンズとつけた
というのが真相のようだ。
フランス語だと「Lentille」(ランティーユ)で、扁豆
(かた豆つまりレンズ豆)とレンズそのものの意味も
あるらしい。
いろいろ勉強になる。

で、例の「レンズ豆のカレー」だが、前回レンズ豆の
量が多すぎて味的にはちょっとであったと書いたが、
その後、塩味も濃いこともあり、薄めるために生クリー
ムを大匙一杯ほど足した。
すると、今ひとつかなと思った「レンズ豆のカレー」は
劇的に変化して(大袈裟)、充分美味いカレーに変身
した。
生クリーム少々でここまで変わるか、と正直驚いた。
インドでいうと、北だか南だかどちらかがそういうク
リームなどを使うカレーらしいが、そのどちらかのカ
レーになったのだ。
それにレンズ豆そのものも、初日より3日後のほうが
旨味を増しているように思う。
ここでカレー理論の訂正をしないといけない。
カレーは出来たてが美味いという理論だ。
注として、レンズ豆のカレーにおいては必ずしも当て
はまらないと。

しかし、こういうものは実践しないと分からないもの
だ(知らなくても全く困らない知識ではあるが)。
経験してこそつかむ真実。
「日々是勉強」、なんてね。
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年末特番

2007年12月26日 | Weblog


この時期になるとテレビは、毎年毎年同じような番組
を作っては、はしゃいでいる。
世の中は、それ程景気が良いわけではないにも拘らず、
テレビだけが常にはしゃいでいるという図式は、まる
で永遠に続くかのようである。
景気が悪い分せめてテレビで元気をつけて、などとい
う意図はあるわけでもなく、飽くまでもテレビ界の論
理にそっての番組作りであることは自明の理。
基本的に「空騒ぎ」なのだが、本当にこれらのタレント
だけが遊んでいるような番組を、多くの人が望んでい
るのだろうか。

全体的には、これらテレビ番組はその視聴率において
低落傾向にある、らしい。
間違いなく、程度の低いと思える番組は多くなってい
るから、それと比例しているなら、日本人もまだまだ
捨てたものではないと思えるかもしれない。
芸能人のプライバシー暴露番組とか、霊感番組とか、
素人をいじくるトーク番組とかがそれらに該当する
番組だ。
要するに、バラエティー番組というものが殆ど当ては
まってしまうのである。
勿論、ドラマも同じようなもの。
しかも、ドラマの低落の方が顕著であるらしい。
昔のように30パーセントなどという番組は、もう夢
の世界ということだ。
後もう一つ、ジャーナリズム精神などないにも拘らず、
大衆迎合的に正義面する報道番組も加えないといけな
い。

他にも、テレビ関係者の特権的態度に意義ありとか、
兎に角テレビに関する批判は一杯あるのではないだろ
うか。
一言「見なけりゃ良い」のだが、出来ればそうしたい。
これからは、なるべくそういう方向で本気で行くべき
なのだろう。
ペイパーヴューにすれば、見たいものだけ見るという、
だらだら見からは決別できるのだが。
地デジにする理由もそれ程のものとも思えないし、テ
レビサイドの事情でことが進むのはどうにか阻止した
いところだ。
「地デジになったらテレビは見ない運動」などという
ムーヴメントでも起きれば面白いが、まあ無理な話で
ある。
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レンズ豆2

2007年12月25日 | 食べ物


この前のレンズ豆のその後だが、確かに調理時間は、他
の豆に比べると大分短い。
柔らかくなるのに一時間もあればよい。
使いかっては良いのではないだろうか。
で、カレーだが、レンズ豆の量をどのくらいにすれば良
いのか、今ひとつ分からずやったところ、やはり適量
ではなかったらしく、つまり、「カレーの香辛料」に対し
て「レンズ豆」の量が多すぎたようなのだ。
印象としては、カレー風味のレンズ豆の煮込みという
感じだ。
豆の、エスニック風煮込み料理として食べれば全く問
題ないが(それなりに美味い)、カレーとしてだとちょっ
とインパクトに欠ける。
スパイシーさがもっとほしい。
レンズ豆は今回の半分ほど(150グラム)で良かった。
というわけで、今回の「レンズ豆のカレー」は、出来
としては今ひとつで、次回のための布石としてのカレー
ということになったのだ。

