ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

2006

2006年12月31日 | Weblog
毎日文章を書いていると、ふと、何でこんなことをし
てるのかという思いにしばしば襲われる。
自分の記録のためとか、理由はいろいろ挙げられるの
だろうが、「ふと」という瞬間は不可避なのではない
だろうか。
そういう時には、書かなければすむことなのだが、一
旦やめると、そのままフェイドアウトしそうな予感が
する。
とそこで、折角今までやってきたのだから勿体無い、
という思いがむくむく持ち上がる。
何に対して勿体無いのか分からないが、そんな風に考
え始め、矢張り続けるか、ということになる。
大体、この反復なのではないだろうか。
少なくとも自分の場合はそうだ。

そんなことを思いながら、記録的な観点から自分の文
章を検証してみた。
すると、微妙に、その時の精神状態を反映しているこ
とが判る。
たとえば、昨日の文章などは、やや乱暴で、あまりよ
くはないということが推測できる。
そうやって他の文章を一つ一つ検証すれば、確かに記
録的な意味を認めることが出来る。
自分の精神史的な。
しかし、自分のためには良いとして、読んでいる人に
とってはどうなのかと言う、もう一つの重要ななこと
が残っている。
他人のそんなもの読んで面白いのか。
はっきり言って、この点についてはよく分からない。
自分で読み返しても、うん?と思うくらいだから。

と、いろいろ振り返ってみた大晦日なのだけれども、
来年もよろしくお願いします。
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ワンチョペ

2006年12月30日 | サッカー


印象的なこの名前、誰かというと、今度「FC東京」に
入団することになった、コスタリカ代表のFWだ。
久しぶりの、有名どころのJリーグ入団だ。

野球選手の、非常識な年俸更改のニュースが続いている
中、サッカー選手とのその差が際立ってるのを見るにつ
け、日本は野球だな、と嘆息せざる得ない。
野球選手がいくら活躍しても、日本代表が強くなるわけ
でもなく、実質日本とアメリカしかない野球のローカル
性などを考えると、才能ある選手はサッカーでこそ世界
的になれるのだから、そっちを目指せと言いたくなる。
しかし、稼げるのは間違いなく野球だから、そうはなら
ないことも分かっている。
野球さえなければな、と苦々しく思うだけだ。

この時期は、例のスポーツ特番などもあり、そういう思
いを抱く機会が増えてしまうのだ。
心のどこかに、どうでも良いことだという気持ちはある
のだが、ついつい関心を持ってしまう自分もいる。
たかがスポーツなのだが、人間が肉体を持っている限り、
それらから無縁になることはないのだろう、多分。
そして、今は一つの産業でもあるから、なくなると経
済的に困る人もいるから、そっち方面は間違いなく肥
大する。
商業主義とか批判されるが、産業となった今根底にあ
るのはそれなのだから、当然のことなのだ。
プロもアマも関係ない。
市場原理が全てだ
全ての道は「市場原理」に続いている。

とか何とか無理やりこじつけているのも、深夜にやっ
ている映画などを見てしまってるからで、少々集中力
がなくなってしまっているのだ。
昨日というか実際は今日、イーストウッドの「センチ
メンタルアドベンチャー」なんてのもやっていた。
イーストウッド作品でも好きなこれをやる機会は、滅
多にない。
ついつい見てしまう。
気がつくと、えらい時間。
結果寝不足。
疲れる。
また見る。
更に疲れる。
こうやって寝不足の連鎖は始まる。
こういう時は、車の運転に注意が必要だ。
この前、脇見で土手から落ちそうになったばかりだか
ら、尚更だ。
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鹿

2006年12月29日 | 食べ物


最近は、ジビエ(野生動物の肉)という言葉も大分ポ
ピュラーとなったようで、あちこちでそういうメニュ
ーを見かけるようになった。
信州は、謂わばジビエの本場でもある。
特に、鹿に関しては、増えすぎて処分に困ってるくら
いだ。
というわけで、地元産の鹿を使ったイタリアンを出し
てる店に行ってきた。
こう書くと、始めからその店を目指しているように聞
こえるが、実際はいつものカフェ「クリヨー ド ヴァ
ン」に行こうとしたら臨時休業で(何でこの時期にと
いうのは置いといて)、その替りをとうろうろして、
こういう場合さんざ迷った挙句にしょぼい店に納まる
という経験則があるので、さっと目に付いたところに
決定しようということになって決まったところだ。
当然、初めて入る店だ。
時期的にどこも賑やかで(松本は)、この店も丁度テー
ブル一つ空いてるだけだった。

