帆船模型で遊ぼう!!

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はてさてどこか?(その11)

2020-07-30 07:01:52 | 歴史

壱岐の次はどこか?

海を渡ってここ、末盧国に。

「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。

魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

そー、末盧国、今の東松浦半島の唐津市周辺、壱岐に近い沿岸となると名護屋、呼子辺りか?

と、思っていろいろ文献あたってみると、ちょい違う様です。

と云うのも地形的に呼子周辺、海岸部は崖地形が主体となり上陸困難で、四千余戸もの家屋を持つ国となるとかなり厳しい。

結果、唐津湾に位置する唐津平野一帯が、末盧国としてより可能性高い。

実際この一帯、縄文時代から日本農業発祥の地と云われる菜畑遺跡があり、縄文末期から水田稲作を営んでいた事が知られています。

 

                            

 

その後の縄文・弥生人の営みは葉山尻支石墓群、桜馬場跡遺跡、柏崎遺跡群、宇木遺跡群等と変遷し、邪馬台国時代の古墳の久里双水古墳へと繋がる様です。

 

                                   

 

集落としての宇木遺跡、古墳として久里双水古墳等の国を形作る各種遺跡が、この一帯に分布しています。

 

                                         

 

そんな関係でこの一帯が末盧国、まー間違いないんでしょう。

 

 

久里双水古墳(くりそうずいこふん) 位置:佐賀県唐津市双水

3世紀末から4世紀ごろに作られたとされる全長108.5メートル、後円部径62.2メートル、前方部幅42.8メートルの日本最古級の大型前方後円墳(竪穴式石室)。

中国の史書「魏志倭人伝」にかかれている国々の一つ「末盧国」の位置に近く、その王の墓という説がある。邪馬台国や前方後円墳の起源を探る上でも重要な遺跡である。

盤龍鏡(ばんりゅうきょう)管玉(くがたま)刀子(とうす:小刀のこと)が発見されている。

現在は久里双水古墳公園として整備され、実際にのぼれる。古墳箱式石棺も展示されている。

盤龍鏡、中国・西晋時代 4世紀の鏡で、ちょい卑弥呼の時代より新しく、卑弥呼の鏡ではないみたい。

 

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ちょい心配?

2020-07-27 09:07:46 | 病気

3ヶ月ぶりの検査と診察、梅雨でちょっと天気が今一、せこい考え止めて真面目に有料駐車場へ。

駐車場から覗くと病院入口、ちょこっと変化、いろいろテントが建っています。

 

                                                                

 

何かと思って近くに行ったが、裏からは当然?です。

 

                               

 

表に回ると、

 

                               

 

モヌケの空!!

とはいえ、分かりますね、これが何かは!!

 

                               

 

そーです、コロナ対策用にテントを設置、その際の対応は??ですが。

これとは別に、病院入口では非接触型の体温測定器が設置されています。

 

                               

 

職員がその前で確認、体温平熱でなければ、入館できません、きっと?

でも目的は治療のための来院です。

引っ掛かった場合はどーなるかな、治療も受けれず、退院?

「そんなー !!!」って声は・・・、聴こえませんね。

 

ってところで、無事入館、いつもの流れで検査・診察へ。

 

先ずはここ、あれっ ちょっと少ない感じ。

 

                                

 

番号は、これ。

 

                               

 

いつもに比べ、ちょい若い。やっぱ来院者少ないのかな? 

ほとんど待たずに検査終了、続いて診察へ。

ここは、いつもとあんまり変化ない感じ。

 

                               

 

待つ事・・分、そろそろかと、ほぼ予定通りに呼ばれ診察室へ。

「どーですか?」

「特に変化は?」

「ちょっと値が高いですが、まーまだまだ余裕が、・・に近づいて考えましょう!!」

「次回は・月・日、どーです?」

「分かりました。」と云ったところで、退室です。

 

次の診察科へ。

 

                             

 

そこそこ患者いますが、さほど待たずに呼ばれます。

担当医「初めまして・・・、よろしく!!」

そー前回、当初の担当医から変わったが、今回また変わります。

「どーですか?出血等があったと、カルテには・・・」

「今は特に・・・、変化もあまり・・・」

「数値的には、まだまだ余裕ありますね。」

どーも上昇傾向や、数値からは、この程度はさほど問題ないのか?

最初の診察同様、無事診察終了。

診療費払いに。

うーん、やっぱちょい少ない感じ。

やはり来院患者、コロナで減っているのか?

町医院と違うこの地の基幹病院でも、そーなのかな?

 

                                 

 

支払番号・・番、ほぼ前回同様の番号と、番号的にはあんまり差は・・・

 

                      

 

時間的にも何時もと差はないが、何故か患者は?、待ち時間もほとんどなく支払番号呼ばれ、即終了です。      

                 

今回の検査結果、帰ってグラフにプロット、過去データと比較、しっかり1直線で数値上昇、このまま上がれば閾値まで残り・・ヶ月。

うーん?どーなるかな、確かに診察時、担当医「今 薬は?」と云っていた。 

「今は飲んでいませんが・・・」

そうなった場合は、次の治療は薬しかない様ですが、初期治療が残念ながら・・・ってこと?

