第三章 亀井南冥の活躍
さーいよいよ本格的に登場、亀井南冥。
どんな立場の人間かは、前章で一部名前が出ています。
他文献ではどーだったか、あの研究史でチェックしてみましょう。
研究史での亀井南冥、その評価として金印出土に関する説や金印の刻法、紐形、文字に関する説等、金印を真物として扱い、
その見識に関し称賛しているものの、金印の1鑑定者以外の説明はありません。いわゆる「one of them 」で、特別な存在ではないみたい。
ここでの扱い、こんな調子です。
この本での第三章、どんな様子で記述されているか?
先ずは亀井南冥の人物像を述べています。
彼は町医者の子として生まれ、研鑚を積んで町医者から福岡藩の儒医兼帯として藩主侍講を命じられるまで出世する。
その時期に、藩内に2校の学問所がほぼ同時に開校、
西の甘棠館、その館長は亀井南冥、東の修猷館、その館長は武田定良。
武田定良は、福岡藩に代々仕える儒学者、一方の亀井南冥、所謂町人上がり、対抗意識持たない筈がない。
そのため、開所日も同じ2月とはいえ、修猷館より僅かでも早い日に開校した様です。
丁度その頃、金印が発見されます。当然、それの解説のため資料を作成、藩主へのアピールにしたか、嫌でも目に浮かびます。
実際、真っ先に前章で書いた2通の鑑定書、その鑑定書の裏付け資料として「金印弁」なる論文を作成しています。
この論文、400字詰め原稿用紙で15枚程の分量、如何に注力したか分かります。
この「金印弁」での最後の文章はこんな一文です。
「且は我筑州興学の初年に限り顕れぬれば、文明の祥端とも云うべきにや」と。
これを南冥、一番云いたかったのでは!! と。
そー余りに出来過ぎ、やり過ぎ感が?
それに反発する形での修猷館側の「金印議」、これらの論文の温度差、やっぱり何か?が感じられます。
さらに金印保存への南冥の動き、福岡藩内での動きに留まらず、
藩の外、京都、大阪、江戸の学者へもすばやい情報活動を展開しています。
これらの一連の動き、既に計画していた観も と考えられる程の流れです。
多分にこの企画、亀井南冥がプロデュースって感じ?
第四章 金印の解読 鈕と印文
ここでは、金印の紐形への疑問が述べられています。
紐形に関し、鑑定者が蛇紐と螭紐に分かれている様で、その理由を各種述べている。
各鑑定者の決定根拠に、いろいろ問題が挙げられ、その理由を推察している。
また、この時代、多くの学者が金印論を述べ、如何にこの発見が当時の文化人に興味を抱かせた出来事であったかを、示している。
また、戦前、戦後の2度にわたって国宝指定がされていますが、戦後の指定時に彫り方の問題か、国宝指定に時間を要した経緯が述べられている。
所謂「薬研彫り」と「箱彫り」の問題が、国宝指定に際し真贋議論としてなされた感があるが、詳細は不明です。
とはいえ、昭和29年晴れて新国宝に再指定されている。
実際は、すんなり、これは誰もが認める紛い無き「金印」、国宝である、と云うモノでもないのかな?
実物まだ観賞していないので、博多を訪れた折り何時か見てみたいものです。