で、周りを見渡すと、何やら箸を使っている。
そんなに本格的ではないのかな、と第一印象。
メニューを見る。
所謂流行の創作系(どっちつかずの)でもなく、和風
イタリアンでもなく、結局普通にイタリアンだった。
そこで目に付いたのが、件の鹿だ。
鹿(どこどこ産の)の心臓のなにやらとか、鹿肉の赤
ワイン煮(これは一般的)とか、数種類あった。
そこで、心臓と赤ワイン煮を頼むことにしたのだが、
赤ワイン煮が無いということで、鹿肉のステーキに変
更。

日本的な食べ方だと、鹿肉と言うと直ぐ刺身とかにな
る。
この食べ方だと、鹿肉の鉄分の臭みをあまり感じるこ
とがなく食べられるが、個人的にはそれ程美味しいと
も思わない。
焼いた方が個性(臭み)は出るので、こちらの方が良
いのだが、ものによっては出すぎて臭すぎというのも
あるから、油断は出来ない。
結構質的な違いもあるように感じる。
今回の鹿肉は、臭みはあまりない。
心臓も、鳥のハツよりはちょっと、という程度で、む
しろ臭み消しのハーブの匂いの方が気になったくらい
だ。
しかし、料理全体では、特別美味しいというレベルで
はなく、可もなく不可もなくといった感じであった。
他の、パスタもそんな感じで、外れでもないし当たり
でもないという、今年を締めくくるにはぴったりの、
なんとも切れのない終わり方で、どうやら今年も終わ
りそうである。

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パフォーマンス

2006年12月28日 | 芸術


カフェのT君のところでは、クリスマスに、一人芝居の
パフォーマンスを行ったらしい。
女の子一人と、音楽をプログレ好きの男の子が担当、
T君もベースで参加という、なんともどうなのか?の
ものだが、早速その時のヴィデオを見せてもらった。

それは、予想通りの、どう反応したら良いのかなとい
う類のものだった。
女の子一人が、ただ登場し、座って何をするのでもな
く、たまに何か呟くというもので、三十年前だったら
前衛パフォーマンスとして、ひょっとしたら認知され
たかも、というさんざ見飽きたものだった。
はっきり言ってトホホなものだ。
やってる女の子は、二十歳くらいなので、そういうも
のを知らないから本人としては斬新のつもりかもしれ
ない。
観客の殆どは、パフォーマンスなど興味もないし見た
こともないから、ただただ戸惑っているみたいだった。
お気の毒としか良いようがない。

パフォーマンスと言えば、嘗て、周りに仲の良かった
舞踏家が何人かいた。
自称であれ、本人が舞踏家と言えば舞踏家なのだから、
彼らは立派?な舞踏家だった。
それは、殆ど裸に白塗りのやつ、と言えば分かるあの
舞踏で、有名どころの土方巽ともう一人の笠井叡、そ
の流れを汲む舞踏ということだった。
舞踏と武道は共通するとか何とかいって、武道の相手
をさせられたり(真似事)、いろいろ楽しいことも多
かった。
自分の肉体が財産なので、間違いなく体は鍛えていて、
全員余計な脂肪はついていなかった。
肉体による表現。
だから、あまり衣装は身に付けなかった。
そして、お金も身に付けてなかった。
つまり、全員貧乏だったのだ。
但しこれは、意図したものではない。

そんな彼らの舞台でかける音楽は、「ピンクフロイド」
などのプログレが多かった。
振り返ってみれば、こちらの音楽的趣味にかなりの影
響力を持っていたのが彼らだったということだ、今思
うと。
「キャメル」なんてのもそうだったし、言わずもがな
の「キングクリムゾン」も。
渋谷にあった、プログレ専門の喫茶店にもわざわざ行っ
たくらいだから、当時の興味の度合いも分かると言う
ものだろう。
一般の常識から外れた人たちだから、こちらも面白かっ
たし体質的に合ったのは間違いない。
今でもあの頃はかなり懐かしい。
その中の一人は、たまに会うこともあるが、やはり相
変わらず世の中とは良い具合に折り合いはついてない。
しょうがないね、こればっかりは。
そういう人種に生まれついてしまったのだから。