しかし、「レンズ豆」という素材は使える。
あるのかないかのような豆そのものの味だが、やはり
あるのである。
旨味もあるし、豆好きとしてはこれからは外せない。
「コンフィ」かなんかの付け合せにでもすれば、一気
に本格度が増すのではないだろうか。
ここにこそ、「カレー風味のレンズ豆」かもしれない。
適材適所とはこのことだ。
これは、一回試してみる価値がありそうだ。

それにしても、昔は豆なんか全く好きではなかったの
だが、いつからこんなことになってしまったのだろう。
年寄りの好物としてのイメージが強かったのだが、ま
さか自分が。
考えるに、「豆大福」が好きだったということが、す
でに豆好きの萌芽だったのかも。
いや、それ以前に「豆もち」という塩味の三角形のや
つが好きだったし、素質は充分で、たまたま開花した
のが最近の話である、とも言える。
要するに、インゲン豆などの煮物の味が、子供のころ
は分からなかっただけで、豆好きはずっと豆好きであっ
たということのようだ。
何も、今驚くことでもなかったわけだ。
なんだ、そんなことか。
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決算

2007年12月24日 | Weblog


このところ、余計な作業に悩まされ続けて、やっとそ
れが昨日終了した。
会計関係なのだが、要するに本意ではないのにやらさ
れる類のもので、全くやる気のおきないものだ。
細かな金銭のやり取りを、記録して、今年一年分をま
とめる作業は、やりなれない身からすると、ある種の
地獄である。
囚われの身と言ったほうが良いか。

基本的に、数字が10円20円違っていても大して気
にならないので、きっちりした世界は息が詰まる。
銀行じゃないんだから、と愚痴りたくもなる。
もっときっちりすべき社会保険庁だって、あれなんだ
から、それに比べればいまやってるこの世界はどうで
も良いと言えばどうでも良い。
と、何度思ったことだろう。
しかし、ぴたりと合わないといけない、らしい。
たまりません。

一年分となると、かなりの出し入れがあり、最終的に
金額が合うことなど奇跡に近いのではないか、と思い
つつ、それぞれの合計を出し、どきどきものであわせ
てみた。
多分、エクセルの達人なら軽く出来てしまうのだろう
が、数字を打ち込むだけで、半角全角でその都度「あ
あ間違えた」と言ってるのだから、推して知るべしだ。
で、どきどきの瞬間だが、まず収入。
案の定というべきか、やはり合わない。
「やっぱりね」と嘆息を一つ。
しかし、きりの良い数字が数千円違うだけ。
辺に端数だと困るが、これなら見当が付く。
それらしいものを確認すると、一つその金額の見落と
しが見つかった。
すんなり原因が判って一安心。
やれやれ次は出金だ。
こちらの方が遥かに多い。

エクセルで画面を見ていると疲れるので、チェックは
手書きでやることにした、しかも書きやすい鉛筆で。
簡単に修正できるし、飽くまでもチェックのためだし
と思ったのだ。
一通り科目別に全部書き出し、それぞれ集計。
そして、とうとう最後の瞬間を迎えるのである。
合うわけないな、と内心思いながら合計を見る。
えっ、合ってる。簡単な入金は間違ってたが、こちら
の方は一発で合ってしまった。
文字通り、合ってしまったである、まるで出会い頭の
衝突のようなものだ。
通帳の残額とも合っているしで、まずはめでたしめで
たしであった。
というわけで、何とか奇跡的な合致で会計は終了した。
しかし、もう、こんなことは一生やりたくない。
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詩.の..ようなもの

2007年12月22日 | 芸術


雪が舞っている
軌跡は一瞬の幻
白い粒は苔
空気に溶け込む世界は
未だ旅立ったまま
世界はある
世界はない
消えたのは意思
それとも意識
渦巻く嵐は
足元に
やがて立ち上り
角質を伴って
或いは
レプトケファルスをまとって
再び雪となり
目の前にその姿を現す

