不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

はてさてどこか?(その31)

2020-11-29 11:11:33 | 歴史

箸墓古墳を調べていると、この地にゃさらに古い古墳の存在も。

こんな古墳、「纒向石塚古墳」ってのがあるらしい。

箸墓古墳が卑弥呼の墓?としても、それより前の墓、古墳になる訳です。

邪馬台国初期の墓?、古墳と弥生時代の整合性?何が何やら分からなくなります。

一応、こんな墓、古墳の様です。

この古墳は、箸墓古墳などの前方後円墳が定型化される以前のものとされ、極端に前方部が低く、

全長:後円部径:前方部長の比率が3:2:1の比率をもつ事が特徴とされている。

最古の土師器を出土する纒向型前方後円墳の典型と考えられるようになった全長96mの前方後円墳であり、

3世紀初頭の築造とする考えと、3世紀後半の築造とする考えがある。

これらの点からも、この地を邪馬台国とするには、いろいろ問題ありそうです。

「纒向石塚古墳」

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市太田字石塚
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約96m(後円部径約64m、周濠幅約20m)
築造年代:3世紀初頭
被葬者:不明

出土品としてはこんなモノが。

周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土。

その他、弧紋円盤(吉備系の祭祀用遺物)、朱塗の鶏形木製品、木製鋤・鍬、横槌、水槽、建築部材などの木製品、

土師器(纒向I式期)が出土。

箸墓古墳でも出土している吉備系の土器が、この古墳からも。

 

纏向遺跡からは、吉備・九州系やあちこちの地方の土器が出土しており、邪馬台国というより各地の連合、国連の様な組織、

これがヤマト王権に繋がるとも云える様です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はてさてどこか?(その30)

2020-11-26 07:23:36 | 歴史

いよいよクライマックス!!自分なりの集大成です。

こんな問題「卑弥呼の墓」

どこに?どんな形で? 眠っているのか?

今一度、魏志倭人伝の文章を。

「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は百余人。」

卑弥呼が亡くなって と云っても死因は、いろいろ説ある様です。

冢(墓)を径百余歩で造り、徇葬者は百余人と。

これだけです。形状も?、径にしても1歩が何cm、大きさも?ってところ。

まー好きな様に考えられる って感じかな?

結果、邪馬台国の位置同様、西と東じゃこれまた、墓に関して大きく異なります。

取りあえず、卑弥呼の死亡時期、「正始八年」(247)、弥生時代末期ってところ。

この時代(弥生時代)の墓の一般形状はどんなモノ?

・甕棺墓、支石墓、石棺墓、木棺墓


・墳丘墓 方形周溝墓(方形低墳丘墓)

いろいろあり、地域や時代に関してかなり限定される墓もある様です。

 

東の畿内説に関しては、どんな墓が卑弥呼の墓の候補?

奈良県桜井市に位置する「箸墓古墳」が可能性の高い墓として挙げられている。

何故この墓が?

この墓、すでに江戸時代から卑弥呼の墓では? と云われています。

先ずその大きさ、墓が倭人伝の文章にほぼ一致する大きさ。

と云っても百歩そのものも、大きさ決まっていませんので、いろいろ合う様に考えるってことでも。

まー畿内では、この墓が最も古い時代の墓に当り、この墓の埋葬者にも卑弥呼と繋がる伝説がある。

日本書記の記述では、七代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫、この姫の墓が箸墓と。

また、この姫こそが卑弥呼ではないかと推測されている。

姫の字にある百、これが卑弥呼の百人殉死に関与している。ちょい眉唾モノの理由ですが。

この箸墓、前方後円墳なので、チョイ時代も?ってことも疑問ですが、確たる証拠もないってところで・・・

箸墓そのものは宮内庁管理の古墳なため、発掘調査はされていません。

ただ、箸墓から過去大量に出土した「布留0式」と呼ばれる日常土器、この土器の出現が、箸墓の土木工事が行われた時期に重なる。

この土器、280~300年に作られたとみられ、誤差は前後1世紀、結果180~400年。

卑弥呼の死亡時期(250年頃)に重なるものの、チョイずれているとも云える。

近年の調査、2018年に、奈良県立橿原考古学研究所が古墳前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、

後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した。その結果、前方部の土器は地元の土であるのに対し、

後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。

このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を持っており、

箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される

ただ、これらの年代も、近年いろいろな方法で調査されており、違ってきている様で正確な年代ハッキリ云ってよく分かりません。

この年代が違えば、歴史的な各種の推測、想定も違ってきます。

どーなんでしょう、弥生、古墳時代の差等、邪馬台国は何処?

