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帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

補修(その2)

2020-05-31 07:38:09 | その他

モルタルパテ、どんぴしゃの量で完了です。

とは言え、袋に僅か残っています。パテのカスが。

 

                                  

 

これも有効利用と、この隙間に。

 

                                                                     

 

今度は少しどころか、かなり量が足りません。

かと云って、再度同量買うには、これまた量が多すぎます。

 

その結果、ネットで「モルタルパテ」を検索!

いろいろあり、当然値段もピンキリ、材質は、セメント系か、樹脂系に分かれる感じ。

 

今度はここで調べます。そーいつもの百円shopです。

ネット検索では、百均でも取り扱っているとあったのですが、調べ様が悪かったのか、探せません。

他に適当なモノはないかと物色しますが、今一見つけられません。

そこで目にしたこんなモノ、「グルーガン」との表示、謳い文句は「接着」「穴埋め」「装飾」と。

 

                                                                      

 

百均では、そこそこ高額商品です。

どんな用途があるか、あんまり注目はしていなかったが、文句からは何か使えそう?

結果、パテより安価ということもあり、購入です。

今回これで挑戦してみましょう!!

 

 

 

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はてさてどこか?(その2)  

2020-05-28 07:09:03 | 歴史

先ずは『魏志倭人伝』の原文から、

2000字程度とはいえ、そこそこあります。

まーコピー&ペースト、手抜きのブログ、どこかでミスあるかも。

 

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林

道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家

差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 

次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 

次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 

倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 

當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐

其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉

其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 

其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒

(裴松之)注…魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀

見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年

其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差序足相臣服

収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 

以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 

汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 

牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 

紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 

還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授

其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

 

ここから何を抜き出し、どう解釈するか、知識がないと、やっぱ訳文、和訳が必要です。

僅かこれだけの文章から、多くの人で長い年月の論争が今でも続いている?

まだまだこれらのコピー&ペースト続けましょう!!

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補修(その1)

2020-05-25 09:16:08 | その他

玄関先の階段に。

 

                   

 

前から泥が落ちてはいたが・・・

時間があるので、これを何とか!!

 

                      

 

亀裂の大きさには変化はないが、花壇の土がこの隙間から漏れ出てきます。

どーやって修理、補修を行うか?

常套手段はモルタルの注入、ただこの隙間に練ったモルタル、粘度等を考え、外に漏れ出さない様にしなければいけません。

そんなところで、「まっ良いか!!」と、長年放置。

 

いつものホームセンター店に足を運び、モルタル探します。

店外に山積みの袋入りモルタル、最低でも5kg、そんなにゃ要りません。

店内で何かないかと物色、ありました同じモルタル。

しかし、それでも1kgとやや多い。「ちょっと余らすなー?」と思案、「他に何か代用できるモノないか?」と、いろいろ物色。

そこで見つけたこんなモノ。

 

                      

 

『モルタルパテ』すでに適度な粘性保ち、隙間充填用で販売しています。

「これこれ!!」と、ただ1袋500g、1袋で足りるか? ちょっと考えますが、2袋は間違いなく多い。

取りあえず1袋買って、それからです。

 

亀裂部の清掃から始めます。

先ずは花壇の土の除去、

 

                      

 

周辺の水洗い、そこそこ清掃。

 

                   

 

いよいよ充填作業開始です。

 

                   

 

ヘラで適度な量をこさぎ取り、隙間にパテを詰め込みます。

 

                   

 

何とか様になりそうです。

後はひたすらパテを隙間に。

                   

 

更なる袋がいるか、どーか?

 

                    

 

何とか1袋で間に合った様です、仕上がりはこんなところ!!

 

                           

 

作業時間は〆て・時間、まー作業量としてはそんなものかな。

とはいえ、モルタルの乾燥待って、花壇の土の除去、肥料の投入、新たな花壇用土の準備が始まります。

完成までには、もう・日は必要です。

 

                     

 

 

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これもタマゴ料理?

2020-05-22 07:30:28 | グルメ

まずはこの調味料から

ホートーは、昆布とかつお節で出汁を取るのが基本の様です。

そこまでマメではないオラッチャ、何か代替品はないか? と。

そこで見つけた冷蔵庫の中にある、お助け出汁。

 

              

 

次に登場、今回はタマゴ1個です。

先ずは黄身と白身に分けるところは、前回と同じかな?

 

              

 

白身をしっかりかき混ぜ泡立てます。

ただ、その中に隠し調味でもないが、塩少々と醤油ちょこっと。

泡立てた白身に黄身を混ぜ、材料完成。

同時に最初の出汁を温めます。

ホートーはステン鍋でなく、土鍋が基本の様ですが、そんな洒落たものありません。

 

              

 

この出汁を沸騰させて、その中に泡立てたタマゴを注ぎ込みます。

その結果は、

 

              

 

TVじゃここで大きく膨らんでいたが、残念ながらこの程度です。

土鍋じゃそこで蓋をして10秒待てば完成ですが、この鍋ではちょっと出来ずに鍋からお皿に移し替えて終了です。

 

              

 

ホートーはもう少し膨らんで欲しいが、まー最初と云うことで、これで勘弁して貰いましょう!!

