ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

オリーヴオイル

2007年04月30日 | 食べ物


先日一リットル入りの「オリーヴオイル」を買ったの
だが、はっきり言って大失敗だった。
ついつい安さに釣られた自分が恥ずかしい。
鮮度が命と言うのは、オイルに関しても当てはまるこ
とで、「オリーヴオイル」なんてオリーヴの香りがし
なかったら意味が無い。
それを確認もせず、つい出来心で。
その安い「エクストラバージンオリーヴオイル」は、
オリーヴの香りは一切無く、ただ油っぽい臭いだけ発
する。
所謂、酸化か。
あー参った。
使いようが無い。
しかも1リットル。
固めてテンプルか。
絵に描いたような「安物買いの銭失い」だ。
エアーポケットに入ったように、たまにこんな愚行を
犯してしまう。
反省の日々はしばらく続きそうだ。

その後、新たに500mlの普通の「エクストラバージン
オリーヴオイル」を購入。
最初からこうしてれば良かったのに、と、愚痴の一つ
もぽろっと出して、味見をすれば、ちゃんとオリーヴ
の香りがした。
当たり前か。
そこで早速パスタを作る。
「蛸のスパゲティ」。
最近見始めた、元イタリアンのシェフのブログに、パス
タは、パスタとソース具、それらが一体化しているか
が重要である、という風なことが書かれていた。
そう言われてみれば、確かに美味いと思うのは、そん
な状態の時である。
同じ材料で同じように作っても、今ひとつ美味しくな
い時がある。
ここは一つ基本に立ち返って、そんな点を意識して作
るようにしよう、と思った。

蛸は、普通の茹蛸を使う。
その他の材料だ、問題は。
蛸だけだと、中々一体化は難しい。
そこでなにかないかと探したら、エノキダケがあった。
エノキダケを使うと、何だか居酒屋チェーン的料理に
なるので、普段はまず使わないのだが、一体化の触媒
としては適役ではないかと思い、使ってみることにし
た。
そして茸好きなので、椎茸の薄切りも少々。
湯で汁も使う。
一体化一体化と。
結果、エノキダケはこちらの期待するような役割をし、
過去の「蛸スパゲティ」より美味いものとなった。
ポイントは、矢張り、一体化。
これからは一体化の時代だね。
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アカルイミライ

2007年04月29日 | 映画


ひさしぶりにギャオで、黒沢清の「アカルイミライ」を
見た。
パソコン上(ノートパソコン)での日本映画は、音が小
さくそのままでは聞き取れない。
そこで、イヤホンを購入して、それに備えることにし
た。
しかし、そのイヤホンは、直接耳に挿入するタイプのも
ので、上手い具合に耳に収まらない。
何かコツでもあるのだろうか。
そんな、時々ずり落ちるイヤホンで、観賞と相成ったわ
けだ。

黒沢清という監督は、結構印象的な作品を作り続けてい
る監督で、今の日本の映画監督の中では才能ある一人で
はないだろうか。
今回の「アカルイミライ」も、他の作品と共通の、寡黙
な人間による饒舌ではない会話が、映画全体を覆ってい
る静謐な緊張感を支えている。
それこそが、この監督の映画の特徴であり、魅力なのだ
と思う。
ともすれば退屈になりがちな映画を、その緊張感故に、
別な次元に昇華してくれる(この部分適当)。

主演は「オダギリジョー」。
陰(屈折した闇を抱えた)のある主人公には最適だ。
役者は素材が命。
もしこれが、「妻夫木聡」だったりしたら、全く駄目
だったろうが、まずその前に、監督は選ぶのも大事な
仕事なので、そういうことはあるはずもないから、比
べること自体意味の無いことだった。
共演には、これまたこの手の映画には欠かせない「浅
野忠信」。
役者は素材が命だ。

「アカルイミライ」という題名は、完全に逆説的なタ
イトルで、内容は明るくないもののオンパレード。
しかし今現在、郊外ではこれに近い現実が密かに進行
しているのではないかと思われるような、あるリアリ
ティを持っている。
根本的にコミュニケーションを取れない人間が、些細
なことで「殺意」を持つ。
その殺意によって、同じような人間が、お互いの存在
を確認する。
ここで一瞬コミュニケーションが成立する。
しかし、その殺意は、お互いに向く可能性も秘めてい
る。
階層化社会は、こんな人間を製造しているのではない
か、と、つい今の社会に照らし合わせて考えてしまうほ
ど、今日的テーマが表出している。
特に、毒を持った「クラゲ」が増殖していくシーンな
どは、いろんな解釈ができそうだ。
しかし、そういうテーマとか解釈は映画にとって必要
なものとも思えない。
ここは、ただひたすら、その不気味さを感じていれば
良いのではないか。
そして「アカルイミライ」と唱えれば、きっと「アカ
ルイミライ」が訪れるであろう(なわけない)。
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添加物