書くことがないので、苦し紛れに「詩」のようなものを。

「のようなもの」で思い出したが、「森田芳光」が撮った
映画のタイトルが「の.ようなもの」でもあった。
今は新作の「椿三十郎」を公開しているが、彼の作品は
「の.ようなもの」を頂点として、どんどん詰まらなく
なる。
しかも「椿三十郎」の主演は織田裕二、パロディーとし
か思えない。
どういうセンスで彼を主演にするのか、全く理解不能。
そもそも織田裕二って人気あるのか。
尤も、人気があるないに関わらず良い役者とは思えない
ので、彼の出てる映画というのは、見る気がおきないし、
見るべき映画もないと思っているので、全く関係ないの
だが、三船敏郎に失礼と思うのは、同じ映画として比較
してしまうからか。
ここは、別物として扱わないといけないようだ。
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レンズ豆

2007年12月21日 | サッカー


フランス料理などの付けあわせでしばしば登場するレ
ンズ豆だが、普通に使う食材ではないので、普段目に
することは、まずない。
輸入食材屋ぐらいにしか売ってないのではないだろう
か。
最近、富に豆好きになってきた身からすると、やはり
興味がある。
そんな状態なので、この前輸入食材屋に行ったとき、
とうとう購入してしまった。
と、大袈裟に言うほどの高級食材でもないので、インゲ
ン豆と同じ感覚で買うのだが、どんなものでも初めて
買うものは、ある種の緊張感を伴う。
やはり、大袈裟か。

直径5ミリほどで、レンズの形をした緑色を帯びた豆。
風味的には、ちょっと小豆が入ってるかもしれない。
美味い豆かと言われれば、美味いと自信をもっても言え
ないが、豆好きとしては好きな味である。
インゲン豆だって嫌いな人は多いと思うから、レンズ豆
なんて言えばもっと多いか。
それより、以前の問題として、知らない人のほうが多い
かとも思う。
知っていても、どうやって使うかがまず判らないし。

煮込み、スープなどが過去味わったものだが、いずれも
付け合わせ的ものだから、単独で食べる対象としては弱
い。
そこで思い出したのが、レンズ豆のカレー。
実は、店の棚に、カレーとしてはもっとポピュラーなヒ
ヨコ豆もあったのだ。
一瞬ヒヨコ豆にしようかと思ったが、ちょっと量が多く、
結果レンズ豆にしたという経緯があったのだ。
ヒヨコ豆のカレーも好きなのだが。
「ダルカレー」とか言ったと思う。
正直なところ、カレーの中では一番好きなのがそれだ。
で、結局量的なものを鑑みレンズ豆にしたわけだが、過
去食べたレンズ豆のカレーも充分美味かった。
それにしても、ヒヨコ豆だレンズ豆だと言うと、なんだ
かおままごとの食材の競演の如く感じる。
かわいらしいネーミングが豆にはお似合いということか。

豆料理は、水でふやかすという作業があるので、一般的
には時間がかかるのだが、どうやらこのレンズ豆は、そ
のレンズ状の形状(つまり薄い)と小ささゆえ、ふやか
す時間は10分ほどで良いらしい。
他の豆よりは使い勝手が良いようだ。
ということで、お気に入りのカレースパイスでレンズ豆
のカレーを作るためにレンズ豆を水に浸した。
どういうお味になるだろうか。
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トルシエ

2007年12月20日 | サッカー


久しぶりの登場だと思ったら、「FC琉球」の総監督
になるとか。
一体、総監督とはどんな仕事をするのか、今ひとつ分
からないのだが、兎に角やるらしい。
「壮大なロマン」のようなことを言っていたが、問題
は資金の出所ではないだろうか。
このチームは、以前、「かりゆし」とかそんな名前で
ラモスが監督をやってその後解任されたりと、いろい
ろごたごたが絶えないチームだ。
日本の代表監督以降ぱっとしないトルシエだが、変な
話に飛びついて利用或いは騙されてるんじゃなかろう
か、とちょっと危惧される出来事だ。

