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歴史考(その28)

2017-02-27 08:46:53 | 歴史

前記したが、神社の由来等、各々差がある様です。

とはいえ、その時期何らかの歴史的事実があれば、それに基づく神社の歴史がより鮮明に分かるかな? と考え、

その歴史ちょっと拾える範囲でいろいろ推論してみました。

①    先ずは推古天皇の御代(飛鳥時代:600年前後)  八幡大神の出現時代の齟齬より、ちょっと怪しい。

                                              とはいえ、倭が白村江の戦いで大敗北した事実(天智2年(663年))はあり、

                                              7紀後半、洞の海 での軍団の行動はあってもおかしくはないのだが。

 

②    光孝天皇の御代(830~887年)                 残念ながらこの時代、この周辺での歴史的な出来事はないが、

                                              この時代の大宰府周辺の動きにこんなものがあります。

                                                  この域の主要道、門司、小倉、遠賀から大宰府へと抜ける道で、

                                                                            その途中に到津、独見、夜久と駅があり、独見付近にこの神社は位置している。

                                                                            また、この辺り地形的には緩傾斜の続く広大な域で、当時それなりの耕作地が広がっていたであろう。

                                                                            この一帯の中心地にこの神社建っている。

                                                                            800年代西日本一帯であった出来事として、公営田制の実施が挙げられる。

                                                                            多分に税収の増大を目論んでいた様である。

                                                                            それに前後して、西海道一帯では飢饉、疫病に見まわれる。弘仁13年(822年)

                                                                           「大宰管内此年登らず、百姓しばしば飢え、或は死に至る者あり」

                                                                           「九国三島疫病の気まさに登り、或は家を挙げて病臥し、看養の人なし、或は門を合せて死に絶え、

                                                                            葬斂の者なし」と、西海道の惨状が「三代格」巻17に書かれている。

                                                                            翌年もその不作は続き、さらに疫病の流行もあった様で、公民制そのものの危機を西海道に招いている。

                                                                            特に課丁の減少による調庸の未納、出挙稲の回収不能、田租の減収など、収取体系の破綻が著しい。

                                                                            この様な出来事からこの地に八幡宮を移設、作物の豊作や疫病の撲滅を祈ったことは考えられないかな?

 

③  宇都宮重業建立(1190~1199年)                 建久3年(1192)、鎌倉幕府の成立がこの地にも影響を与える。

                                                                             源頼朝は全国に武家政治をゆきわたらせようと、平家に味方した・九州域とその周辺の武士の土地

                                                                             を没収し、新たな者をその土地に配する。

                                                                             平安時代この地の支配者であった山鹿秀遠に代えて、建久5年(1194)、

                                                                             下野国の宇都宮重業(しげなり)が花尾城主になり、領地の鬼門の宮田山に、宇都宮八幡大神を勧請した。

                                                                            それとはやや異なるが、・山神社の勧請で、・田山に・光八幡宮を建立したとの記録もあり、

                                                                            この時期勧請、分社が行われた様です。

 

 

④    安土・桃山時代の文禄二年(1593年)            その後約400年間大きな変動はなかったが、1600年前後に新たな動きが出てくる。

         ・光神社勧請                            その動きをなした大名は誰かと云えば、言わずもがなのあのお方、そー豊臣秀吉である。

                                                                            1587年、豊臣秀吉が北部九州の大名配置を博多で6月に決定、

                                                                            その結果花尾城主だった麻生家は筑後に移され、城主の地位を失う。

                                                 1500年代末の戦国時代、大内、大友、毛利による権力支配戦争が起こる。 

                                                                            最終的に豊臣秀吉が天正14年(1586)この地で勝利を収め新たな武将を配置する。

                                                                            この地は小早川隆景の領地となり、その影響か、各地の神社で勧請、分社が発生した様である。

 

