もそっと鉱山資料を。 | |||||||||||||
東大寺正倉院に残る古文書(丹裏文書)には、長門国司から26,474斤(約18t)の大量な銅が送られた記録がある。 | |||||||||||||
これは、大仏鋳造用で長登銅山産出のものと、考えられている。この文書の内容は、長門から送られてきた製銅の品質の悪さを問いただしたもので、 | |||||||||||||
その製銅の品質を見分ける技量の匠がいた様である。 | |||||||||||||
1回の運搬で品質の問題ありとはいえ、約20トンの銅が送られている。そのため、年50トンの量についても、さほど困難な数量とも思えない。 | |||||||||||||
この製銅については、熟銅、未熟銅、生銅と区分され、さらに生銅は上品、中品、下品に分別していた様である。 | |||||||||||||
これら品質の差は、採鉱鉱石の差、工人の技術差、製錬工程の段階差等が考えられるが、より後者の方が蓋然性が高い。 | |||||||||||||
製銅の付札木簡には各種の工人の名が記載されており、この中に秦部、宇佐恵勝などのグループがおり、これらは渡来系氏族とみられる。 | |||||||||||||
これ等の氏族については、宇佐八幡宮に関与する氏族にも同様の名前があり、多分にこれらは渡来系と考えられ、この辺りにも長門、香春、宇佐が時期、場所が重なり合う。 | |||||||||||||
長門地区の採鉱の歴史をみると、 | |||||||||||||
7~8世紀 ・・・渡来系技術者の存在(この時代の遺跡に認められる新羅系土器や銅製錬遺物) | |||||||||||||
8世紀初め・・・和銅開珎などの鋳貨の原料(長登採銅所、長門鋳銭所の存在) | |||||||||||||
8世紀中頃・・・奈良の大仏の料銅 | |||||||||||||
と、かなり早い時期から渡来系の人々による鉱石採鉱、銅製錬と銅生産がなされている。 | |||||||||||||
しかし、その後鉱量の減少とともに採鉱が途絶え、歴史の中に大仏銅採鉱の記録が埋もれていった様である。 | |||||||||||||
ここで、何か遺跡や考古学資料とは別のものがないか、検討してみたい。 | |||||||||||||
特に香春では今現在も実施されている神事があり、これは神社と採鉱また渡来人との結びつきを匂わせる。 | |||||||||||||
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