2007年04月28日 | Weblog
最近の食品には、殆ど何らかの添加物は入っていると
思う。
旨味調味料、着色料、それとちょくちょく見かける増
粘多糖類など。
何のためか知らないが、その語感が印象的なのですっ
かりこの「増粘多糖類」は覚えてしまった。
兎に角、表示を見ると、恐ろしいほどいろんなものが
入っている。
しかし、それらが、人にどんな影響をもたらすかは、
多分はっきりとは判らないだろう。
因果関係を証明するのは難しそうだ。

そんな具体的な影響がどうのこうのより、その不自然
さにある不気味さを感じ始めると、その時点で、それ
ら添加物は全て悪となる。
「自然食原理主義」の萌芽。
ある原理を信じ込むことによる心の安定、という宗教
的な領域に一歩足を踏み込むことになる。
ベジタリアンを見ていると、どうもそんな傾向がある
ように感じる。
実際、添加物なしかどうか判らないものでも、そうで
あるというお墨付きさえあれば安心するという心理は、
信じるという行為がどれほど重要であるかということ
を表している。

と、そんなことは、人それぞれの自由だからどうでも
いい。
個人的に気になるのはその味なのだ。
例えばハム、ソーセージ類。
添加物入りの代名詞ともいうべき代表的食品だが、完
全無添加のそれらは、残念ながら味的には今ひとつな
のだ(今までの経験では)。
と言っても、スーパーに普通にある「ボンレスハム」と
か「ロースハム」などは論外。
増量剤入り旨味調味料添加の、決して本来のハムの味
ではないから。
ここで問題なのは「亜硝酸塩」だ。
発色剤として昔から使われているものだ。
ヨーロッパでは伝統的な作り方のハムソーセージに、
普通に使われているということらしいが、これって身
体に悪いのか。
これを使わないハムソーセージ類は、見るからに色が
悪い。
それで味が良いのであれば問題ないが、先に言ったご
とく味も。

聞くところによるとこの「亜硝酸塩」は、風味にも関
係しているらしい。
そうなると、使ってないものの味が今ひとつなのも納
得できる。
ということで、個人的には「亜硝酸塩」は支持する。
そんな大量に使うわけでもないし、それによってまが
い物になるわけでも無し、全然問題ないと思う。
飽くまでも味第一主義。
自然食原理主義者ではないので、この辺は大分アバウ
トなのだが。
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鉛筆

2007年04月27日 | Weblog
最近、鉛筆を再発見した。
すっかり「シャープペンシル」にその座を奪われ、とん
と使うことも無かったのだが、先祖がえりというか、
「鉛筆」が再浮上してきたのだ。
機能優先の「シャープペンシル」は、持ったときの感
触が硬い、或いは冷たい。
手に馴染む柔らかさが無いのだ。
その点「鉛筆」は手に馴染む。
持ったときの感触が心地良い。
これは、昔馴染んだものの記憶が蘇ったということだろ
うか。
兎に角、ここに「鉛筆」は完全復活した。
これからはもう、「鉛筆」の時代なのだ。
少なくとも個人的には。

そうなると今度は、鉛筆削りも復活しないといけない。
そのためにわざわざ購入しました、「鉛筆削り」も。
あまり今は見かけないが、そもそも「鉛筆削り」って今
でも製造しているのか、鉛筆がある限り当然あるはずだ、
と色々考え、しかし、どうせ買うなら雰囲気があるのが
良い、ということで新製品ではなくアンティーク(中古)
のものを物色することにした。
以前は、一家に一台、必ず手で回す「鉛筆削り」があっ
たが、今それが残っている家は殆ど無い。
幸い、一つレトロなものが家では現役で活躍している。
水色のペンキが良い具合にはがれて、実に良い味を出し
ている。
切れ味もよく、なんら問題ない。
しかし今回、それとは別に、もう一台ほしいのだ。

例によって、ウェブ上の「アンティーク雑貨屋」を捜し
歩く。
たまにあるが、結構良いお値段だ。
飾り用ではなく、実用性が重要なので、その点も押さ
えなくてはならない。
いくつか見回って、値段的にも雰囲気的にも丁度とい
うのがみつかった。
アメリカ製だ。
実用性もあるということだったので早速購入。
代引きで到着。
さてさてと、現物を拝見。
見た目は、写真通り、良い感じだ。
問題は切れ味。
固定するためのゴムが底についている。
真空で吸着させる方式だ。
レバーを倒すと確かにしっかり固定できた。
ただ、これがアメリカのスタンダードなのか、穴に入
れた鉛筆を固定するつまみは無い。
つまり、鉛筆は手で固定しないといけない。
その体勢で早速削ってみた。
微妙に鉛筆がぶれる。
しかし、削るは削れる。
そしてその削れ具合は。
これが笑っちゃうのだが、削れる部分が微妙に芯の中心
からずれているのだ。
つまり同心円状に(円錐のように)きれいに削れてい
ないのだ。
流石アメリカ製。
細部の仕事の大雑把さ。
それとも、単に古くなって具合が悪くなったのか。
まあどちらでも良い。
全体的にはそれも含めて気に入っているので、結果的に
は良いものを買ったということで満足したのだった。