⑤    寛永年間(1624~1644年頃)・光神社          1632年、藩主の細川忠利が熊本に移り、小笠原忠真が小倉藩主となり、柳ヶ浦に宿場を設置する。

     (・訪山への移設)                                     この頃に前後して若松、黒崎、木屋瀬にも宿場ができる。

                                                                            632年鎖国令、 1637年島原の乱等、世の中乱世の様相あり。

                                       城主の交代がこの時期あった様で、それに伴う神社の移設等の動きが考えられる。

 

 

以上の様に神社の由来、建立、勧請時期に何らかの政治的な動きがその前後にあった様で、世の中の動きと神社における歴史の関連が示唆されるのかな。

僅かな資料での推定で、まだまだ資料はある様なので、追加資料があれば、再度この説を検討してみましょう。

 

 

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ひょっとしたら・・・

2017-02-24 09:21:00 | 

春は名のみぞ・・

と云いながらも徐々に暖かくなっています。

今年の出来はこんな調子?

 

                          

 

昨年は確か1,2輪しか咲かなかったのがこんなにも・・・

 

                          

 

花の大きさは変わりませんが、数はそこそこです。

去年の梅の実、僅か1粒!

ひょっとしたら今年は と期待が持てます。

これだけの差、やっぱり夏の水やり? 施肥のお蔭か!

一昨年までは、ほとんど天水のみで、散水しなかったが、昨年は結構まめにやりました。

手塩にかけるとは、こんな調子かな?

初夏が楽しみです。

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歴史考(その27)

2017-02-22 13:55:47 | 歴史

山笠の大元の・畑神社の由来を調べてみた。

この神社、建久年間(1190 - 1199年)、筑前の宇都宮氏(麻生氏)の祖である宇都宮重業が、出身地の宇都宮から氏神の八幡神を勧請し、

花尾城の鬼門にあたる・光村宮田山に祀ったのに始まる。

後に・畑村に遷され、・畑・中原両村の産土神とされた。そー、わが故郷の・光の宮田山がそのルーツになる様です。

この宮田山、この地では宮田町、宮田トンネル等、その名が冠されており、多分にこの周辺に神社が構築された様ですが、その痕迹は残念ながらありません。

この・光には神社が今でも1社あり、その名もずばり・光神社、そこの由来では、1194(建久5)年、下野国の麻生上野介重業(しげなり)が花尾城主になり、

領地の鬼門にあたる宮田山に、宇都宮八幡大神を勧請したのが・光八幡宮の由来とあり、・畑神社とほとんど重なります。

江戸時代の寛永年間(1624-44年)、現在の諏訪山に 移って社殿が築かれたとある。

その際、諏訪山にあった諏訪神と須賀神が共に祀られ、今の神社になっています。

 