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オイル

2006年12月26日 | 食べ物


その後、新たな情報により、「ヘーゼルナッツ」は「西
洋はしばみ」と日本では呼ばれていることが分かった。
当地には、「つのはしばみ」というはしばみの木が見
られるということも分かった。
はしばみと一口に言っても、いろんな種類があるらし
い。
余程精通して無いと、山で見ても殆ど同じに見えてし
まうから、本当難しい世界だ。
違いが分かれば、面白さも増すだろうが。
そんな日本の「はしばみ」を、一体どう利用したかとい
うのは不明だが、その辺もちょっと興味があるところ
だ。

ところで、オイルだが、以前フランス料理のシェフの
中ちゃんが面白いことを言っていた。
それは、サラダオイルはもう絶対使わないということ
なのだが、なんでも一般にサラダオイルとして売られ
ているのは、安定剤の何とかが入っていて、決して自
然の味ではないということらしい。
確認してないので、分からないが、いずれにしろサラ
ダにサラダオイルは使わないから問題ない、とその時
は答えた。
はるか昔、あまり良く知らなかった頃、サラダドレッ
シングを作ろうとしたとき使った記憶はあるが、確か
その時の印象は、何だか油臭くて美味くないというも
のだった。
だから、使ったのも数回程度だったと思う。

その後、と言ってもかなりの年月が経っているが、「グ
レープシードオイル」というものが出回りだし、使っ
てみると変な油臭さがなくドレッシング用としてはぴっ
たりで、それからは「グレープシードオイル」が基本
となり、そして、ナッツ系のオイルが登場して、ベス
トの布陣が形成されたのだ。
今でも「グレープシードオイル」は、ナッツ系と混ぜ
て(半々くらい)使ったりする。
ナッツ系だけだと濃いと感じたときは、ハーフアンド
ハーフが良い感じなのだ。
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ミニマルミュージック

2006年12月25日 | 音楽


季節ものということで、やはりラジオでは「メサイア」
がかかっていた。
これも結構好きで、個人的には、有名な「ハレルヤ」の
部分より違うところが特に気に入っている。
そういう箇所がいくつかある。
例によって、第何楽章とか言えないところが、その知
識のなさを物語っていて、残念。
CDで何十回と聴いているのだが、全くそういう部分
の知識が身に付かない。
去年なんて、生で全曲聴いたにも関わらずだ。
でも、バロック系が好きなのは事実だ。

現代音楽の「ミニマルミュージック」系が好きなのも、
その流れだ。
その流れというのは、つまりこういうことだ。
と、尤もらしく言うほどのことでもく、同じ(様な)
旋律の繰り返しで構成されている音楽という点で、「バ
ロック」も「ミニマルミュージック」も同じであると
いうことなのだ。
「フィリップ.グラス」「スティーヴ.ライヒ」「テリ
ー.ライリー」などを聴くと、一目瞭然だ(と思う)。

そんな、大御所ではなく、もう少し聴きやすい「ミニマ
ルミュージック」系だったら、マイケル.ナイマンとい
う人もいる。
よりバロック色が強いので、部分部分だと一瞬「バロッ
ク」か、と思えるほど。
彼は映画音楽も多いので、その作品を知らず知らずの
内に耳にしている人も多いと思う。
「仕立て屋の恋」などのパトリス.ルコントものとか、
「数に溺れて」のピーター.グリーナウェイものとか、
結構な数やってるのではないか。
個人的には、大御所物の方が好きだが、マイケル.ナ
イマンもそれなりに良いと思う。

「ミニマルミュージック」と名づけると、何だかわけ
の分からない音楽のように感じるかも知れないが、耳
に違和感なく入る、決して難しい(退屈かもしれない
が)音楽ではない。
別に、知識も必要ないと思うし。
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平均律クラヴィーア