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パン

2007年04月26日 | 食べ物


歯医者通いも、いよいよ終わりに近づいてきた。
昔に比べると、丁寧な分、時間がかかる。
それと、治療法も日々進化しているのだろう。
今回、金属の型をはめるのに、昔は型を取った金属を
一回はめて終わりだったのだが、今は二段階でやるよ
うになっていることを初めて知った。
最初に、基礎にあたる型をはめ、その上に歯の形をし
た二番目の型をはめるという工程を踏むのだが、思わ
ず、いつからこういう風になったのか聞いてしまった。
その答えはあっさりしたもので、「ずっと前からこう
ですよ」だった。
浦島か(この部分<欧米か>のイントネーションで)。

本日の治療を終え、松本まで足を伸ばす。
ここのところチーズがあるので、それ用のパンがほし
いと思ったからだ。
そういえば、前回T君のために購入したウォッシュタイ
プの「ポンレベック」だが、T君自身の反応は今ひと
つ煮え切らないというか、はっきりしない。
それでずばり聞いた、「要するに、ウォッシュタイプは
好きじゃないと言うことでしょ」と。
どうもそういうことみたいだ。
ウォッシュタイプ特有のあの「臭い」が、T君にとっ
ては「匂い」にはならなかったようなのだ。
こちらからすると、全くものたらない「ポンレベック」
でこうなのだから、もはや明らかだろう。
これでT君の好みの一つははっきりした。
ウォッシュタイプは駄目であると。

松本のパン屋は、初めて行くところで、バゲットがちゃ
んとしてそうなところなので行く気になった。
今はパン好きも多く、ネット上にそれらの情報が溢れ
ているが、その信頼性となるとかなり怪しい。
例えば、「あそこの何とかデニッシュが最高に美味し
い」とか書いてある情報は、全く当てにならない。
もっと基本的なパンで比較してもらわないと、参考に
ならないのだ。
パンだったら矢張り「バゲット」が基準だろう。
そういう、一番シンプルなもので比較してほしいのだ。
具を使ったパン類は、今や殆どその具は業務用。
もしそれらも自分のところで作っていたら、それは相
当評価できるが(それゆえ美味くないという可能性も
あるが)。
つまり、中身の味は似たようなものなのだから、それ
らを使ったパンでは比較できないということなのだ。

ところが、お目当てのバゲットはなく、仕方ないので
「パンドカンパーニュ」などの全粒粉系をいくつか買っ
て、あまりにお腹が空いていたので車の中で食べる用
に「カレーパン」を買った。
作りたてのまだ温かい「カレーパン」は美味い。
確か、この「カレーパン」も絶賛されていた。
カレーパンとしては美味い部類だとは思うが、絶賛す
る程か、というより、そもそも「カレーパン」を絶賛
の対象にするか?と思ったが、人それぞれだと思い直
し、そのカレーパンをかじりつつ車を運転する。

そして、その足で定番の「クリヨー ド ヴァン」に寄る。
そこで、これまた定番の「鯖のポワレ」を食す。
それにしても「クリヨー ド ヴァン」も、ランチのメニュー、
たまには他のものも用意してくれないかな。
「クスクス」とか。
あと、サラダ仕立てとか。
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ヒメギフチョウ

2007年04月25日 | 生き物 自然


片栗が咲く頃に見られる蝶が、「ヒメギフチョウ」。
春の女神と言われる蝶で、丁度今頃の時期、この辺で
も限られたところだけで見られる。
天気がよくないとさっぱりなので、限られたところで、
しかも限られた気象条件下で、という、遭遇するのも
結構難しい蝶だ。
商売として捕獲する人間もいるから、「ヒメギフチョウ」
にとっては、なかなか出るタイミングも難しい(と考
えてるわけでは勿論無い)。
今年は、その気候条件が中々合わなくて、まだ観察に
も行ってない。
蝶マニアの世界では、「ヒメギフチョウに片栗」は「梅
に鶯」に匹敵するくらいの定番と言うことらしい。
私はまだ見たこと無い。
いつかは、とは思っているが、一眼デジカメを携えた、
見るからにマニアが一杯の中に入るのは、中々勇気が
いる。
コンパクトデジカメだと、なんだか悪いような気がす
るのだ。
片栗の咲いてるところだと、「蝶マニア」だけではな
く「花マニア」もいるから、「一見本格派」が一杯い
るような場となる。
そんなところだと、いかにも片手間に見える私のよう
な人間は、どうしても気後れがするのだ。
あと、彼ら特有の「その世界に入り込んでいるのだ」
という気負いと言うか、上気した雰囲気が、こちらを
戸惑わせるというのもある。

