帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

こんな話(その1)

2019-10-30 09:07:23 | その他

先日 新聞にある記事が。

少し離れているとはいえ、ドライブ出来ない距離でない。

またその作品見てみたい気持ちも強い。

そんなこんなで、連れ合いの予定の合間を縫って行ってみます。

場所は駅前の公共施設、「アスピラーテ」。

 

                    

 

JR駅、現在線路を高架にして、作り変えています。

・十年ぶりにこの駅に来ました。

 

                    

 

駅の北側に目指す建物あり、その2階でやっています。

 

                    

 

平日でしたが、それなりの人が観賞に訪れています。

作品は大部分撮影禁止ですが、これはOKと、皆この作品にカメラ向けます。

 

                            

       

聞くところによれば、この方初の個展らしい。

同時にコラボ出品している方のモノも。

 

                    

 

作品を印刷、画集、ポストカード、ポスターや  印刷していろいろ売っています。

 

                    

 

                   

 

父親も同様の画家で、その影響で始めたらしいが、その父親の急死が、この画家の方向を位置づけたとの事。

作風も似ていると云えば、似ているが、題材がちょっと違うのかな?

親父さんはこんなモノ。

 

                   

 

                             

 

本人の作品、ネコがメインだが、他に車等、ちょっと対象違えています。

 

                   

 

                   

 

遅れましたが、この絵すべて色鉛筆で描かれています。画材は画用紙。

写真じゃなかなか分かり難いが、ホンモノ前で見ると、色鉛筆?って感じの絵です。

 

 

         

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いろいろ勉強(その3)?

2019-10-28 07:23:40 | その他

そーは云っても、こっちが調べられる範囲って知れています。

既にこれだけの論点纏めている訳ですから、何も とは思いますが、それはそれ少しは採掘面からのアプローチを。

先ず、沖見初炭鉱が何故数年も掛かって着炭せざるを得なかったか?

調べてみると、海底での地質図(炭層図)がありました。

当然当時これだけ詳細なモノがあったとは考えられませんが、この図からもいろいろ推測できるのでは?

 

                          

 

そー炭層が書かれている地質平面図に断面図。

これで分かります、何故鈴木商店の沖見初炭鉱設立後、何年に亘って出炭出来なかったか?

坑道入口から主要炭層までの距離が長すぎます。

そーです、多分に基盤の変成岩が分布していたため、潜頭露頭が地表より離れており、

隣接の東見初炭鉱と違い、着炭するまで坑道を長く掘り進めばならなかった。

結果、坑道建設費用は掛かるし、着炭後もその距離に比例し運搬コストが生じることとなります。

また、鉱区面積が他炭鉱に比べ広いと云われていますが、西側は既に東見初炭鉱の鉱区、

とすれば東域に鉱区が広がっていたと考えられます。しかし、東域には石炭層の分布は認められません。

となると、鉱区の広さに比べ埋蔵量は少なく、着炭後も南域にのみ採掘域を伸ばすしかありません。

当然、運搬距離、鉱夫、作業員の移動距離も伸び、実務の採炭時間の減少、コスト増加に繫がります。

 

                          

 

上図は坑道等の最終図面で、東見初炭鉱との併合後になりますが、東域への坑道の展開は見られず、採炭していないことが分かります。

この図から東見初炭鉱の出炭に、この域がどう影響していたか、昭和元~20年沖の山・東見初炭鉱出炭一覧表から類推してみましょう。

 

                                 

 

先ずは、昭和6,7年の海底炭鉱の数、4鉱が3鉱に。

多分に沖見初炭鉱が東見初炭鉱に統合されたことによる炭鉱数の減少。

この時点での出炭量の変化、沖ノ山炭鉱は微増ですが、東見初炭鉱は6.5万tの増加です。

沖見初炭鉱の昭和4,5年の出炭量は10万~16万tです。

単純計算で閉山前の約4~6割の出炭がこの域からなされ、東見初炭鉱の出炭量の増加に繫がったのでは と考えられます。

経営者が替わった時期としては、マーマーの出炭量だったのでは?