一方、代表監督「岡ちゃん」は、W杯三位以内とこれま
た大きなアドバルーンを揚げた。
20年構想だったら解るが、次回にそれは流石に無理が
あると思う。
目標は大きくということだろうが、それにしても大き
く出たもんだ。
どうなるか楽しみではあるが、そう簡単には行くはず
もない。
いずれにしろ、岡ちゃんにとっての初戦で、マスコミの
対応は決まるだろうし、ああでもないこうでもないと
同じような議論がまた繰り返されるのは間違いない。

しかし最近は、この同じような議論が繰り返されるの
は、そのことが一つの娯楽なのではないかと思うよう
になった。
芸能スポーツにとっては、それが一つの重要な要素で
はないか。
ああでもないこうでもないと、広い階層の人間を巻き
込むためには、進歩とかは無縁の方が良いのだ。
改善されると、すっきりしすぎて議論の余地がなくな
る。
それはそのまま、それらの世界で暮らしていく人たち
の裾野を狭くすることに通じるのではないか。
行革が官僚の仕事を無くすのと同じだ。
いろんな人を巻き込み、同じようなことを繰り返すこ
とによって、その都度関心を向けさせ、その対象の価
値を高め(注目されると価値が増すので)、それに従
事する人たちの働く場を広げる。
その環境が維持されるためには、支えている人たち(
一般のファン)が辺に覚醒しないことが一番重要だ。
同じような議論が繰り返される状況というのは、謂わ
ば理想的な状態なのだ。



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アートの価値

2007年12月18日 | 芸術


今日の新聞に、最近のアートの状況に関する記事があっ
た。
「俗流化」という言葉で表わしていたが、個人的にも
感じていることなので、思わず「そうそう」と頷いてし
まった。
どういうことかというと、市場化の波がアート界にも
押し寄せて、人気のあるものが芸術性があるかのよう
に受け入れられ、それがアートの主流となっていしまっ
ているのが今のアート界であるということ。
昔のように、芸術イコール難しいではなくなった。
まず、芸術という言葉もアートとなることによって、
その重さもなくなり軽くなり、その敷居が低くなり(悪
いことではないが)、ポップで軽い具象的な万人に受
け入れやすいものばかりが、次から次と生み出される。
実際それらを見ても、単なるイラスト、アニメにしか
見えないのだが、それが恐ろしいほどの金額で取引さ
れているのが現実だ。

売れるものが良いものである、というのが絶対的基準
であるかのごとくなっているのが、市場経済の一番の
欠点であるかは判らないが、そう思っている人が多い
のは事実だ(思わされていると言ったほうが良いか)。
文化の衰弱化、と言えるのではないか。
一般的に言って、売れるものはその通俗性が大きな要
素となる。
万人向けな要素と言い換えても良い。
経験的に、通俗的なものに質の高いものはない、とい
うのは知っている人は知っていることではないだろう
か。

例えば骨董。
一見派手な金を使った壺とか、縁起物、いかにも高そ
うだがいかにも趣味が悪い。
見るからに俗っぽいものだが、一般的にはそれなりの
人気がある。
絶対後世に残るものではないが、市場価値は常にある。
つまり、そのものの美的価値ではなく、商品価値がそ
んなひどいものでも確実にあるのが世の中なのである。
趣味が悪い、と思っても、当人は全くそうは思ってな
いから、そう思ってない同士で常にそれなりの価値で
取引され続ける。
そこに目をつけ、投機的な目的で一儲けたくらむ輩も
参入して、一気に魑魅魍魎の世界となるのが骨董の世
界だが、今のアート界も同じような状態となっている
と言える。
特に最近は、中国マネーが、かつてのバブル期のジャパン
マネーと同じ役割を担っているようだ。

結局は、商品価値が作品の芸術的価値と一致しないと
いうことが問題なのだが、もっと問題なのは、その芸
術価値というものが客観的に証明できないということ
なのだ。
主観の領域なので、例えば個人的にセンスが良いと思
う芸術家に対して、他の人がそう思うかは全く別問題。
人それぞれがその人なりのセンスで判断する。
ただ、通俗的なセンスの人というのは、ある程度とい
うか、かなりの確信を持って判断できる。
そして、そういう人が良いと思う物は、殆ど100パー
セントこちらからすると評価できないものであるのだ。
しかしこれも、向こうからすれば全く同じことがこち
らに対して言えることである。
コメント

トヨタカップ2

2007年12月17日 | サッカー


どうも「トヨタカップ」という名前で記憶されている
ので、昨日も「トヨタカップ」と書いてしまったが、
「トヨタFIFAクラブワールドカップ」(長い)が正式
名称ということらしい。
真ん中を抜いて「トヨタカップ」でいい気がするが。

試合は「ACミラン」が勝って、サッカー少年Yもお喜
びのことだろう。
今回もカカー(カカとどっちが正しいのか)は活躍、
全体では順当な勝利といったところではないか。
イタリアの選手は、どことなく垢抜けているので、大
会は華やかさを増すし、浦和も三位になるしで、関係
者にとっては多分理想的な大会だったかと思う。

ところで、最近めっきり寒さに弱くなってきたのだが、
この間、もっと寒いところ(八ヶ岳の麓)の人にその
辺のところを聞くと、昔は平気だったのだが、年とと
もにきつくなってきて辛い、とやはり漏らしていた。
厳しいところの人も、同じ道を歩んでるようだ。
同じ気温でも、昔は平気なのがどんどんきつくなり、
それに伴って厚着をすると、更に寒さの基準が変わっ
て、寒さの臨界点も高くなる。
当然、身体そのものは柔になっていく。
まあ、ひ弱へのスパイラルといったところか。
こうやって、基礎体力の衰えは進行していくのだ。
無駄でもいいから、何らかの抵抗をした方が良いとも
思うが、寒いとやる気もおきない。
やる気と、寒さのせめぎ合い。
結果、寒さの勝ち。
実際、こんなことを書いていると、それだけで終わる
のもまた事実で、要するにやるまえにやれということ
なのだ。
多分、駄目だと思うが。



コメント

トヨタカップ

2007年12月16日 | サッカー


サッカー少年Yが、早速この前の「浦和対ACミラン」の
試合の感想を聞きに来た。

「どうでした?」(Y)
「良いところに着地した、ってところじゃないの」(私)
「そうですよねえ、しかしカカーは凄いですよね」(Y)
「そりゃあ、ビッグクラブの中心選手だから、バロンドー
ルも伊達じゃないね」(私)
「ものが違いますね、でも浦和も頑張ったじゃないで
すか」(Y)
「守備はそこそこいけるって感じだよね」(私)
「僕なんか、5-0で負けないかと心配で心配で」(Y)
「いやに弱気だね」(私)
「みっともない試合だけはしてくれるな、もうそれだけ
でした」(Y)
「でも、攻撃は殆ど通用しなかったよ」(私)
「余裕で逃げ切りですから、やはりレベルの差という
のはしょうがないですよね」(Y)
「まあ、全てはこれからだね」(私)
「決勝はどうなりますか?」(Y)
「全然予想してないよ」(私)
「僕はACミランに勝ってもらいたいですよ」(Y)
「全体ではミランが押してて、一瞬の隙を突いてのボカ
のシュートがディフェンダーに当って一点、結果1-0
でボカの勝ち、何てことになるんじゃないの」(私)
「やめてくださいよ」(Y)

「ところで、表参道の<ガレット屋>ってどこにありま
したっけ?」(Y)
「ああ、ブルターニュ?」(私)
「ルだかラだか、その<ブルターニュ>です」(Y)
「前、神楽坂の店行ったんじゃなかったっけ?味的には
同じだよ」(私)
「店の前までは行ったんですが、混んでて入れなかっ
たんですよ」(Y)
「じゃあ、まだ食べてないんだ」(私)
「それで、今度東京行くんで、その時に寄ろうかと思っ
て」(Y)
「ふむふむ、場所は表参道ヒルズの裏道の...」(私)
「そうすると駅を背にして右ですか?」(Y)
「左に決まってるでしょ」(私)
「駅って地下鉄の」(Y)
「原宿の駅に決まってるじゃない、大体地下鉄の駅じゃ
いくつも出口があって基準にならないだろう」(私)
「はあ」(Y)
「しかも、表参道ヒルズの裏道って言えば、左も右も
関係ないでしょ」(私)
「そうでした」(Y)

と、とぼけたことを言ってるYではあるが、東京に関
してはこちら以上に歩き回ってるのだから知ってて当
然なのだが。
若年性アルツハイマー、なんてことはないよね。
コメント

青の稲妻

2007年12月15日 | 映画


更科の主人に、ジャ.ジャンクーの「青の稲妻」を「プラッ
トホーム」に続けて貸したのだが、その感想はというと、
やはりちょっと解らないという「プラットホーム」と
同じようなものであった。
しかしそれは、詰まらないというはっきりした感想で
もなく、言うなれば判断保留といった感じである。
思うに、その辺が、ジャ.ジャンクーの映画の特徴で
もあるのではないか。
つまり、はっきりしたテーマがあるわけでもなく、ドラ
マを盛り上げる演出があるわけでもなく、しかも、主
人公が一人というわけでもなく、同じ平面状で起伏の
ない世界が展開していくといった印象の、言い方を変
えれば単調で退屈な映画である。
しかし、それが何故か魅力的であるのだ。

「青の稲妻」というタイトルは、何か意味あり気な感じ
だが、原題は「Unknown pleasure」。
密かな楽しみとでも訳せば良いのか。
主要な登場人物は、二十歳前のちょっと不良の二人の
青年と、それより三、四歳年上の謂わばお酒造会社の
キャンペーンガールの三人。
男二人は、兎に角しょぼい。
見た目もしょぼく、やることなすこと全てが共感でき
ない。
女性は、「チャオタオ」というジャ.ジャンクー映画
の常連の女優が演じるのだが、見た目地味で特別スタ
イルが良いわけでもなく華やかさもない。
「チャン、.ツィー」などのスターとは対照的な女優
である。
そんな地味な登場人物が、中国の田舎町の埃っぽい風
景の中で時を過ごす。
世の中に対する怒りを抱えた若者の苛立ち、とかなん
とか言えば納得され易いのだが、そういうテーマはな
かなか明確にはならない。
テーマに沿って、深めようというベクトルはこの映画
にはない。
深めるというより、むしろ拡散のイメージだ。

一般的に「解る」映画というのは、何かテーマがあり、
それが論理的に理解されるかどうかで決まる。
例えば「三丁目の夕日」。
失われたコミュニティーを、郷愁とともに描いた良質
な映画、と論理的に納得できる(以前も触れたが、個
人的には全く評価しないが)。
つまり、解りやすい映画というのは、そうなるための、
論理的な構造を持っている。
物語の構造だ。
主人公がいて、何か事件が起き、それに伴いある波紋
が広がり、ある結果を招くという物語であったり、主
人公が何かを求めて旅に出るであったり、いずれにし
ろ物語としての構造があるものは、解る解らないの判
断は客観的に可能である。
その判断が出来にくい映画が、所謂難しい映画という
ことになる。

しかし、映画が何かを描くというものであれば、破綻
のない物語で描く世界というのは、すでに知っていると
いう意味で類型であり、その世界は過去の変奏でもあ
る。
それは同時に、映画の可能性を狭めるものである。
そもそも世界というのは、知らないことだらけなのに、
類型的なものを見て知った気になるというのは、人の
悪い癖だ。
安心したいからという理由は分かるが。
しかし、その世界は未知ではなく既知の世界。
しかも全体のほんの一部。
もしそのことに自覚的になれば、同じような類型的物
語では描けないものに対しても自覚的になるはずだ。
ジャ.ジャンクーは、そのことに関して自覚的な映画
監督であるのだと思う。
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