今は、デジカメの普及で、カメラ片手の人間が本当増
えた。
それに皆、結構良いものを持っているのだ。
手軽にどこでも気が付いたらパチリ。
それはそれで楽しいものだ。
しかし、最近流行の、レストランで出てくる料理を撮
るというのはどうなんだろうか。
ブログに紹介なんてパターンが多いと思うが。
撮りたくなる気持ちは分かるが、なんかせわしないと
いうか、食べるのが目的なのか撮るのが目的なのか
どっちなんだ、とついつい言いたくなるような光景で
ある。
店側に断ってやる分には全く問題ないが、なにやらこ
そこそ撮っている姿はみっともない。
万引きか(この部分<欧米か>のイントネーションで)。
証拠写真と称して、同じような写真をずらずら紹介す
るのが多いが、そんなの面白いのかね、と思うが、人
気があるところを見ると面白いと思ってる人間は多い
ということなんだろう。

結局、これも、少数派の悲哀か、まったく。
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若冲

2007年04月24日 | 芸術


この前、京都に桜見物に行ったスノッブなM氏は、「相
国寺」に若冲の襖絵を観にいった、らしい。
「相国寺」は、若冲のパトロン的お寺で、当然のこと若
冲の作品をいくつか所有している。
中でも襖絵は代表作で、それが観たいが為にわざわざ
行った、ということだった。
ところが入場料を払って入ったら、そこで初めて襖絵
のあるところが工事中で、その襖絵が観られないこと
を知った。
つまり、入場料を払う時にはそういう事情を説明しな
かったらしいのだ、お寺側は。
なかなか商売上手だ。

M氏は、「お寺がそんなことやって良いのか」と憤っ
ていたが、「お寺だからやるんじゃない」とこちらは
それに答えた。
M氏からすれば詐欺同然、しかし、入る時に襖絵は観
られるか、と聞いた訳ではない(聞く人間もいないと
思うが)。
京都などの神社仏閣に行くと、いつも感じることだが、
今や関係者の皆さんは商売人?の世界だ。
利益を上げるためなら何でもしまっせ、というメッセ
ージはよく伝わってくる。
今回の場合、「インフォームドコンセント」という言
葉が適用されるような状況だが、命がかかってないか
ら諦めるしかないね。
「それはそれは、お疲れさん」とM氏には言っておき
たい。

それにしても、M氏も、ついこの間まで「若冲」など
という名前さえ知らなかったのに、いつの間にか普通
に若冲などと言うようになった。
それだけ浸透してきたと言うことだが、契機はやはり、
2000年に京都でやった「若冲展」だろう。
個人的にも、過去十年の「ベスト美術展」はその「若
冲展」である。
と言っても、過去十年で他の美術展は、トータルで七
八回ぐらいしか行ってないが。
まあいずれにしろ、良かったことに変わりは無い。
残すは「三の丸尚蔵館」か。
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珈琲3

2007年04月23日 | 食べ物


珈琲にとって欠かせないのは、それを挽く「コーヒー
ミル」だ。
愛用の「ミル」は、「パリの蚤の市」で買ったTin製の
ミルだが、頑丈に出来た、現役バリバリの「本当買っ
てよかった」と思える良い品だ(自賛)。
日本の、ネット上の雑貨情報を見ても、今のところ同
じものは発見されてない。
こういう、「他には無い」という希少性は、自己満足
のためには欠かせない要素だ。
そんな日本で一つしかない(そう思ってれば良いのだ)
コーヒーミルで、がりがり豆を挽く時間、これが良い
のだ(ということにしておこう)。

朝の「カフェオレ」のために挽くのだが、豆は「フレ
ンチロースト」と「アイスコーヒー用」の、同じく深
煎りの豆を半々にして使う。
どう違うのかと、この二つを比べてみたことがあるが、
確かに「フレンチロースト」の方が薫り高く、安い「ア
イスコーヒー用」の豆は、苦味はあるが香りは今ひと
つで、単独でカフェオレに使うと、アイスコーヒー用
に一旦淹れた冷たいコーヒーを、再び温めなおして使
ったような、今ひとつのカフェオレだった。
パックに入った「アイスカフェオレ」をホットにした
味に近い。