2006年12月24日 | 音楽


この時期、テレビは毎度の特番で埋め尽くされる。
一年を振り返り、どうのこうの、スポーツで一番感動
したのは何か、後はお決まりのバラエティー。
よくも飽きずに毎年同じことを繰り返すものだ、と毎
年毎年思うが、そのことも、年の暮れの季節を感じる
年中行事のごとくなってしまった感がある。
結局、同じようなことしかしないのが、人間の基本的
スタイルということで、そんなことを言っている自分
だって、代わり映えのしない日常を繰り返しているわ
けだから、あまり他人のことを言えた義理ではないか
とも思うが、やはりテレビの特番はつまらない。
平常通りの、大して面白くもない番組で良いのだ。
変にうるさく、大袈裟でない分、まだましだ。

と、そんなテレビは見なけりゃ良いだけのことなので
ほっといて、たまにはクラシックでもと、久しぶりに
バッハの「平均律クラヴィーア」を聴く。
と、書くと、如何にも立派なオーディオセットで眼をつ
ぶり、音楽に会わせ体を揺する陶酔している様が浮か
ぶが、実際は、ミニミニコンポでBGMで流している
だけ、といった程度のことだ。
季節物としたら、バッハだったら「クリスマスオラトリ
オ」、或いはヘンデルの「メサイア」あたりということ
になるのだろうが、たまたま目に付いたところにあっ
たのが「平均律クラヴィーア」だった。
それを、リピートで延々かけていると、BGM感がい
よいよ増してくる。
しかもこのCD、演奏者がキース.ジャレットという
ジャズプレイヤーなので、軽い感じのBGMにうって
つけの仕上がりとなっている。
本格派からすると、多分全然物足りないバッハだと思
うが、今の自分にはこの程度で十分というか、はっき
り言ってバッハは好きだが、演奏者の好き嫌いがはっ
きり言えるほど、その世界には通じてない。
極端に言えば、演奏者は、特別下手ではない限り誰で
も良い。
学生のものでも、ノープロブレムだ。

と言ってるうちに、本日三度目の演奏が始まった。
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La Chinoise

2006年12月23日 | 映画


先日駄目にしたヴィデオ「女は女である」を貸してく
れたT君が来た。
これこれこういう理由で駄目にしてしまった、と経緯
を話すと「いいですよ、どうせ見ないし」と暖かいお
言葉を頂戴した(半ば予想はしていたが)。
そして徐に同じくゴダールのヴィデオ「中国女」を差
し出した。

ゴダールにそれ程興味のないT君が、何故それを所有
しているのかがまず不思議なのだが、聞くと自分で買
ったという。
海賊版でも無さそうだから結構したはずなのだが、そ
ういうヴィデオとかCD(大のプログレ好きで、こち
らも、CANなどというグループはT君に初めて教え
てもらった)には、気軽に投資するのがT君である。
それで普段は、お金が無いとぼやいている。
こういう人は、必ず周りに一人や二人いるのではない
だろうか。

そんな彼の一番は音楽なのだが、映画も、広くはない
が、変にカルト系とか芸術系を知っていたりする。
何でもデレク.ジャーマンの「カラヴァッジョ」が好
きらしい。
一応断っておくが、彼は決して「おすぎ系」の人間で
はない。
まあ、そんな彼の映画的興味が、何かの拍子に一時ゴ
ダールに向かってこういうことになったのだろう。
そしていざ見てみると、彼にとっては面白いものでは
なかった、でそういうものに興味があるこちらに回っ
てきた、ということなのだろう。

「中国女」は見たことあるが、ありがたく頂戴した。
しかしデッキをどうするかが問題だ。
今更ヴィデオデッキを買おうという気は無いし、大体
売っているのだろうか。
ヴィデオテープは、ほっとけばどんどん劣化する。
DVDにダビングするべきなんだろうな、とは常常思
っている。
そうなるとヴィデオデッキ付きDVDレコーダーを買
わなくてはならない。
うーむどうしようか。
同じくT君の音楽仲間が、「ドンキホーテ」に安いのが
売っているという情報をもたらしてくれたが。
おいおい考えるとするか。
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ノワゼット

2006年12月22日 | 食べ物


最近、極私的周辺では、密かにナッツ系のオイルが人
気となっている。
くるみオイル(以前も取り上げたが)やヘーゼルナッ
ツオイルなどが。
野菜サラダにかけると、その風味の良さが最大に発揮
され、サラダの味が一気に良くなる。
これだけで、所謂「本格的味」に変身する。
実に効果的な調味料だ。
丁度、仕上げに使うごま油のように。

こういうものを使うと、市販のドレッシング、たとえ
ば、何が入ってるのか分からないあのドロッとしたの
や、あまりに旨味が強い一見(一味と言った方が良い
か)美味しいドレッシングは、その不自然さにおいて
使う気が起こらなくなる。
シンプルに、オイルとヴィネガー、これが一番。

で、ナッツ系のオイルだが、くるみ、ヘーゼルナッツ、
アーモンドといくつかあるが、使ってみての感想は、
どれでもOK(ピーナッツは例外)。
つまり、どれもナッツの香りが香ばしく、これでなく
てはいけないという個性の違いは、ナッツ本来の違い
ほどは大きくない。
強いて言えば、香ばしさの点で、ヘーゼルナッツかな
という感じだ。
但し、製造元は重要だ。
アメリカ産は、その香りにおいて全然物足りない。
やはりフランス産だ。
フランスだとヘーゼルナッツがノワゼットとなり、オ
イルがユイルなので「Huile de Noisette」という
表示になる。
つまり、こういう表示のオイルだったら間違いない(多
分)というわけだ。
因みにくるみオイルは「Huile de Noix」。

それにしてもノワゼット、ヘーゼルナッツと英語での
名前はポピュラーだが、日本名の「はしばみ」という
名は、今ひとつ知られていないのではないだろうか。
漢字だと「榛」。
結構山にあるらしいが、食用としてあまり使われてい
ないのは勿体無い。
以前は、「はしばみ色」という表現も使っていたが、
最近は「きつね色」に取って替わられた。
「はしばみ色」の方が断然風情があると思うのだが、
それって私だけ?
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クラッシュ

2006年12月21日 | 映画


免許更新のため警察署に行く。
眼の検査を久しぶりにすることになり、この前は何の
問題もなかった輪が、じっと見ないと判らないという、
現在の眼の衰えを否応なく見せ付けられ、その後三十
分のヴィデオを見、最後の手続きを終える。
それにしても、手続きをする交通安全協会の窓口の人、
「安全協会の入会費もお支払いいただけますか」と聞
かれれば、大概の人は「ええ」と答えてしまうだろう。
見た限り、おばさんは全員「ええ」だった。
この場合は「安全協会の入会費は如何がいたしますか」
だと思うが。
上の人間の指導なのだろうか。
なんだか不思議な組織だ、安全協会というものも、と
考えながら、私は断った。

そしてDVDでもと思い「クラッシュ」という映画を
見る。
結構話題になった映画(らしい)ということで、レン
タル屋から借りてきたものだ。
この映画、基本的にはアルトマンの「ショートカッツ」
と同じ作りだった。
つまり、同時進行的に何組かの人間を描いていき、そ
れぞれがどこかで接触、関わり、或いは通り過ぎてい
くというもの。
それを、ある車の事故「クラッシュ」という定点から
遡っていく。
テーマは、アメリカの病巣。
たとえばマイノリティーの問題。
白人、黒人、アラブ系、アジア系、メキシコ系それぞ
れの差別の連鎖。
被差別者が差別者になり、そのまた被差別者が差別者
になっていく様子を、アメリカの根深い問題として描
いていく。
富裕層である白人は白人で、人間不信が病的なほど進
行し、社会全体が不信で覆われている今のアメリカの
出口は一体どこにあるのかと問い、結局人のふれあい
しかないのではないか、という結論のようなものを暗
示する。
非常にテーマとして解り易い映画だったのだが、映画
としてみたらどうかと言われれば、それほど良いとは
言い難い。
そこそこ、といった感じだ。
「ショートカッツ」の二番煎じという批判は逃れられ
ないし、個人的には、テーマがはっきりしてそのテー
マしか描かれてないこのような解り易い映画にそれほ
ど感動することはない。
そこに収まりきれない、何かがある映画が好きなのだ。

と続けて、カフェのT君から借りたゴダールの「女は
女である」を見ようとヴィデオをヴィデオデッキに挿
入。
すでにおかしくなっているデッキなのだが、どうかな
と思って挿入したのだが、ヴィデオは直ぐに吐き出さ
れた。
矢張り駄目だったかと思い、ヴィデオを引っ張り出そ
うとすると、テープがデッキに絡み付いていた。
過去に同じことをしていたが、またまたやってしまっ
た。
更に引っ張ったら、とうとうテープは切れてしまった。
オーマイガー。
この場合フランス映画だったからオーモンデューか。
そんなことを言ってる場合ではなかった。
とにもかくにもT君ごめんなさい。
こんなことになってしまいました。
コメント

