前記したが、神社の由来等、各々差がある様です。
とはいえ、その時期何らかの歴史的事実があれば、それに基づく神社の歴史がより鮮明に分かるかな? と考え、
その歴史ちょっと拾える範囲でいろいろ推論してみました。
① 先ずは推古天皇の御代(飛鳥時代:600年前後) 八幡大神の出現時代の齟齬より、ちょっと怪しい。
とはいえ、倭が白村江の戦いで大敗北した事実(天智2年(663年))はあり、
7紀後半、洞の海 での軍団の行動はあってもおかしくはないのだが。
② 光孝天皇の御代(830~887年) 残念ながらこの時代、この周辺での歴史的な出来事はないが、
この時代の大宰府周辺の動きにこんなものがあります。
この域の主要道、門司、小倉、遠賀から大宰府へと抜ける道で、
その途中に到津、独見、夜久と駅があり、独見付近にこの神社は位置している。
また、この辺り地形的には緩傾斜の続く広大な域で、当時それなりの耕作地が広がっていたであろう。
この一帯の中心地にこの神社建っている。
800年代西日本一帯であった出来事として、公営田制の実施が挙げられる。
多分に税収の増大を目論んでいた様である。
それに前後して、西海道一帯では飢饉、疫病に見まわれる。弘仁13年(822年)
「大宰管内此年登らず、百姓しばしば飢え、或は死に至る者あり」
「九国三島疫病の気まさに登り、或は家を挙げて病臥し、看養の人なし、或は門を合せて死に絶え、
葬斂の者なし」と、西海道の惨状が「三代格」巻17に書かれている。
翌年もその不作は続き、さらに疫病の流行もあった様で、公民制そのものの危機を西海道に招いている。
特に課丁の減少による調庸の未納、出挙稲の回収不能、田租の減収など、収取体系の破綻が著しい。
この様な出来事からこの地に八幡宮を移設、作物の豊作や疫病の撲滅を祈ったことは考えられないかな?
③ 宇都宮重業建立(1190~1199年) 建久3年(1192)、鎌倉幕府の成立がこの地にも影響を与える。
源頼朝は全国に武家政治をゆきわたらせようと、平家に味方した・九州域とその周辺の武士の土地
を没収し、新たな者をその土地に配する。
平安時代この地の支配者であった山鹿秀遠に代えて、建久5年(1194)、
下野国の宇都宮重業(しげなり)が花尾城主になり、領地の鬼門の宮田山に、宇都宮八幡大神を勧請した。
それとはやや異なるが、・山神社の勧請で、・田山に・光八幡宮を建立したとの記録もあり、
この時期勧請、分社が行われた様です。
④ 安土・桃山時代の文禄二年(1593年) その後約400年間大きな変動はなかったが、1600年前後に新たな動きが出てくる。
・光神社勧請 その動きをなした大名は誰かと云えば、言わずもがなのあのお方、そー豊臣秀吉である。
1587年、豊臣秀吉が北部九州の大名配置を博多で6月に決定、
その結果花尾城主だった麻生家は筑後に移され、城主の地位を失う。
1500年代末の戦国時代、大内、大友、毛利による権力支配戦争が起こる。
最終的に豊臣秀吉が天正14年(1586)この地で勝利を収め新たな武将を配置する。
この地は小早川隆景の領地となり、その影響か、各地の神社で勧請、分社が発生した様である。
⑤ 寛永年間(1624~1644年頃)・光神社 1632年、藩主の細川忠利が熊本に移り、小笠原忠真が小倉藩主となり、柳ヶ浦に宿場を設置する。
(・訪山への移設) この頃に前後して若松、黒崎、木屋瀬にも宿場ができる。
632年鎖国令、 1637年島原の乱等、世の中乱世の様相あり。
城主の交代がこの時期あった様で、それに伴う神社の移設等の動きが考えられる。
以上の様に神社の由来、建立、勧請時期に何らかの政治的な動きがその前後にあった様で、世の中の動きと神社における歴史の関連が示唆されるのかな。
僅かな資料での推定で、まだまだ資料はある様なので、追加資料があれば、再度この説を検討してみましょう。