兎に角濃い「カフェオレ」が好きなので、豆を使う。
それで、苦味はアイスコーヒー用、香りは「フレンチ
ロースト」というミックスで使うのが良いのではない
かということになった。
全部「フレンチロースト」にすれば、というのもある
が、値段的には「アイスコーヒー」がかなり安いので、
これを使わない手は無いということになったのだ。
結果、嗜好品の良いところ。
慣れると、その味が美味しくなってくるから不思議だ。
習慣化すると、まるで大昔からそうであったかのよう
な顔となる。
カフェオレ用のコーヒーはこれでなくっちゃ、などと
尤もらしく言ってしまえば、それが「真実」。
そうやって、世の中には「真実」が溢れてくるのであ
る。
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珈琲2

2007年04月22日 | 食べ物


考えてみると、ストレートコーヒーというのは、日本
独自のスタイルなのではないか。
他の国で、モカだブラジルだと言うのは聞いたことが
無い。
まして、ホンジュラスとか。
何故ホンジュラスという名前が出てきたかというと、
こういうものの常で、どんどん細かくなってきて、よ
り珍しいもの、つまり、個性的と思われるものにその
矛先が向かうから。
味的にどうのではなく、飽くまでもその名前の希少性
が重要なのだ。

一般的に世界のコーヒーは、「ブレンド」が基本だろ
う。
違いは、ローストの度合いと、淹れ方だと思うが、日
本以外にストレートコーヒーを、今日は「キリマンジ
ャロ」明日は「マンデリン」などと言って飲むところ
があったら見てみたいものだ。
最近は「バリスタ」とかいって、エスプレッソで絵を
描く専門家が登場したりしてるが、それを見ても、今
は豆の産地とかではなく、淹れ方のほうに関心が移っ
てるようだ。
「スタバ」にしろエスプレッソが基本だし、最早サイ
フォンなどで淹れてるところなど、見るのも難しい。
ネルにこだわって、というのはあると思うが。

同じ産地でも豆の品質で等級はあるし、産地の違いで
等級もあるだろうが、それらを上手くブレンドして一
定の味にするのが「ブレンダー」(で良かったたか)
の腕の見せ所。
そもそもコーヒーというのは、苦味がその売りなのだ
から、例えばすっぱい「キリマンジャロ」などをスト
レートで飲むこと自体がおかしい、と昔思っていたが、
時代はそういうところに落ち着いた、のか。
要するに、ストレートにこだわること自体が、なんだ
かな、と思ってきたということなのだろう。
実際、「フレンチロースト」などの濃い焙煎のコーヒ
ーなどの前では、ストレートなどという言葉は完全に
無意味だ。
多分、こういう苦味の強いコーヒーに、酸味の豆を足
すと、こくが生まれるのだろう。
いずれにしろ、ブレンドが基本なのだ。

あと、これは現実的な問題として、いろんな豆を取り
揃えている店は、その豆の品質管理が行き届かない。
つまり、鮮度が命のコーヒー豆なのだが、出ない豆は
全くでないという状況になりやすい。
そうなると、必然的に古くなる。
昔「ブルーマウンテン」というブランド豆があった。
値段は他の豆の倍以上。
味はどうなのかというと、バランスが取れた味(要す
るにブレンド的)というふれこみだったが、実際のと
ころうん?という味だった。
当然、売れない。
古くなる。
香りが無くなる。
しかし、もったいないのでそのまま。
たまに間違って買う客がいる。
美味くないので二度と買わない。
益々売れない。
大体この駄目駄目スパイラルに陥った。

ブルーマウンテンよ、今どこに。
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珈琲

2007年04月21日 | 食べ物


結局、地方の選挙も国の選挙の縮図である、という当
たり前の結論しか出てこない「蕎麦屋政談」の話題は、
何故か「珈琲」に変わった。

「最近流行のストレートってあるの?」(主人)
「今時ストレートなんて時代じゃないですよ」(私)
「そうなの」(主人)
「そんな時代はもう20年前に終わってます」(私)
「へえー」(主人)
「確かに珈琲をストレートで飲むのが<通>であるか
のように思われていた時代は、あったことにはあった
んだけど、それも五六年の間かな」(私)
「ドリップで淹れるやつね」(主人)
「ネルのドリップで、注ぎ口が細い銅製のポットで、
二三十センチ上から静かに注ぎ、蒸らしの行程を経て
淹れ終わった珈琲を、再びちょっと沸騰しない程度に
温めなおして、マイカップに入れて出す、こんなとこ
ろでしょう」(私)
「ちょっと気難しそうなマスターが」(主人)
「白衣なんか着て更に尤もらしく」(私)
「今でもあるんじゃないの」(主人)
「そうですね、そういう店の愛好者はいそうだし、そ
れより消えたのは、ストレートを売りにしたチェーン
店系ですね」(私)
「というと」(主人)
「珈琲何とかっていう店が一時増えたんですよ、それ
らは挽きたて淹れたてを売りにして、ストレート珈琲
も六七種類用意していました」(私)
「なんでそんなに詳しいの?」(主人)
「そういう店でバイトしてたから」(私)