あれこれ考えると、うーん?な思い、強いですね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年は早い!!

2020-11-23 10:25:52 | 賀状

まだまだ残り1.5ヶ月。

注文していた年賀ハガキ入手しました。

やっぱこれが来ると、それなりに準備しようと云う気になります。

と云っても、過去年末ギリギリの仕上がり、何でかな~~?

今年はコロナ、武漢ウィルスのお陰?で、そこそこ自宅に。

人によっては、あちこち行ってる方もいますが、人それぞれ、

さほど自宅に居ること、苦になりません。

何やかな、小道具持ち出し、せっせこ作業します。

そんなところに、新たな作業、そーいつもの制作!!

とはいえ、美的才能ないため、あちこちの画集あたります。

ちょい気に入ったモノ見つけ、今年はこれでと盗用します。

先ずはハガキ大に拡大コピー。

次にトレーシング、相も変わらずアナログ作業全開です。

そこで出来た原画、こんなもの!!

昨年の版木を利用、その残りでのエコ版画です。

 

                   

 

はてさて、どんな色で仕上げるか、次の作業の段取り考えながら、彫刻刀での版木切削です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はてさてどこか?(その29)

2020-11-20 07:05:14 | 歴史

オラッチャの3つ目の問題、「倭から魏への朝貢」こんな思いが。

朝貢:2回に渡る貢物、こんなものです。

「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」

「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢」

気になるモノは、倭錦、絳青縑、帛布、丹です。

概ね絹製品、倭とすれば精一杯の貢物でしょう。

さらに丹、単純に考えると、多分に水銀かな?

先ずは「絹製品」

いろんな絹製品を渡したってことは、それなりに技術があった証拠でしょう。

とすれば、日本の遺跡にもその痕跡、当然ある筈。

そー発掘された遺物から見つかっている絹製品、全て九州地方です。

県で云えば、福岡、佐賀、長崎県、しかも、倭人伝を遡ること300年前に養蚕と絹織物があった。

畿内での絹製品の出現は4世紀以降になる。

とすれば、どっちがより邪馬台国の位置になるか、決まりそうです。

もう一つの疑問、「丹」です。丹の字、こんな文章で出てきます。

「以朱丹塗其身體」、「其山有丹」、「真珠鈆丹各五十斤」、「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢」

同じ意味の「丹」なのか、チョイ疑問が。 

ある方がネットで、その丹に関してこんな解釈を。

「以朱丹塗其身體」

朱丹を身体に塗る。中国の粉化粧のようなものである。

(朱丹とは何かと考えると、朱は人工の赤色顔料で、丹は自然の赤色顔料になり、阿蘇の湖水から採れるベンガラは丹になります。 

「其山有丹」

この山には 丹(ベンガラ)がある。 「この」は倭のことと考えるのは間違いではありませんが、相応しくありません。

阿蘇山は「山海経」の「山環之:山はリング状に囲う」から推測されます。 「この」とは陳寿は意識してないことと思われますが、

漢の時代から有名だった阿蘇山を含んでいるようです。

「真珠鈆丹各五十斤」

(倭の女王に与えた)真珠と鉛丹は共に五十斤である。 五十斤を周代の斤(256g)で計算すると12.8kgになりますが、

50単位のアバウトな数値感覚であり、8kg程度が想定されます。

鉛丹は鉛から加工した丹のことですが、この意味として、何時の時代から使われていた中国語かは不明です。

「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢」

「丹木」の「丹」は丹薬の意味で、真っ赤に紅葉する日本の固有植物であるメグスリノキではないかと思います。

私は20年前に目を悪くしたので、目薬木を1年間飲んだ経験があり、黒田勘兵衛や熊本の細川藩との関係は知っています。

目薬木は700m前後の高度が良い生息条件みたいで、阿蘇山付近が丹木の採集地ではないでしょうか? 