楽園

2006年12月19日 | Weblog
藤原組長似のすし屋の親父さんは、仕事を引退したら
宮古島に移住、或いは別宅を持って暮らそうという計
画を立てている。
羨ましい限りの話だ。
最近この手の、リタイヤして海外移住とか、田舎暮ら
しとか、かなり聞くようになった。
今リタイヤするくらいの人間が、最後の年金暮らしが
可能な年代であるということは置いといて、果たして
イメージどおりの生活が送れるかというと、現実はそ
う上手くはいってないようである。
テレビでは、主に成功例を取り上げるので良い風に見え
るが、特に海外などは、半分以上が一年以内に戻って
くるという。

その大きな理由は、現地に溶け込めないというもの。
田舎にしろ、海外にしろ、基本的に現地の文化に違和
感を持ち続ける限り溶け込むことは出来ない。
普段の生活において、普通に現地の人とコミュニケー
ションが取れない場合、町にいても隔離されたような
孤独感を味わうのが関の山。
完全に人里離れた場所を求めるなら問題ないが、そう
でない場合は、異文化を楽しむという心構えが絶対条
件になるのではないだろうか。
あと、食べ物。
これも積極性が無いと駄目だろう。
保守的な味覚の人は、新しい味にチャレンジすること
もないので、その点だけでも異文化での楽しみがなく
なるということになる。
それと、田舎の場合は、その地の風習慣習が重要にな
る。
面倒くさい付き合いとか苦手の人は、別荘開発地のよ
うな一画を除いて、周りに家のあるような村町だった
ら絶対駄目だろう。
これこそが、コミュニケーションが重要だという、最
たる例なのだ。

「海しかない何にもないところでのんびり、最高だね」
(藤原組長似の親父さん、以後藤)
「眠くなったらぐだぐだ、本を読みたくなったら読書、
良いですねえ」(私)
「何もないというのがいいんだよね」(藤)
「でも、競輪場もないですよ」(私)
「何も島まで来て、競輪はないよ」(藤)

  三十年のキャリアの競輪を、そう簡単に忘れられる
  とは思ってないが、それより、親父さんが本当に何
  もないところに耐えられるかどうかの方が問題だ。

「皆そう言うけど、実際海だけで良いというのは三日間
だけで、その後することが無く一気に退屈になってしま
うらしいですよ、殆どは」(私)
「俺はそういうことないよ」(藤)

  相当自信があるようだが、最初は皆そう言う(繰り
  返すが)。

「兎に角、一度経験してみないと」(私)
「そう思って、来年一週間ほど行くことになってるよ」(藤)
「移動したり観光名所見物とかしないで、滞在のみで
ね」(私)

果たして、親父さんは適応できるだろうか。
もし上手くいったら、行く行くはゲストルームでも作
ってもらってこちらに利用させてね、と調子の良いこ
とを考えているのだ。
コメント

バルセロナ

2006年12月18日 | サッカー


バルセロナ対インテルナシオナルの試合をじっくり見
ていたのだが、前半が終わってさて後半という時、全
くタイミングの悪いことに来客。
そこで、詰まらない事柄に関しての話で(相手がくそ
まじめな人なので中々終了しない)時間をとられ、さ
てさてと思ったらもう終わってるではないか。
オーマイガー。
しかも、多くの人間の予想に反しバルセロナが負けて
しまったようだし。
こちらも前日、例の映画少年Y(彼はサッカー少年Yで
もあったのだ)と予想し、彼は1-0でバルセロナ。
こちらは2-1でバルセロナ。
しかも得点はマルケスとオウンゴールだ、とそこまで
予想していたのだ。
終わってみれば、インテルナシオナルの1-0。
結局、前回と同じように南米の勝利ということになっ
たわけだ。

もともとこのトヨタカップは、やる気においては南米
代表の方がはるかに強い。
ヨーロッパ代表は、どちらかというと「しょうがない
な」といった感じで臨む。
試合の価値がそうさせるのだが、今回のバルセロナは
その中でも結構本気だったように見えた。
だからこそバルセロナの勝利を予想したのだ。
まあ、一番の楽しみはロナウジーニョのプレーだった
のだが。
あと、デコのミドルとか。
終わってみれば、南米の底力を見せ付けられた大会と
なってしまった。