そしてその時の面白い話に。

「常連さんの中には、毎日同じものしか頼まない人が
いるわけですよ、たとえばガテマラならガテマラ、そ
んな人たちを見てると本当に判ってるのか?と誰もが
思う疑問を、わたくしも持っちゃったんですよね、そ
れで悪魔の囁きですよ」(私)
「というと?」(主人)
「ある日決行したわけです実験を、つまり、モカしか
飲まない常連さんに、如何にも普段と同じように、し
かし普通のブレンドを出したわけです」(私)
「その結果は?」(主人)
「予想通りというか、矢張り普段どおりに満足して飲
み干しました」(私)
「全く気が付かない」(主人)
「そうなんです、そんなもんなんですよ、大体判らな
いでしょう、ストレートが好きなんていってる人の殆
どこんなものだと思いますよ」(私)
「やはりね」(主人)
「それで、バイト仲間で利き珈琲をやったわけです、一
応実験する側も被実験者になるべきだと」(私)
「で、結果は?」(主人)
「自分に関しては、六種類くらいでやったんですが、一
度全部正解もあったけど、平均すると六七割くらいか
な正解率は」(私)
「ふむふむ」(主人)
「わざと、ストレートにブレンドを混ぜたり、同じ種
類のを複数にしたりと、いろいろトラップを仕掛けて
やったから、実験としては信頼性があるでしょう」(私)
「しかし、好きだね」(主人)
「ついついやりたくなっちゃうんですよね」(私)
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選挙2

2007年04月20日 | Weblog
「打田」の身欠き鰊を使った「鰊そば」は、予想範囲
の「鰊そば」だった。
但し、味付けが一般的なものより(松葉と比較しても)
濃くなく、そのまま食べても良いくらいの味付けで、
ちょっと小骨が気になったが、なかなか美味しいもの
ではあった。
この手の色物的そばの時は、薬味の葱とか目一杯使い
七味も使いと、どうしても駅蕎麦よりになってしまう
のは致し方ない。
大盛りで頼んだので、結構お腹一杯となった。

しばしお茶を飲みながら、主人と歓談。
話題はどうしても選挙関連。
「床屋政談」ならぬ「蕎麦屋政談」だ。

「結構大変でしょう」(私)
「まあ、近くだからね」(主人)

主人の近所から候補者が出ていて、どうしてもそのよ
しみで、いろいろ頼まれるのだ。

「しかし、相変わらずの風景だね」(私)
「お願いしますの連呼だけだからね」(主人)
「あと、地域のために頑張りますと」(私)
「何を頑張るのかね」(主人)
「そこが問題なのに」(私)
「うるさいだけだよ」(主人)
「それにしても、ああいう風にしないと本当に駄目な
ものかどうか」(私)
「具体的な政策も無いから、ああするしかないんじゃ
ないの」(主人)
「決め手がないんだよね、本当入れたい人が見つから
ないもの」(私)
「出てもらいたい人は出ないもんだからね」(主人)
「もうちょっと知的、美的に垢抜けた人がほしいんだ
けど」(私)
「そんな人、出るわけ無いよ」(主人)

そもそも、そういうセンスは、政治家にとって必要な
ものかどうか。

「旧来の発想しか出来ない人が殆どの現状を見ると、
どうしてもそういう資質を望んじゃうんだよね」(私)
「まあ、田舎でどっぷりの人ばかりだから」(主人)
「田舎どっぷりでも良いんだけど、視野が田舎どっぷ
りだから困るんだよね」(私)
「確かに、その世界しか知らないというのは感じるよ」
(主人)
「そのくせ、田舎の良さには無自覚」(私)
「都会的なものに惹かれると言うこと?」(主人)
「田舎の特徴だけど、基本的に都会に対する憧れがあ
るから、そういうもの、たとえば近代的ビルができる
とそれだけで大喜びで、目が足元に向いてないんだよ
ね」(私)
「ビルが出来ても廃墟になるだけなのにね」(主人)
「田舎の良さは自然環境、これしかない」(私)
「まあ、そればっかりでもないとは思うけど、大きな
要素だね」(主人)
「地元の人間ほど、その良さが分かってないというの
が一番の問題ですよ」(私)
「500メートル離れていたら車の世界だから」(主人)