この方は、「丹」は概ねベンガラ系と考えている様です。

ベンガラ系であれば、さほど珍重されないとも思えるので、わざわざ朝貢するかは、チョイ疑問です。

特に最後の丹は、かなり解釈異なります。

別の方の回答には、

辰砂→丹

鉛丹→朱 

朱と丹は違う可能性も。

 

朝貢の品物と考えた場合、やはり珍重すべき物、また魏の皇帝も欲する物と考えると、やはり丹は水銀の可能性が高いのでは。

ベンガラや水銀の赤に関してこんな説明が。

人類にとっての赤は、血液の彩であり、生命力の具現化である。地殻には多くの鉄が含まれているため、

三価の鉄イオン (Fe3+) による黄色〜赤色系顔料は有史以来事欠かなかった。

ただ、酸化鉄の赤はやや茶色くくすみ、躍動感と生命感あふれる彩度の高い赤とは言い難い。

そんな中で、ときおり野山に見つかる水銀硫化物の辰砂(cinnabar, HgS)の鮮やかな赤は、古くより珍重されてきた。

辰砂は水銀の代表的な鉱石鉱物であり、その真っ赤な色は非常に目につきやすい。日本における辰砂採掘と水銀の利用は弥生時代から平安時代にかけて発達し、

西日本では多くの鉱山が開発された。

顔料としての硫化水銀は朱または丹と呼ばれ、貴重な赤色顔料だった。高松塚古墳の彩画の赤は、水銀朱によるものである。

日本には古くから水銀鉱山が多く、歴史のある鉱山は和歌山、奈良および四国などの中央構造線沿いに多い。

辰砂を探し、それを選鉱し水銀朱を採取する技能は、ある人々に代々受け継がれ、

そのような人々、もしくは彼らの住む水銀を産する地は丹生(にう、にゆう)と呼ばれた。

彼らは、中国もしくは朝鮮半島からの渡来人であったとも言われ、今でもその名残が地名に多く残っている。

空海は弘法大師として日本の仏教史を語るうえで欠かせない人物だが、鉱産物を調査する応用地質技術に長け、辰砂や銅鉱などを四国各地から見いだした。

遣唐使の経験によるものだろうか。空海による開山伝説の残っている水銀鉱山は、伊勢の水銀鉱山などをはじめとし、枚挙にいとまがない。

 

これらの資料からみると、丹は九州と云うより畿内、紀伊半島一帯の中央構造線沿いの鉱山からの採掘が一般的の様です。

九州での水銀鉱床は、どうなのか?

以前の資料では、大分県の中央構造線沿いに、その可能性ありと指摘している。

他資料から、長崎、佐賀県周辺にも水銀鉱床の可能性の指摘が。

もし、あれば九州説にとっては、かなり有望なんだが・・・

 

取りあえずこんな資料が。

 

                     

 

九州一帯にも水銀鉱床あるにはあります、卑弥呼の時代、これを見つけていたかは不明ですが・・・

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろんな問題(その4)

2020-11-17 09:21:10 | その他

呼ばれて行った郵便局。

その日は土曜日、担当者休みで、別の人に依頼していたが、その方も行った時間にゃ出局していません。

さらに別の方が、その方の机の上からある資料を持って来てくれました。

何とか補償は下りる様で、こんな書式の資料に記入をお願いされました。

 

                                                      

 

「損害賠償請求に関す・・・・」と、ちょい硬い?表現の資料です。

請求内容の文面には、き損事故に伴う・・と書かれています。

き損 ってと、国語力の弱いオラッチャ、帰って辞書引きます。

辞書には「その物としての組織がこわされたりその存在に傷がついたりすること」

例として、「名誉毀損」 この単語で、何とかやっと分かりました。

 

これから・・日、オークション会社から振込みが・・・

落札者からは、特に・・・

こっちも無理して連絡は・・・

多分に何にもないのは、良い知らせと解釈して、この事故の纏めにします。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする