軌道エレベーター派

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軌道エレベーターが登場するお話 (7) 最終定理

2010-04-25 23:38:31 | 軌道エレベーターが登場するお話
最終定理
アーサー・C・クラーク & フレデリック・ポール
(早川書房 2010年)


 軌道エレベーターを世に知らしめた名作「楽園の泉」のアーサー・C・クラーク御大の遺作です。7回目になるこのコーナー、当初は別の作品を扱う予定で、すでに半分読み終えていました。しかし書店で本作を見かけ、興味本位で買ってみると、軌道エレベーターが登場するではありませんか。予想外のことに驚きつつ、ここで取り上げることにしました。

あらすじ スリランカの寺院に生まれたランジット・スーブラマニアンの関心事は信仰ではなく、フェルマーの最終定理の証明だった。彼は既存の証明とは異なるアプローチを追究するが、思わぬ事件に巻き込まる。同じ頃、宇宙の幾多の知的生命体を司る「グランド・ギャラクティス」は、好戦的な地球人が宇宙に進出することを懸念し、これを殲滅するために船団を差し向ける。やがてランジットの行く末と、異星の侵略が交錯していく。ランジットがたどった数奇な人生の物語。

1.本書に登場する軌道エレベーター
 主人公は後半まで直接かかわりを持たないのですが、本作に登場する軌道エレベーター(以下OEV)は次のようなもの。
 世界銀行の融資の下、国連主導で建造するという設定らしく、この作品世界ではOEVのほかにも、各地の紛争に介入したりし、国連がかなりの力を持っているようです。国連を完全に誤解していますが、これは近未来ということで納得しておきましょう。
 建造中は「アルツターノフ・エレベーター」などと呼ばれ、完成するとおおむね「スカイフック」と呼ばれるようになります。この区別の意味はよくわかりません。
 青年時代のランジットが事件に巻き込まれている間に「世界銀行が(略)10億ドル(略)供給を決定した」(128頁)、その後結婚してアメリカに引っ越すと「(OEVが)スリランカの空に向かって、のびはじめたところだ」(179頁)という具合に、彼が歳を重ねていくにつれ、OEVが次第に出来上がっていく様子がちょこまかと書かれています。
 

 OEV自体の構造は1.5世代の静止軌道エレベーター。「ターミナル」と呼ばれる地上基部がスリランカに造られ、ここから、おそらく最低でも20人程度が乗れる「カプセル」(貨物用のものは「ポッド」と表現している。具体的な区別は不明)が、ケーブルを行き来します。平均時速は300kmくらいのようです。軽量の特製ウエアを着て搭乗し、ヴァン・アレン帯を通過する間は3重の壁に囲まれたシェルターに避難します。
 乗り心地の描写はあまりないですが、「旅の最終行程をたどり、窓の外の月がぐんぐん大きくなっていく」というあたりはうらやましいですね。
 このほか、アルツターノフ・エレベーター=スカイフックが実現した後は、これを足掛かりに月面開発も飛躍的に進みます。このほか、地上から資材を持ち上げ、宇宙空間の付帯施設で宇宙船を建造するようになり、低軌道上のデブリを回収し、資源として利用するあたりは、なるほど、面白いと思いました。また、静止軌道ステーションをスタート位置として、ソーラーセイルのボートレースが開かれ、このレースが物語の大きな変節点となります。

 クラーク氏は、本サイトでも紹介した「楽園の泉」をはじめ、「3001年 終局への旅」や「太陽の盾」などにたびたびOEVを描き、本作でも、「一般人が宇宙へいける望みをつなぐためには、アルツターノフのスカイフックが必要」(89頁)といった具合に、登場人物たちの口を通じてその意義を強調しています。「(OEVは)絶対にできるんだ!」という、著者の叫びのようなものを行間から感じずにはいられません。まるで、その実現を見ることができずに世を去ったクラーク氏の、呪詛のようにすら感じるのは私だけでしょうか。

2.物語とフェルマーの最終定理について
 さてこの作品、OEVの描写はスマートで結構なものの、ストーリーやSFとしての面白さは。。。 私は最後まで興味を失わずに読み切れましたが、ほかの人にはいかがなものか???
 そんな本紹介するな、と言われそうですが、宇宙エレベーター協会のサイトならまだしも、ここは私の個人サイトですので、正直な感想をズケズケと書いてしまおうと思います。