つづく

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選挙

2007年04月19日 | Weblog
先日市議会候補の、「総決起大会」というものが行わ
れた。
多分、日本全国で繰り広げられている出来事の一つで
あると思うが、下手をすると、その構成要素に巻き込
まれる可能性(つまり動員される危険性)がある情勢
なので、その時間帯を見計らって家を空けた。
鉢巻をして気勢を上げる自分の姿は想像できないし、
死んでもやりたくない。
こういった旧態依然とした選挙の状況は、どうにかな
らないかと思っているし、地区推薦だなんだより、具
体的な政策で競ってもらいたい、というのが基本的な
立場なので、一切関わりたくないというのが正直なと
ころだ。
昨日の歯医者さんは、基本的にはこちらより遥かに真
面目なので、仕事の会合があるにも拘らず20分ほど
顔を出したらしい。
だから私は「そんなものに出るより自分の仕事を優先
しないと」と、歯医者さんに言った。
歯医者さんは「そうですよね」と答えた。
それで私は、その決起大会の内容を聞いてみた。
「鉢巻巻いてなんかやってました」と歯医者さんは言っ
た。
想像したとおりだ。
たまりませんわ。

で、向かった先はいつもの蕎麦やさん。
丁度スノッブなM氏から、京都土産の身欠き鰊を貰っ
ていたので、それを持ち込んで「鰊そば」を作っても
らおうと思ったのだ。
あまり「身欠き鰊」持ち込みというのは、ワイン持ち
込みのようにそうあるものではないが、というかそん
なことする人間あまりいないと思うが、こういうとこ
ろがが行きつけの良いところ。
快く「鰊そば」にしてくれた。

そう言えば、去年も同じことしていたのを思い出した。
それも矢張り、スノッブなM氏の京都土産だった。
「松葉」の身欠き鰊。
今回は「打田」のもの。
「松葉」は鰊そばで有名だが、「打田」は漬物屋で有
名なところだ。
そんなところでも「身欠き鰊」を売るようになったの
か。
「打田」の漬物としては、一時「柚子大根」で人気だっ
たような気がするが、今はこんなものまで扱うようにな
ったんだ。
そこで気になるのは添加物。
ところが「打田」のものは一切使ってない。
使ってあっても食べることに変わりが無いが、心理的
な安心感が違うので、使ってないのに越したことは無
い。
身欠き鰊のような濃い味付けの甘露煮は、味の差はあ
まり無いので、添加物による味のさもあまり判らない
のだ。

つづく。
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歯医者

2007年04月18日 | Weblog
衝撃が元で欠けた奥歯の治療で、この一ヶ月ほど歯医
者通いをしている。
かかりつけの歯医者さんで、今年はいろいろ他のこと
でも縁があり、次回の選挙の立会人はこの歯医者さん
でもある。
相当辛いよ(実際はそうでもないのだが)と、脅かし
をかけているのだが、あまり効果は無いようだ。

で、自分の治療だが、神経を抜いて型をはめるという
手順で進めるのだが、思ったより時間がかかり、この
前「なんでこんなにかかるの?」と訊くと、歯医者さ
んは「そういわれると思った」と答えた。
どうも、こちらに言われるのをちょっと恐れていたよ
うなのだ。
この歯医者さんは、やさしく丁寧な印象の、良い歯医
者さんであると思うが、荒っぽくても早く済ましてほ
しいこちらの要望が、何となく察知しての先ほどの答
えのようだった。
患者はそれぞれ勝手な要望があり、そういうそれぞれ
の相手に上手く合わせ、仕事をしないといけない歯医
者さんも大変な仕事だ。
と言いながら、現実では恐れさせていたのだから(大
袈裟に言うと)世話が無い。

それも、あと少し。
考えてみると、ここのところ1年に一回のペースで行っ
てるような気がする。
順々にどこか悪くなってる。
ところで、今回は奥歯なのだが、その奥に一本だけ親
知らずが生えていて、つまり最後の親知らずだが、基
本的に抜くのが今の主流らしく、今回もそのようなこ
とを言われた。
しかし、前回親知らずを抜いた時には、結構痛かった
ので(痛み止めは意地で飲まなかった)、その経験が
それを拒否させた。
そこで、何故抜くべきなのかと理由を訊いてみた。
どうやら、虫歯になりやすいというのが主な理由らし
い。
となるとこちらの基本的な態度ははっきりする。
つまり、そうなったら治療をすれば良いと。
こうやって、結果、いつも後手後手の治療となる。
しかし、何度やっても改善されないのが、その関係だ。