 

その後の東見初炭鉱の出炭量、沖の山との比較で見てみましょう。

沖ノ山炭鉱は、昭和元~20年、概ね90~120万tの出炭量、

東見初炭鉱は同時期、30~100万tの出炭と、かなりの変化が見られます。

この変化、かなりの部分が沖見初鉱区の出炭が加味された とも考えられます。

出炭比率で見ると、沖ノ山炭鉱、昭和元年を1とすると、最大約2割のアップ

同様に東見初炭鉱、最大4倍弱のアップと伸び率の差、歴然です。

この変化、かなりの部分が沖見初鉱区からの出炭が影響している?

ちょっと云い過ぎか、あんまり地質は良くない との資料もあった筈。

しかし、東見初炭鉱の鉱区面積からみても、その伸びしろやっぱこの沖見初炭鉱鉱区による影響否めません。

思った以上に、出炭量に貢献したのでは・・・

コスト的には?な所ありますが、・・・・

 

と云ったところで、この憶測話終わります。

 

 

 

 

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いろいろ勉強(その2)?

2019-10-26 07:29:04 | その他

どんな内容で講演進むのか?

資料もタンとくれます。

 

                                         

 

先ずはこんな経緯を。

県外資本とはいえ、やっぱ最初にここを開発しようと企画したのは、地元の人間の様です。

その人間が、それなりに調査し、有望な区域と判断、いろいろな人間に働きかけて起業しようとしたのですが、

地元関係者からは色好い返事は貰えない。やっと地元有志と提携組める段階になった際、どーも県外の資本家と契約が出来た様です。

そこで、この地に初の地元外の企業(鈴木商店)が、大正5年(1916年)に沖見初炭鉱を設立。

昭和元年(1926年)に残念ながらこの鈴木商店潰れ、沖見初炭鉱も他社に売却。

ただその精神は受け継がれ、倒産後に起業した商社は、あの日商岩井(現双日)です。

当時の状況、こんな流れです。

採掘準備に取り掛かったは良いが、簡単には着炭せず、結果、出費が嵩むばかりで収入はゼロ、5年程の赤字期間が続きます。

運悪くその間好景気、炭価は上昇、当然物価も上がり、赤字増えるばかり。

やっと、大正10年(1921年)着炭、この年3,090tの出炭、

さー今から赤字を取り戻そうとした折、景気はピークを過ぎ、不景気の時代に突入。

となると、炭価は下がり、掘っても誰もその石炭買ってはくれず、在庫の山を築きます。

大正11年(1922年)には4万t以上の出炭、その後10万tを超える年が続きますが、昭和2年(1927年)に大倉鉱業に鉱区譲渡、この会社が採掘続けます。

昭和4年(1929年)には最大163,584tを掘っていますが、ここも頓挫し、昭和5年(1930年)に隣の鉱区を採掘している地元資本の東見初炭鉱に譲渡。

この昭和4年、有名ですね、そーあの世界大恐慌の年です。

ここだけでなく、この時代市内のあちこちの炭鉱、景気の変化等により倒産、譲渡、統合等、いろいろ形態替えて石炭採掘が続いています。

ここの場合、単純に炭鉱の経営が他社に移っただけでなく、その際いろんな裏工作があったとの資料が。

それらの流れをこんな表に。

 

                   

 

鈴木商店からの会社購入時の入札条件、すったもんだがあった様で、すんなりと大倉鉱業に決まったわけではない様です。

 

講演の中での採掘コスト、比較的優良炭鉱の「沖の山」13.8円/t、それに対し「沖見初」49.4円/t

約4倍弱のコスト、これでは操業なかなかです。結果4年で大倉鉱業もこの炭鉱手放さざるを得なかった様です。

実際大倉鉱業操業時の問題、資料によれば

 

                   

 

炭層の状態悪く、コストも掛かり、良いと想定した箇所ですら、良くない。

どーも事前資料と現況、かなり差異があった様です。

売り主の鈴木商店や融資先の台湾銀行に対し、大倉鉱業訴訟を検討したいが、いろいろ問題もある。

地元炭鉱との協議においても、こんな返答が。

 

                   

 

とはいえ、地元もそれなりの関心もあったのでは、と推察されます。

実際、昭和6年(1931年)には、隣接の東見初炭鉱が本炭鉱を買収、その後採掘を行った様です。

ただ、東見初炭鉱が、この区域をどの様に採掘、コスト的に採算を取っていったかは、今回の講演では述べられていません。

一応講演の纏めとしての論点を、この様に挙げています。

 

                   

 

・買収後の沖見初鉱区の状況

・この地の炭鉱合同の主要海底鉱区での実現

 

いろいろこの沖見初鉱区での採掘に問題あった様です。

それが採掘コストを引き上げていった と思われます。

どんな問題だったのか、既存資料でこの鉱区域を調べてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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いろいろ勉強(その1)?

