邪馬台国、はっきり云ってどこなのか、当然分かりません。
結果、自分の思う場所にも誘導できます、そんなところで日本各地に。
こっちはこっちで、ただただ北九州説堅持です。
そのため、今一度行程からの各地の状況見てみましょう!!
先ずは対馬からか!
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。
土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」
まー間違いなく現在の対馬に当たる場所の記述と考えて間違いないでしょう。
ただ、これを読む限りは、対馬では平野余りなく、結果農産物の収穫少なく、海産物が主体の経済・生活様式の様です。
そのため、住民も少なく貧しい生活だった感があるが、果たしてどーか?
対馬市のHPに登録されている縄文~弥生~古墳時代の遺跡数、市内で約300箇所以上に分布、また各種金属器も同様に多く出土している。
この数、思った以上に多い様で、その理由もいろいろ推察されています。
多分に海人族としての生活様式、その交流次第では考えている以上に豊かな生活の可能性高いのでは?
埋葬遺跡は、自然石を利用した平板な石の箱式石棺が多く、北部九州などでみられる甕棺は殆どない。
この墓式からは、そんなに裕福、豪華って感じはかな?
遺跡の多くは「浦」と呼ばれる良好な入り江に面し、その奥に農耕地が拡がっている場所にまとまって見られる。これは その後も同じ傾向をたどり、
中世でも近世でも人は同じような場所に生活の居を構えている。
ただ集落としては、考古学的な大規模集落見つかっていない様で、その当時の生活様式復元なかなかかな?
この地での大規模集落?、2000年10月の新聞記事にありました。
「対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認 した。集落は弥生前期~後期(紀元前3~紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。
同町内は弥生後期の墳墓などが多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。
100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や
袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。
対馬では弥生時代の墳墓などはこれまでに見つかっているが、集落跡の発見は初めて。」
三根湾に注ぐ三根川流域と吉田川流域は、地形急峻な対馬島にあっては広い平野が確保できる地域で、比較的規模の大きな集落が営まれた可能性が高い。
確かにこの一帯、周辺にも各種の遺跡が散在しています。
この遺跡、対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認されておらず、土石流に埋まった部分も多い様です。
調べた限りでは、2000年以降の発掘調査は未だまだ?の様で、「対馬国」には、なかなか辿りつけません。
「対馬の銅矛」
多くの中広形(ちゅうひろがた)や広形(ひろがた)の銅矛が対馬各地で出土。その数は120本以上。他の国と比較しても突出しています。
ちなみに一支国では3本だけの出土と、雲泥の差です。
対馬では墓や住まいのエリア以外のところに(海に向いた場所等)に意識的に埋められており、これは航海安全を祈ったものとされています。
弥生時代前期に北部九州に出現した銅矛・銅剣・銅戈などの青銅製武器類は、最初は朝鮮半島から伝来した細形の実用品です。まもなく細形のものは日本でも造られるようになり、国産化が進みます。
やがて実用武器としては使えない偏平かつ大型のものになっていきます。
海に向いた場所に埋める行為は北部九州で見られることから、その影響を示すものともされています。[中広形や広形の銅矛は奴国に鋳型あり]
墓から副葬品として出土することは稀で、銅鐸と同じように地中に一括して埋納された状態で発見され、青銅製の祭器として使われたものと考えられる。(国立博物館案内文より)
以上の結果から、この銅矛を埋納した人々、対馬の海人族か邪馬台国や魏等から派遣された人間かは不明ですが、航海の無事を祈る、無事への感謝等の祭祀に係ることは間違いないでしょう。