悪く考えると、そーなるが、まだまだ数値に余裕が。そこまでで止まれば治療が効いたことになるんだが、どーなるかな?

ネット情報見ると、今回結果、他人に比べるとやっぱちょい高い数値みたいです。

とはいえ、それ以上の数値の方も、ブログやネットでいろいろ活躍!!

そんなところじゃ、まだまだ数値一つで落ち込む必要はなさそうだが・・・

 

次回の検査、どーなるか、・月後また血圧上がり、寿命が・ヶ月縮むのか?

 

     

 

 

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はてさてどこか?(その10)

2020-07-24 07:05:58 | 歴史

次はこの町、対馬の次は壱岐です。

こんな文章で始まります。

「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。

竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。」

対馬同様、さほど裕福って感じの島、町じゃない様です。

 

資料をいろいろ当たっていると、有名な遺跡は原の辻(はるのつじ)遺跡です。九州では原(はら)ではなく原(はる)と呼ぶことが多いみたい。

海峡渡った本州ではほとんど原(はら)ですね、何か言語的な意味合いがあるのかな?、そのうちチェックしてみよう!!

まーそれは置いといて、この原の辻遺跡、卑弥呼の時代、上記、一大国の首都だった様です。

紀元前3世紀から古墳時代~中世に栄えた集落で、集落周辺に濠を配置した環濠集落、あの吉野ヶ里と構造的には同じ形状になるのかな?

広さは80haとかなりの規模の集落です。

そして有名なモノが、そー弥生時代唯一の港湾施設、船着場が見つかっています。

魏や倭の船がここに停泊(実際は沖に、そこから小舟でここにでしょうが)し、しばしの休養後次の目的地、対馬や呼子に向かったと考えられます。

発掘された船着場はこんなモノだったらしい。

 

                                     

 

唐津と壱岐を結んだ場合は、原の辻辺りが航路としては最短だが、壱岐~対馬の場合の最短は壱岐西海岸?

と思い、いろいろ調べてみると、やっぱ壱岐西海岸に規模は小さいものの同様な環濠集落がある様です。

名は「カラカミ遺跡」、原の辻に比べると、規模(5ha)や存続期間は短いものの、そこそこ同時代に発展した集落で、主たる産業は漁労、狩猟だった様で、農業はあまりだった環境が伺えます。

 

                                                                               

 

地形的にみても、原の辻が平野部広く、発展しそうな形状ですが、位置的に対馬、朝鮮に近く、海上交通考えると、この域にもそれなりのメリットありそうです。

ただ、交通の要としては、呼子からは東海岸の原の辻に分がありそうです。

と、思っていたら、少し違う様です、この集落の意味、位置付け。

この集落、必ずしも海岸部には接していません、かなりの高台、標高30~90mで、海岸からは1.5kmの位置。

確かにちょい高い域でやや奥地、ちょっと変だなーとは感じたが、こっちの知識じゃその程度。

高台集落、専門用語じゃ、高地性集落、標高の高い域で、必ずしも農耕とだけ関わっていたと云う訳ではなさそう。

高い位置からは、そー遠くが見れる、いわゆる監視台としての施設、要塞の可能性も。

誰から? 相手は隣の国、やっぱ今も昔もなかなか友好関係結べなかった様です。

確かに原の辻は内湾、外界の様子伺い難い位置、それに対してこの地、遠洋の状況把握は可能な位置?

ホートーどーかな?状況掴むならもっと良さそうな場所も、と思う素人考え。

いろんな条件でこの地が、って事になったのかな?

こんな意見が

「島の北西岸で異変があった場合、カラカミでまずノロシを上げ、岳の辻で中継し、王都の原の辻に危急を知らせた。」

これなら、確かにこの域でなければの可能性強まります。こんな位置関係になる様です。

 

                                                                                     

 

実際、この地ではないものの、壱岐北辺の天ケ原から銅矛が発見されており、海上交通の安全祈願等を考えると、西海岸での拠点もあっても良さそうですが、この遺跡の位置付けどんなもんかな?

銅矛、対馬で多く発掘されていると書きましたが、やはり武器としてではなく、海人族が、航海の安全や悪いものが壱岐の島に入って来ないようにと、

魔よけとして祈るための、いわば、祭祀用として使われていた様です。

天ケ原は、朝鮮半島にも、一番近い距離の場所にあるので、朝鮮に向けて壱岐を出発する船の航海の安全を、この場所で祈った事考えられます。

また、無事に朝鮮、対馬からこの地に帰った、到着した事への祈念の場になるんでしょう。

 

 

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ありゃまー

2020-07-21 07:19:41 | その他

うちのが宣う「すごく漏ってる、何とかせねばー!!」

「どこが??」と、

そーです、以前から漏ってはいたが、そこそこ誤魔化してきた箇所、こんなところ。

どーも今回の雨でひどくなったのか、降雨量が問題なのか、それらの複合作用?