しかし、インテルナシオナルの十七歳アレッシャンド
レ、ブレークしそうだ。
間違いなくヨーロッパのクラブに行き、モテモテにな
るだろう。
ブラジルも、嘗てのブストリオ「トリプルR」、ロナ
ウド、ロナウジーニョ、リバウドとひどいのも多いが
たまに憂いのある美形、「セナタイプ」が出てくる不
思議な国だ。
アレッシャンドロなんて、「ダビデの像」的造形だし、
サッカー選手ではかなりの外見的逸材だ。
同じタイプとしてはアイマールが思い浮かぶが、それ
より上ではないだろうか。
勿論、実力があっての話なので、このまま伸びていく
という前提での話なのだが。
現時点でも、日本だったら間違いなく代表。
さんまではないが、代表のためにDNAがほしい。
いずれにしろ、この先どうなるか、いろんな意味で楽
しみな選手である。
コメント

硫黄島からの手紙

2006年12月17日 | 映画


以前は、イオウトウと発音していて、今回の映画が広
まりだしてからイオウジマと発音するようになり、昔
はイオウトウだったという情報を得てからまたまたイ
オウトウと発音するようになり、生き残った兵士の談
話は矢張りイオウトウだったので、確信を持ってイオ
ウトウと言うようになったところ、窓口でイオウトウ
一枚と言った時、一瞬間があったことを確かに確認し
て一般的には間違いなくイオウジマなんんだと思い、
とうとう「硫黄島からの手紙」を観ることになった。

映画は、二宮君(と言いたくなる雰囲気なので)演じ
る、一兵士を中心にほぼ展開する。
日本兵というと必ず出てくる、軍国主義の固まりのよ
うな理不尽な上官も、そして対照的な知的で穏やかな
中心人物の一人、栗林中将、その中将を慕うバロン西
と、いい具合に配置し、戦闘場面は抑え目である。
そして、意外に洞窟の中の悲惨な状況というものもあ
まり強調されてない。
手榴弾で自爆する場面ぐらいかそういうのは。
つまり、戦争の悲惨さをことさら主張したいわけでは
ないのだろう。
むしろ印象としては、戦争という状況にしては洞窟の
中が長閑に感じるくらいだ。
そこでの人間ドラマが、洞窟1から洞窟2そして洞窟
3というように、まるで章が変わると場面が変わるか
のように進んでいく。
そして、それぞれがいろんな方法で死んでいく。
そんな死に方を、一人見続ける二宮君の弱弱しいが優
しさのある眼。
しかし、冷静に見つめるまなざし。
これこそがこの映画の重要なポイントではないか、と
思える。
イーストウッドが彼を抜擢したのは、この眼ゆえだと
確信した。
そして、今ひとつ軍国主義に陶酔できなく(根本的な
不信を持っている)やる気のない彼が(しかし人間的)、
唯一自分の意思で戦おうと思ったのが、中将に対する
冒涜を感じたときだけというのも、映画のテーマとか
探るとしたらキーポイントにはなりそうだ。
いろんな解釈が成立ちそうである。

それにしても、色のない世界だ。
「父親たちの星条旗」ではそれが不気味さにつながっ
たが、今回のは不気味さではなくそれこそ何もないと
いった印象である。
奥行きを感じないフラットな世界。
そこで生起する生と死のドラマ、という枠で捉えられ
るようなものでもないし、そういうまとめというのに
収まらないのがイーストウッドの魅力なのだから、ま
とめようなどと考えない方が良さそうだ。
ただ、今回会話が日本語であるということで、イース
トウッド特有の会話のリズム、言葉の音がちょっと違
うかなと感じた。
これによって全体の印象は大きく変わった。
コメント

競争原理

2006年12月16日 | Weblog
それにしても松坂、羨ましいというか非常識というか。
市場経済的にはそれだけの商品価値がある、という結
果なのだろうが、なんだかね。
ものには程度というものががあるんじゃないのか、と
ため息一つ。

