鏡の問題、はてさてどんな問題か?
先ずは「三角縁神獣鏡」から。
この種の鏡、主なる出土は畿内です。
そのため、卑弥呼が下賜された鏡では が畿内説を唱える方々の切なる思いです。
特に畿内の邪馬台国推定域の周辺に位置する黒塚古墳から、平成10年に大量(33枚)の三角縁神獣鏡が出土した。
それまでは概ね10枚以下が主体であったため、この鏡が卑弥呼の鏡と確証されるならば、邪馬台国の位置も大和と見なされることになる。
現在までに発見、発掘されたこの種の鏡、400枚弱と多い。未発見のモノ含めると、1000枚超えるのでは との意見もある。
となれば、倭人伝の100枚に対して多すぎる。
ただ、魏の皇帝が鏡を与えた場合、種類としては何種類もの鏡でなく、一種類の鏡であろうとの意見もあり、鏡の種類分けで、
各々何枚かの資料はないし、当然未発見のモノもあるので、どの種類との決定は不可能であろう。
ただ問題な点は、この鏡、中国では出土しておらず、日本でのみ出土の鏡であり、果たしてこの鏡の製作地は日本、中国どっちなのか?
また出土する古墳は、この鏡の作製時期とはかなり離れ、概ね4世紀?
そのため、下賜後の早い時期に埋められたと云うより、伝世され、時間を置いて埋められたとする説が主流らしい。
時間を置くとするなら、なんでまた埋めた、埋めずに管理ってことでも良さそうだが・・・
この鏡の埋められた時期も、逆にある時期に限定されるってのもどーなの?
と、いろいろ疑問の多い鏡である。
また、前回にも書いた様にこの鏡の大きさが、中国で製作されている鏡に比べ、かなり大きい。
そのため中国で作られたとする事に、問題が出てくる。
ただ、魏の皇帝が日本に下賜するため、特別に作らせたとの意見もあり、製作地に決め手がない。
しかも出土する鏡の銘文にも、いろいろ問題がある様である。特に鏡の銘の年号、「景初三年」、「正始元年」
さらに「景初四年」ってのまで、そー魏にはない年号です。
ただ鏡製作に関して、魏はあまり熱心ではなかった様で、今現在分かっている中国での魏の鏡は、「位至三公鏡」くらいと云われている。
次は「漢鏡」の問題。
これに関してあまり述べている資料ありません。
どうしてもこれを書くと、九州説に行かざるを得ない恐れもあるのかも知れません。
三角縁神獣鏡が日本に入っていたとされる弥生時代終末期に、この鏡を除く各種の中国鏡や国産鏡が、九州北部を中心に
瀬戸内海沿岸部から畿内までの地域にひろく発見されている。
鏡を伝世せずに副葬している墳墓は、古墳発生の前夜といえる時期で、その時代にもし三角縁神獣鏡が日本に入っていたとすれば、
彼らこそそれを入手していた筈であり、その地域で最高の首長層にあたる。
九州北部では、平原方形墳を筆頭にして、各地の首長墓から鏡が出土する。
この鏡種は、方格規矩鏡や内行花文鏡等の後漢式鏡である。
九州以外の瀬戸内海沿岸部から畿内にかけての同時期の首長墓にも、後漢式鏡が伝世せずに副葬しているものもある。
これらの点から、邪馬台国の時代にあたる弥生時代後期に実際に出土している後漢式鏡が、卑弥呼が下賜された鏡と考えられる。
どちらの説がより理解できるか、それにより邪馬台国の位置もより具体的となる! かな?
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