味、食感は、やっぱタマゴ、まー出汁も入ってますので、そこそこ味はついています。

TVじゃ、将軍さまが天皇に献上したタマゴ料理、「たまごふわふわ」と云ってます。

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はてさてどこか?(その1)

2020-05-19 18:41:05 | 歴史

自宅待機が続くと、いろんな弊害出てくるのか、ストレス溜めるより知識?を貯めて遊ぶのが一番!!

そのために、のんびりゆっくり過去の資料を紐解きましょう!!

 

金印を書いて、次は? と云えば、やっぱここですかね?

金印以上に、いろんな方がいろんな説を出している。

しかし、普通に考えると、内容、地理的に見ても、やっぱここでしょう!!

と、思うのが普通では?

そーあの「邪馬台国」、金印の授受が建武中元2(57)年、この国が魏志倭人伝に登場するのが、景初3(239)年頃、開きは約200年、

長いとみるか、短いとみるか?

「魏志倭人伝」における文章の解釈、邪馬台国までの距離・方向の問題、

素人のオラッチャには??ですので、そこにはあんまり踏み込めません。

しかし、僅か2000文字、その中にある行程以外の問題、何があるのか、いろんな説を見てみましょう!!

人の意見を羅列するしか、浅学オラッチャ出来ません。

あちこちの説ではなく、ターゲット絞って独断、偏見での北九州に限定の説で、統一します。

先ずはこの方から。

大御所の松本清張。

詳しい資料は分かりませんが、オラッチャ保有の書籍はこんなもの、これは文庫版なので、昭和61年3月(1986)発行。

 

                        

 

これを読めば分かるでしょうが、ちょっと誤魔化し、他人の評を参照します。

その方、こんな批評を展開しています。

 

 『歴史のレポートを書こうとすれば、史書などの原典を引っ張りだして、引用したデータに間違いがないかを確認する。

  松本清張氏はそういう作業をしていません。大量に史書データを並べますが、おどろくほど不正確で、内容も理解していない。

  漢学者は笑うだろう。そのうえ、自らの意に添わすための曲解、改竄、ねつ造、何でもありで、空想が並べられています。

 
  この著述の前半は、古田武彦氏の邪馬壹国説を否定すること、邪馬臺国を北九州に置くことを主眼としています。

  先に結論があり、それを導くためにデータを切り貼りしてある。

  結論が正しければ証明もスムーズにいくでしょうが、いかないので、論理ではなく、感情ですべてが決められています。

  空想の上に何を積み上げても、ガラガラ崩れるのみです。この人が取り組んだ歴史関係の書物、「昭和史発掘」なども同じではないか。

  そういう疑いを持たせました。歴史研究書風の推理小説とでも分類しておきましょう。改竄がないぶん古田武彦氏の方がましです。

  古田氏なら曲芸的解釈をひねり出すところを、この人は文字を改竄して簡単にやっつけてしまった。

  古代の人々が書き残してくれた貴重な記録に対する畏敬の念が欠けている。

  倭と倭人の区別の指摘を除いて(それも中途半端ですが)、歴史研究書としての価値はありません。

  独りよがりの思いこみが多く、データ調べの参考資料としても役立たない。

  小説家に歴史は書けない。そう感じさせました。』

 

天下の大御所へ、容赦ない罵声を浴びせています。

ほんまどーなの?

確かにこの方、HPでかなり詳細なデータ並べ、いろいろ述べています。

そこからの結論なんでしょうが、清張氏それなりに時間を掛けての説なのでは と思う清張ファンの1人です。

 

実際この方が挙げている古田武彦氏、この方の文献の初期3部作やっと最近手に入れ、1冊目読破。

遅れてきた歴史好きです。そこから始まっているため、他意なくこの北九州説に固執します。

 

                        

 

こっちはちゃっかり利用するだけ、まー著作権違反と云えば違反か?

営利目的でない場合、許諾される?

大目に見て貰いましょう、個人ブログと云うことで。

清張氏がこれを纏めたのが、昭和51年11月(1976)の様です。

武彦氏が自説を発表したのが、昭和46年(1971)、この差がやっぱり影響ある差?

とはいえ、清張氏のこの説への取り組み、昭和40年代?から始まっている。

そんな意味では、清張氏への批判そこまで云えるか?ってのが、率直なホートー遅れてきた意見です。

 

そんなところで、先ずは「魏志倭人伝」から、この全文載せてみましょう!!

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