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はてさてどこか?(その29)

2020-11-20 07:05:14 | 歴史

オラッチャの3つ目の問題、「倭から魏への朝貢」こんな思いが。

朝貢:2回に渡る貢物、こんなものです。

「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」

「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢」

気になるモノは、倭錦、絳青縑、帛布、丹です。

概ね絹製品、倭とすれば精一杯の貢物でしょう。

さらに丹、単純に考えると、多分に水銀かな?

先ずは「絹製品」

いろんな絹製品を渡したってことは、それなりに技術があった証拠でしょう。

とすれば、日本の遺跡にもその痕跡、当然ある筈。

そー発掘された遺物から見つかっている絹製品、全て九州地方です。

県で云えば、福岡、佐賀、長崎県、しかも、倭人伝を遡ること300年前に養蚕と絹織物があった。

畿内での絹製品の出現は4世紀以降になる。

とすれば、どっちがより邪馬台国の位置になるか、決まりそうです。

もう一つの疑問、「丹」です。丹の字、こんな文章で出てきます。

「以朱丹塗其身體」、「其山有丹」、「真珠鈆丹各五十斤」、「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢」

同じ意味の「丹」なのか、チョイ疑問が。 

ある方がネットで、その丹に関してこんな解釈を。

「以朱丹塗其身體」

朱丹を身体に塗る。中国の粉化粧のようなものである。

(朱丹とは何かと考えると、朱は人工の赤色顔料で、丹は自然の赤色顔料になり、阿蘇の湖水から採れるベンガラは丹になります。 

「其山有丹」

この山には 丹(ベンガラ)がある。 「この」は倭のことと考えるのは間違いではありませんが、相応しくありません。

阿蘇山は「山海経」の「山環之:山はリング状に囲う」から推測されます。 「この」とは陳寿は意識してないことと思われますが、

漢の時代から有名だった阿蘇山を含んでいるようです。

「真珠鈆丹各五十斤」

(倭の女王に与えた)真珠と鉛丹は共に五十斤である。 五十斤を周代の斤(256g)で計算すると12.8kgになりますが、

50単位のアバウトな数値感覚であり、8kg程度が想定されます。

鉛丹は鉛から加工した丹のことですが、この意味として、何時の時代から使われていた中国語かは不明です。

「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢」

「丹木」の「丹」は丹薬の意味で、真っ赤に紅葉する日本の固有植物であるメグスリノキではないかと思います。

私は20年前に目を悪くしたので、目薬木を1年間飲んだ経験があり、黒田勘兵衛や熊本の細川藩との関係は知っています。

目薬木は700m前後の高度が良い生息条件みたいで、阿蘇山付近が丹木の採集地ではないでしょうか? 

この方は、「丹」は概ねベンガラ系と考えている様です。

ベンガラ系であれば、さほど珍重されないとも思えるので、わざわざ朝貢するかは、チョイ疑問です。

特に最後の丹は、かなり解釈異なります。

別の方の回答には、

辰砂→丹

鉛丹→朱 

朱と丹は違う可能性も。

 

朝貢の品物と考えた場合、やはり珍重すべき物、また魏の皇帝も欲する物と考えると、やはり丹は水銀の可能性が高いのでは。

ベンガラや水銀の赤に関してこんな説明が。

人類にとっての赤は、血液の彩であり、生命力の具現化である。地殻には多くの鉄が含まれているため、

三価の鉄イオン (Fe3+) による黄色〜赤色系顔料は有史以来事欠かなかった。

ただ、酸化鉄の赤はやや茶色くくすみ、躍動感と生命感あふれる彩度の高い赤とは言い難い。

そんな中で、ときおり野山に見つかる水銀硫化物の辰砂(cinnabar, HgS)の鮮やかな赤は、古くより珍重されてきた。

辰砂は水銀の代表的な鉱石鉱物であり、その真っ赤な色は非常に目につきやすい。日本における辰砂採掘と水銀の利用は弥生時代から平安時代にかけて発達し、

西日本では多くの鉱山が開発された。

顔料としての硫化水銀は朱または丹と呼ばれ、貴重な赤色顔料だった。高松塚古墳の彩画の赤は、水銀朱によるものである。

日本には古くから水銀鉱山が多く、歴史のある鉱山は和歌山、奈良および四国などの中央構造線沿いに多い。

辰砂を探し、それを選鉱し水銀朱を採取する技能は、ある人々に代々受け継がれ、

そのような人々、もしくは彼らの住む水銀を産する地は丹生(にう、にゆう)と呼ばれた。

彼らは、中国もしくは朝鮮半島からの渡来人であったとも言われ、今でもその名残が地名に多く残っている。

空海は弘法大師として日本の仏教史を語るうえで欠かせない人物だが、鉱産物を調査する応用地質技術に長け、辰砂や銅鉱などを四国各地から見いだした。

遣唐使の経験によるものだろうか。空海による開山伝説の残っている水銀鉱山は、伊勢の水銀鉱山などをはじめとし、枚挙にいとまがない。

 

これらの資料からみると、丹は九州と云うより畿内、紀伊半島一帯の中央構造線沿いの鉱山からの採掘が一般的の様です。

九州での水銀鉱床は、どうなのか?

以前の資料では、大分県の中央構造線沿いに、その可能性ありと指摘している。

他資料から、長崎、佐賀県周辺にも水銀鉱床の可能性の指摘が。

もし、あれば九州説にとっては、かなり有望なんだが・・・

 

取りあえずこんな資料が。

 

                     

 

九州一帯にも水銀鉱床あるにはあります、卑弥呼の時代、これを見つけていたかは不明ですが・・・

 

 

 

 

 

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