 まずはタイトルにもなっている(フェルマーの)最終定理について簡単に説明を。ご存じの方も多いでしょうが、フェルマーの最終定理とは、大雑把に言うと「nが2を超える自然数である場合、X^n+Y^n=Z^n を満たす自然数X、Y、Zは存在しない」というもの。17世紀、フランスの弁護士でアマチュア数学者だったピエール・ド・フェルマーが、本の隅っこに「オレ証明できちゃったぜ。でも長すぎてここには書けないヨ~ン」みたいなことを走り書きし、人騒がせなことに、肝心な証明を示さないまま世を去ったのでした。
 で、本当かどうか解き明かそうと大勢が証明に取り組みましたが、公に認められる証明がなされたのは300年以上後の1994年、プリンストン大のアンドリュー・ワイルズによってでした。
 本作の主人公ランジットは、ワイルズの証明は美しくないと考え、独自のアプローチで証明を試みます(ちなみに、フェルマーの最終定理の証明自体は物語のキーにはなりませんし、彼の証明は具体的に述べられていません)。

 何年か前に読んだフェルマーの最終定理に関する本が大変面白く(本当にノンフィクションなのか、このドラマチックな展開は!)、私はこれにちなんだ本作に強い興味を覚えました。この気持ちがあったので、最後まで読み通せましたが、それがなければ途中で放り出していたかも知れません。
 というのも、物語が陳腐すぎる。一体何を書きたかったのか、読後しばらく経った今でもよくわかりません。心理描写が浅いのは毎度なので仕方ないにしても、SFとしてオリジナリティのある設定もなく、クライマックスの盛り上がりやオチ、ヒネリにも欠けるんですよね。
 グランド・ギャラクティスの存在にしても、「3001年─」の感想でも述べたように、クラーク御大は、私たち人類には認識困難な、超越的な知性を描くのがお好きで、今回もしかり。それゆえに新鮮味がない。

3.笑止な教条主義
 一番鼻につくのは、「私たちは善き存在であれ」と言わんばかりの、中途半端で底の浅い偽善的価値観の押しつけが全編にまかり通っていることで、非常にお説教くさいのです。地球へやってきた異星体にいかに臨むか? この問いが、本作のいわば"最終定理"でもあるのですが、主人公たちは「人にしてもらいたいことを人にしなさい」という考えの持ち主で、これが異星人にまで通じると考えます。
 この思想がどのような結果になるかはお読みください。ですが、善悪や正邪、福祉の観念というものは、心理というコインの裏表、あるいは多面体のサイコロのようなものです。時と場所、条件、文化など、担う人々の主観や伝統などによって容易に違う面を見せる。言い方を変えれば、善は瞬間にしか存在しない。
 そんな常に揺れ動くものを、想像力の豊かさこそが見どころであるSF作品で、こうも薄っぺらに描こうとは、一体どういう了見なのか?

 「グランド・ギャラクティスが悪しき地球人を滅ぼそうとしている。にもかかわらず人類は、愚かにも共食いにふけっている」という構図を描くために、ランジットの視点を通じて混沌とする世界情勢を折々説明するのですが、これもこじつけ臭くて相当な無理がある。
 彼が都合のいい時だけ世界情勢に心を痛めるのがわざとらしく、脈絡もない。彼と妻はブロック化していく世界の行く末に心を痛めるのですが、その割には政治的見識がどうしようもなく浅い(まあ、それが普通ですかね。。。ある意味リアルなのか?)。

 ついには、そのグランド・ギャラクティスに対してまで、隣人愛にもとづく浅薄な価値観を持ち込もうとすることが、超越的存在であるはずの彼らを、我々と同レベルの思考回路を持つ偏狭な存在に貶め、物語の幅を狭めています。
 そして何よりも、そんな思いやりの精神を持ち合えないがゆえに、世界から争いがなくならない。それこそが問題なのに、結局思いやりを発揮すれば解決するなどという本末転倒な思考は、物語のテーゼの破綻ではないか。金ないから困っているのに、「金を払えば解決するよ」と言われているようなものです。つまりランジット、君は実は何の答も出していない。定理を示しておいて証明してないんだよ。そんなとこだけフェルマーの真似すんなよう!

 本作はクラーク氏と「マン・プラス」などで知られるフレデリック・ポール氏の合作ですが、数々の名作をものしてきた大御所が、最初で最後の合作において描いたのがこんな安っぽい帰結だとは、残念でなりません。
 ここまでひどいことを書いたのは初めてで、心苦しいです、でも。。。

 ゴメン! この作品、フォローのしようがないわ ( ̄□ ̄;)

 せめて、「ここまでボロクソに言うとはどんな小説なのだろう?」などと思って読んでみてくれたらめっけもの、というのが精一杯です。前述したように、私は予備的な関心があったので、最後まで意欲を失うことなく読み終えました。ほかの方がどうなのかはわかりません。もし本作の面白さや醍醐味を語れる方がいたら、ぜひ意見交換してみたいものです。
 他人が楽しめないかも知れないものを紹介して、ごめんなさい。

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