取りあえずは修理と云うか、漏れへの対応。

先ずは現況、

 

                       

 

新聞紙半分程が濡れて、漏れが確認できます。

過去もずっとこの状態で置いていたが、ほとんど濡れの確認出来なかった。

そのため、ある降雨量を超えた際に漏れが発生?

ただ、今回この新聞紙交換すると、いろいろ古いシミが見られます。

どーも降雨量に応じての漏水で、少ない場合目に付かなかっただけの様です。

天井裏を覗くと、確かに漏水確認できます。

 

                       

 

どーもコンクリートの継ぎ目からの漏水で、外壁の降雨がどこからか内部の梁の継ぎ目に滲みてこの域に到達か?

実際、この梁の上部は2楷の別部屋で、トイレ、水道等もなく当然雨が注ぐ場所じゃありません。

周辺見ると、周りの壁も幾分滲みが。

 

                             

 

外壁の降雨がここに滲み出して来ているのか、ちょっと不思議な漏り・湿り具合?

実際、この周辺の壁見ると、

 

               

 

コンクリートに滲みの痕迹全然ありません。どーもこの1ヶ所のみが漏水経路の終着点。

そのため、水量が増えると、壁から滴になって漏れ出す様です。

取りあえず天井からの滴防止に、新聞紙+ビニールで漏水を防ぎます。

この応急措置が何時まで持つかで、今後の対応検討か?

 

                       

 

 

 

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はてさてどこか?(その9)

2020-07-18 07:42:05 | 歴史

邪馬台国、はっきり云ってどこなのか、当然分かりません。

結果、自分の思う場所にも誘導できます、そんなところで日本各地に。

こっちはこっちで、ただただ北九州説堅持です。

そのため、今一度行程からの各地の状況見てみましょう!!

先ずは対馬からか!

「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。

土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

まー間違いなく現在の対馬に当たる場所の記述と考えて間違いないでしょう。

ただ、これを読む限りは、対馬では平野余りなく、結果農産物の収穫少なく、海産物が主体の経済・生活様式の様です。

そのため、住民も少なく貧しい生活だった感があるが、果たしてどーか?

対馬市のHPに登録されている縄文~弥生~古墳時代の遺跡数、市内で約300箇所以上に分布、また各種金属器も同様に多く出土している。

この数、思った以上に多い様で、その理由もいろいろ推察されています。

多分に海人族としての生活様式、その交流次第では考えている以上に豊かな生活の可能性高いのでは?

埋葬遺跡は、自然石を利用した平板な石の箱式石棺が多く、北部九州などでみられる甕棺は殆どない。

この墓式からは、そんなに裕福、豪華って感じはかな?

遺跡の多くは「浦」と呼ばれる良好な入り江に面し、その奥に農耕地が拡がっている場所にまとまって見られる。これは その後も同じ傾向をたどり、

中世でも近世でも人は同じような場所に生活の居を構えている。

ただ集落としては、考古学的な大規模集落見つかっていない様で、その当時の生活様式復元なかなかかな?

 

この地での大規模集落?、2000年10月の新聞記事にありました。

 

                   

 

「対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認 した。集落は弥生前期~後期(紀元前3~紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。

同町内は弥生後期の墳墓などが多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。

100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や

袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。

対馬では弥生時代の墳墓などはこれまでに見つかっているが、集落跡の発見は初めて。」

三根湾に注ぐ三根川流域と吉田川流域は、地形急峻な対馬島にあっては広い平野が確保できる地域で、比較的規模の大きな集落が営まれた可能性が高い。

確かにこの一帯、周辺にも各種の遺跡が散在しています。

この遺跡、対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認されておらず、土石流に埋まった部分も多い様です。

調べた限りでは、2000年以降の発掘調査は未だまだ?の様で、「対馬国」には、なかなか辿りつけません。

 

「対馬の銅矛」

多くの中広形(ちゅうひろがた)や広形(ひろがた)の銅矛が対馬各地で出土。その数は120本以上。他の国と比較しても突出しています。

ちなみに一支国では3本だけの出土と、雲泥の差です。

対馬では墓や住まいのエリア以外のところに(海に向いた場所等)に意識的に埋められており、これは航海安全を祈ったものとされています。

弥生時代前期に北部九州に出現した銅矛・銅剣・銅戈などの青銅製武器類は、最初は朝鮮半島から伝来した細形の実用品です。まもなく細形のものは日本でも造られるようになり、国産化が進みます。

やがて実用武器としては使えない偏平かつ大型のものになっていきます。

海に向いた場所に埋める行為は北部九州で見られることから、その影響を示すものともされています。[中広形や広形の銅矛は奴国に鋳型あり]

墓から副葬品として出土することは稀で、銅鐸と同じように地中に一括して埋納された状態で発見され、青銅製の祭器として使われたものと考えられる。(国立博物館案内文より)

 

                 

 

以上の結果から、この銅矛を埋納した人々、対馬の海人族か邪馬台国や魏等から派遣された人間かは不明ですが、航海の無事を祈る、無事への感謝等の祭祀に係ることは間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

 
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