これとは別に旧・幡市(現・九州市・幡東区)の名の由来となる大元の・山神社が花尾城の麓にあり、この神社が更なるルーツの神社の様です。

推古天皇の御代(飛鳥時代:600年前後)新羅国が任那に侵入した為、大和朝廷は神功皇后の故事に倣い洞の海より入港し軍団を整えていた。

その際、神託あり「我は、八幡大神なり。今、宇佐の宮より此の所に跡をたれんと思う。我を祭れば、新羅国は弓を袋に太刀は鞘にいれ朝廷にしたがうであろう。」

神告の御教により、帰朝後、八幡大神を前田村巽の森茎船(西本町)に鎮祭し、岡県主彦足を神主として奉仕させる。

ただ、宇佐八幡宮が京に上り、力をつけ始め八幡神として登場し出したのは750年以降であり、これらの年代にやや齟齬がある。

そのため、今一この八幡大神は眉唾ものである。

その後、光孝天皇の御代(平安時代(830~887年))大宮司岡県主年麻呂に御神託が有り、現在地に御神体を遷し大宰府官人奉行のもと荘厳なる神殿が建立された。

この神社、その後京都石清水八幡宮管轄の荘園となり、・倉六ケ村(尾倉、前田、大蔵、・光、・旗、中原)の総鎮守として隆盛を極めています。

文禄二年(1593年)・光村、慶安元年(1648年)前田村、寛文七年(1667年)大蔵村へ当社ご分霊を遷し、それぞれの氏神様となっています。

・山八幡神社に残る古文書「波多野家文書」によると、安土・桃山時代末、・山八幡神社が・光村に勧請され、

・光村、・畑村、中原村の氏神になり、その後、・畑村、中原村に分祀されています。

この流れを表示すると、宇都宮重業建立(1190~1199年)・光八幡宮→寛永年間(1624~1644年頃)・光神社(諏訪山への移設)

                                  →時期不明 ・畑神社(移設、分社、勧請?)

または

光孝天皇の御代 (800年代なかば)建立・山神社→ 安土・桃山時代の文禄二年(1593年)・光神社(分社、勧請?)→時期不明 ・畑神社(分社、勧請?)

とした神社の移設、勧請の流れがあり、・畑神社はこの地では、結構新しい神社となる様です。まー新しいといっても数百年前ですが・・・・。

確かにこれらの神社の祭神調べてみると、こんなものです。勧請なり、分社ありそうです。

・山八幡宮

【御祭神】

○帶仲津日子命 たらしなかつひこのみこと (仲哀天皇)

○譽田和気命 ほんだわけのみこと (応神天皇)

○息長帶比賣命 おきながたらしひめのみこと (神功皇后)

○宇遲和紀郎子命 うじわきいらつこのみこと

 

・光八幡宮

八幡神(神功皇后・応神天皇)・比売大神・須佐之男命・建御名方神

 ・畑八幡宮

八幡神(神功皇后・応神天皇)・比売大神・須佐之男命・道祖神

 

そーこの・畑神社の親か兄弟の神社が我が・光神社となり、山笠のルーツはわが・光なのか!!と云うのは言い過ぎ?

と思っていたら、そーでもない様です、それについてはまた今度!! 

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何でだろう?

2017-02-15 07:10:09 | 環境

こんな記事が新聞で踊っています。

 

                                   

 

空家等の対策計画

一戸建ての空家が市内に1.5万戸、市内の住宅戸数8.6万戸、結果、約17%、6軒に1軒が空家状態と計算されます。

全国、県平均より高いらしい。

にも関わらず、この界隈こんな様子です。

前回書いた新築物件のすぐ下の田畑、今ではこんな様子です。

 

                            

 

建設状況から見ると、1戸建てではなくアパートが出来るのかな?って感じです。

確かにこの付近、住宅需要はそこそこです。理由は多分に大学関係。

10年前程になるか、大学の教育制度改革で、1年生からこの地で生活せねばならなくなりました。

それまでは確か1~2年生は別の町での教育だったため、一気に倍の学生を収容する必要が生じ、アパート需要が起こり

あちこちにこんなアパートが建っています。

 

                            

 

しばらく治まっていましたが、最近再び建設ラッシュの予感が。

学生向け?の1ルームマンション、大学近郊で建設中。

 

                            

 

それとは別に家族向けのアパート、こんな感じで出来ています。

それまではこの土地、カラオケルームやコイン洗車場、コインランドリーの商業用地だった。

 

                           

 

                           

 

そのため、新聞記事とは真逆の様子。

確かに1戸建てとマンション、アパートは違うのかも知れませんが、人口減少が始まっている今、大学周辺とはいえそんなに需要があるのだろうか?

ちょっと不思議です。

それが証拠に、まだまだこの団地の売家や売土地、1年近くになるがそのまま残っています。

海岸部の市街地、駅近郊にはあちこち高層マンション建っています。

これらの入居率は分かりませんが、人口減少とマンション増加は、間違いなく反比例しています。

 

                           

 

 

 

そんな意味での新聞、数字の真実、どーなんだろう?