階層化ということをつい考えてしまう。
才能と実力があって自分で勝ち取ったものだから、羨
望嫉妬で見るのはお門違い、勝者の当然の報酬だ。
という考え方は確かに成り立つが、一部の成功者が富
を占有する今の市場経済至上主義の世の中、果たして
希望があるのだろうか。

競争原理で突っ走るアメリカは、いまだにアメリカン
ドリームの国などと美名で糊塗しているが、そんなも
のをまだ素朴に信じている人がいるのだろうか。
要するに、ドリームイコール大金と名声に過ぎない
(それで充分、と言われればそれまでだが)。
その結果、金持ちは要塞のような豪邸を作り、セキュ
リティーに躍起になり、貧乏人はどんどん貧乏人にな
り、治安はそれに比例して悪化し、人はいかに他人を
蹴落として自分だけ成功するかしか考えなくなり、利
己主義が加速、そして街は荒廃、心も荒廃。
しかも、スポーツなどは、それら貧乏人が支え、貧乏
人からスーパースターが生まれるというおかしな構造
になっている。
貧乏人の不満の解消場という機能が益々強くなってい
るとすると、為政者としてはにんまりの現状というこ
とになるか。

基本的に日本も同じ方向に向かっている。
日本の場合、アメリカより繊細な分、自殺者が多いと
いう厭なおまけ付き。
将来的な不安感が重く立ち込めているという、なんと
なくの共通認識のようなものが出来つつある。
お気楽に娯楽の王様スポーツを楽しめ、そして愛国心
を持てば、そんな日常の不安などすっきりなくなるぞ、
と自民党の戦略もはっきり見えてきた今日この頃。
一番は、現実を見ないということになるが、そんなこ
としてると人は、益々宗教イデオロギーに吸い寄せら
れることになる。
世界の情勢はすでにそうなっている。
経済的に豊かなところは右傾化し、そうじゃないとこ
ろは左傾化あるいは宗教原理主義が台頭と、どう考え
ても未来はばら色とは思えないような現実が目の前に
ある。
ここで再びため息一つ、か。
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スタッドレス

2006年12月15日 | Weblog
この時期、当地は普通タイヤからスタッドレスに変え
なくてはならない。
大体、雪が降ってあわてて変えるのだが、今回は珍し
く余裕を持って作業に取り掛かった。
しかし、取り掛かったまでは良かったのだが、その後
がすんなりいかない。
なかなか順調に終わらないのだ。
本来なら、三十分もあれば終了するのだが、今回は結
局二時間もかかってしまった。

まず、タイヤのビスがすんなり外れないというアクシ
デントが立ちはだかった。
十字レンチというやつで外すのだが、何度蹴っても、
うんともすんとも言わないビスが数本。
一本目のタイヤだけはどうにか取り替えられたのだが、
その後のタイヤは、全て頑固なビスによって中断を余
儀なくされた。
あまりに蹴りすぎて、仕舞いにはキック力そのものが
なくなり、ほとほと疲れ切ってしまった。
もうどうにもならなくなり、これは専門家に任せるし
かないなと思い、車屋に行った。
そこで、ビスだけちょっと緩めてもらおうと思ったの
だ。
車屋の小父さんに説明すると、そういう時はレンチの
柄を長くしないといけないと言う。
つまり、力点までの長さを調整ということだ。
確かに、力学的にも正しい。
当たり前のことだが、どうしても今ある道具に固執す
るのが人間の常で、結局無理無理の作業を繰り返し、
徒労に終わるという、なんともな同じような結果をむ
かえてしまう。
少しは工夫しろよということなのだ。

で、どうするかというと、鉄パイプをレンチにかぶせ
長くするのだ。
ということでそのパイプを借りてきて、再び作業開始。
流石に専門家、あとはすんなり外すことが出来た。
しかし、その頃には雨に降られるというありがたくな
いおまけ付だ。
ったくもう、と心の中でぶつぶつ言いながらの作業も
どうにか終わり、改めて最後に付け替えたタイヤに目
をやると、何やらへこんでいるではないか。
いやな予感。
ちょっと確認のため車を動かす。
タイヤを見る。
完全にぺちゃんこ。
オーマイガー。
そして、トホホな気分で折角付け替えたタイヤを、一
本だけノーマルタイヤに戻す。
かくして二時間の作業は、こんな不完全な形で終了と
いう、大変不本意な結果となってしまった。
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