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景観条例

2007年04月17日 | Weblog
京都の景観条例が、より厳しく変わるらしい。
今までのが緩すぎたのだから、当たり前という気がす
るが、案の定、反対運動(と言えるほどの規模かどう
かは判らないが)が起こった。
理由は、説明が不十分、或いは性急過ぎるとかそんな
ものだ。
しかし、本当の理由ははっきりしている。
損するからだ。

反対している人間の殆どは、不動産業者と、すでに規
制の対象に該当するマンションに住んでいる住人だ。
不動産業者は、直接商売に関わるし、住んでる人間は、
マンションの資産価値が下がるという懸念と、建て替
えるときに、上階を削らなくてはならないという状況
が不可避となる。
不運ではある。
しかし、その言い分を聞いていると、ちょっとどうな
んだと思う。
その言い分というのはこうだ。
「折角上階を買って良い眺めを手に入れたのに、これ
以上低くなったら見ることが出来なくなる」
大体このような意見だった。
「これは市の横暴である」
こんなことも言っていた。
確かに、ご尤もである。

が、この住人には大事な視点が欠けている。
それは、自分達の住んでいる快適な高層マンションに
よって、視界が遮られた人たちがいるということ。
こういう事実に対する想像力が欠如しているのだ。
法的にはなんら問題ないから、堂々と主張できる。
言ってる本人も、自分に正当性があるから何の疑いも
持ってないし、見る限り特別自分勝手な人間にも見え
ないし、マンションを買えるだけの財力もあるから、
それなりの企業に勤めていた、まあ成功したひとだと
思う。
しかし、こういう日本の今を代表する普通の、しかも
知的レベルもそこそこありそうな人が、当たり前のよ
うに、自分の利益中心の発想(無意識的に)からきて
いる意見を言ってしまう世の中ってのは、どうなんだ
ろう。

尤もらしい意見が、実は、自分の利益を確保したいが
ためであった、などというのは、極普通に見受けられ
ることだ。
経済原理が人の思考まで支配している世の中である、
これに関しては疑いの余地は無い。
そして、その先には、荒涼とした干からびた世界、荒
野が広がっている。
そんな荒涼とした世界には、多分、「夕日のガンマン」
もいなければ「荒野の用心棒」もいない(ひょっとした
ら「エルトポ」はいるかもしれないが)。
干からびた胎児(byサティ)が蠢いてるだけだ。

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古道具

2007年04月16日 | Weblog
「古道具」というと、如何にも古くさいイメージだが、
これを「アンティーク雑貨」と言い換えるだけで、一
気にお洒落なイメージとなる。
実際のところ、アンティークというよりはお古、或い
はジャンク、ガラクタなのだが、ネーミング一つでこ
うも変わってしまうのだ。
以前は、全く興味が無い対象だったのだが、これも年
のせいか、捨てる対象がいつしか集めるまではいかな
いが、欲する対象になった。
同じ、例えば鉛筆削りでも、モダンな最新のものより
(鉛筆削りそのもがないか今は)、六七十年代のレト
ロなものの方が魅力的になってきた。
基本的に使える道具がほしいので、完全に壊れたジャ
ンクはいらないが、普段使うものだったら、そういう
古い味のあるものの方がほしい。
昔だったら、絶対捨ててたものだ。

例えば「Tin缶」といったブリキの缶。
お菓子の缶などで昔はポピュラーだった。
日本製にもたまにデザイン的に良いものもあるが、圧
倒的にヨーロッパのものが良い。
人によっては単なるごみが、立派な商品となってしま
うのだ。
つまり、そういう古くなった缶一つとっても、同じも
のは二つとないという、その一つ一つの歴史を刻んだ
顔が魅力的なのだ。
単なる錆、汚れとも言えるのだが、それが好きな人に
は「味」というものになる。
そして、唯一であるというのも、魅力の一つである。

そうやって考えると、アンティークの世界というのは、
世の中の価値というものが、絶対ではないということ
を分かり易く教えてくれるところだ。
ある人にとってはゼロ円だが、ある人にとっては何万
円。
つまり、物の値段の本質があからさまに出るのがアン
ティークの世界なのだ。
今世の中に普通に出回ってる新商品だって、当たり前
のように「良いお値段が」付けられているが、ほしい
人がいなければ価値はどんどん下がる。
決して絶対的に価値のあるものではない。
単に市場原理に基づいて決まってるに過ぎないのだ。
基本的に、同じような価値観を持った人が多ければ、
その人達用の商品は価値がある、と思われてるだけに
過ぎないのだ。

結局、その「もの」を持ってる人のセンス、価値観が
表れ、持ってる本人も、無意識的にしろ自己表現をし
ている、それが即ち、ものの哀れというものなのだ、
ということではなく、物と関わる世界の実相なのでは
ないだろうか(ちょっと尤もらしくまとめてみました)。
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