この町の人口、・・万人、住戸戸数を考えると、1世帯・人、実態ともかけ離れる数字です。

何か本当で何かフェイクか、オルターナティブトゥルースです。

新聞にもあった、NHKとBPO、ニュース女子と大手メディアマスコミ、本当の真実とは・・・

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映画の話(何故か歴史考その26)

2017-02-10 09:03:37 | 歴史

真相は如何にと云うところで、調べてみるといろいろ新たな発見、知らないことってまだまだタンとあります。

先ずはこの地の・畑の提灯山笠、子供の頃から見ています。結構勇壮な喧嘩というか、競争する走りの提灯山笠が、初夏の夜を彩ります。

最近は開演時期が違ってきたのかな?

おらっちゃの行ってた頃は丁度梅雨の終りで、天気次第でどーなるんだろう?と結構やきもきした思いがあります。

いろいろ調べると、昭和の終りまではやはり7月13~15日、梅雨の真っ盛り、

平成に入り、7月第四土曜日を挟む3日間、概ね梅雨明けしてますね、この時期ならば。

 

写真は以下ネットからの借用、承諾得ていないので盗用になるのかな?

悪気はないので、許してませませ!!

                  

                                                           

 

この祭り、祭りの最初に安全のため、神輿とともに海岸で「お汐井汲」とよばれる神事を行い、

清めて安全を祈願して始まる様です。

この汐井汲、こっち方面の祭りでは結構神事として実施されており、この由来もちょっと調べてみたいもんです。

今回は山笠由来がメインですので、これを詳しく調べてみます。

江戸時代の1802(享和2年)、この地に疫病がまん延した際に神社に祈祷したところ、疫病が収まったことを喜んだ村人たちが

1803(享和3年)に須賀大神(スサノオノミコト)に対し、感謝の意を表した祝い山笠を作り奉納した行事が始まりと云われている。

かれこれ200年以上続いています。かっては大山笠4基だけだった様だが、1960(昭和35年)以降小山笠4基が追加され、計8基の

山笠行事となっている。

大山笠は12段の提灯による高さ約10mの山笠であり、昼から夜姿を変える祭りは全国的にも例がなく、この山笠の見どころとなっている。

ただ、この変化、この地近郊には意外と多く、南に位置する苅・町の山笠、昼から夜、こんな風に変貌します。

 

                                      

 

・畑山笠、4つの神社が関与していますが、メインの・畑神社の近傍でこの競演行われます。この・畑神社の創建にもいろいろ問題ある様で、

これについても今後書きましょう。

提灯山笠が作られたのは、思っていた程昔でなく明治の中頃の様です。

明治と云えば、この頃からこの地が工業地帯として発展し始めた頃ですので、この近代化とも提灯山笠関係ありそうです。

昼間の山笠、この近辺の各地にあり、今でこそ結構少なくなったが、昭和30年代、まだまだこの工業地帯が元気な頃、

ほんに各町毎に山笠ありました。

山笠の起源は、上記した様に神社での災厄や疫病への祈りとして、その町の住民が行った様で、その形状はいろいろあり、

おらっちゃの記憶は概ね人形等の飾り山笠です。

 

それに対し、北陸のあっちの山車はどうなんだろう?

資料によれば、毎年10月初めに開催される八幡宮の秋季例大祭としての山笠で、

祈りは祈りでもどっちかと云えば収穫へのお礼の意味での祭りみたいです。

起源はこっちの1800年頃よりもっと古く1650年(慶安3年)に最初の山車が、最後は1862年(文久2年)全ての山車が揃った様です。

 

                                     

 

山車と提灯が一緒の時期かは今一不明ですが、どーなんだろう、やっぱ提灯、明治以降かな?

 

こんな様子で、山笠の歴史纏まるのかな と思っていたら、結構面白い資料が見つかりました。

もう少しその資料を読み解いて、またまたここで披露しましょう。

 

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