2019-10-24 07:07:21 | その他

この地にある記念館、開設50周年とのことで、記念講演が。

ちょっと早めに席に着きます。

 

                        

 

周辺見ると、聴講少ないのか、幾分早過ぎたのか?

席の後ろには、こんな施設の展示が。

 

                               

 

何でしょう?

こんな説明板が。

 

                           

 

そー昔のいわゆる人力モーター と云ったところかな? 

「南蛮車」と呼ばれているモノで、深部の排水や運搬を行う機械です。

せっかくなので、も少し前で聴講を と、それなりに真面目なオラッチャです。

 

                        

 

開始の合図で、先ずは挨拶、誰が?

この街の市長さんです、女性で、既に2期?3期?

 

                        

 

続いているってことは、そこそこ人気、実績、実力、どれがかな?

回りを見ると、こんな感じ、そこそこそれなりの人が座って、聴講に。

 

                        

 

満席までは とはいえませんが、・十人の人が座っています。

どんな講演?

 

                        

 

この地の基礎を作った産業、石炭産業、その中のある会社に的を絞った会社経営史に関する講演です。

何か特別な経営だったのかな? と、聴く前のオラッチャ感想です。

さー始まります。

 

                        

 

先ずはその炭鉱位置、いわゆる海底炭鉱の会社です。

 

                        

 

この付近の海底炭鉱、ここを含めて3社です。

話を聴いて分かったこと、2社は地元資本、この会社はよそ者による出資会社です。

この地の炭鉱、地上域は大体全て地元資本、地元を中心にこの地で石炭採掘を行い、その利益を地元に還元、

この産業、「地元による、地元のため、地元への利益」をモットーにしている第1次産業 と聞いていたが・・・

 

そーか、それでこの先生、この会社を研究対象に・・・

どんな歴史がここにあったのか、少し興味が湧いて来ました。

 

 

      

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いろんな変化

2019-10-21 07:26:58 | 病気

年に・回かの診察、いつもの様にせこく駐車で、ウォーキング兼ねます。

途中の景色、青空なかなかです。

 

                           

 

病院に近づき、いつもの景色、今日は天気だからか、日向ぼっこの機体が。

 

                              

 

よーく見ると、どーも充電中か?

この機体、電動ヘリ?

 

                             

 

この日の予約はこんな人数、多いのか、少ないのかは?です。

 

                             

 

いろんな診療科目、当然多寡はあります。

先ず受付すまし、いつもの採血へ。

こんな番号、

 

                             

 

採血用のボードは、

 

                             

 

あんまり待たずにやれそうです。

続いていつもの診察科へ、

 

                                

 

ここは多い、かなり待ちそうです。実際・・時間といつもに比べ・・・

とはいえ、診察は・・分、良いのか悪いのか、いろいろ変化はあるが、・・・・

主に食事療法でのアドバイス、注意はしているんだが、なかなか数値安定しません。

続いてこっちの診察、ここも意外と多く、ちょっと待ちます。

 

                            

 

まー結果は同じで、・月後の予約で無事終了。

支払の待合室、思った以上に少ない、多い?

 

                            

 

窓口での順番、こんな感じ!

 

                              

 

支払順番はこーです。

 

                           

 

予約人数から見ると、真ん中よりちょい手前、診察早かったってことかな?

実際支払ボードもそこそこです。

 

                           

 

ちょっと待って呼ばれます。

 

                           

 

まーなんとか、この日も落ち着いて帰れます。

そーだ、ここの写真を と、玄関出てから撮ります。

新館の1階、こんな様子、

 

                    

 

コンビニのローソンが入っています。

隣の空間は、いろんな展示やくつろぎスペース?

ゆとり空間を醸しだしています。

実際、こんなネーミングが付いています、「オーディトリアム」。

辞書によると、この単語、こんな意味。

「講堂・公会堂・劇場・音楽堂・映画館など,大勢の聴衆の入れる大ホールの総称」

この奥がそんなホール、スペースになっている様です。

 

 

 

 

 

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