文学博士である桑田忠親が「日本史の謎と怪異」で、各種の説を参考に自説を展開している。
『・・・道鏡には謎の問題が多く、かつその人物的評価も人により、時代によって大きく異なっている。』
大きく4説に区分し、その根拠を述べている。
⑴ 悪逆無道の人物だとする説
道鏡の在世当時からの定評とも・・・いわゆる神託事件と称する騒動が起きた。
道鏡は天皇の位をねらった、日本史上随一の無逆無道の人物と定評づけられたのである。しかし、史実としては、そのように単純に断定できない、
複雑な謎を含んでいるように思われる。
⑵ 巨根の怪僧だとする説
これは、道鏡が称徳天皇の死後、失脚し、下野国(栃木)に左遷され、かの地で果てた以後、平安時代になってデッチあげられた巷説にすぎない。
そのもとは「藤原百川伝」という戯作の記事で、これには主人公の藤原百川を偉人化するために、その政敵である道鏡に対して、
実にえげつない筆誅を加えたことに起因する。・・・・
この何らの根拠もない巨根猥談が、民間の好事家の関心をよび、その後「続古事談」「新猿楽記」によって、次第に誇張化され、江戸時代になると、
太平にあきた庶民によって歓迎され、多くの川柳作品の題材とされたのである。・・・・
⑶ 高僧だとする説
こういう説もないではない。その代表的なのは、明治の経済学者、田所鼎軒である。かれは「日本開化小史」という古典的名著の筆者として、
名高いが、道鏡を評して、つぎのように論じている。
「道鏡は、施基皇子の私子にして、・・・・抑も何等の大胆坊主ぞや」というのである。
道鏡の履歴を見ると・・・・高僧といっても間違いとは思えないが、女帝との情事は史実として肯定できなくないから、徳の高い僧侶とはいえまい。
⑷ 凡僧だとする説
これは、倫理道徳史観と皇国史観を否定し、史上の人物を自由に究明しようとすることが公認された、太平洋敗戦後に、有力視されている。
そして、滝川政次郎博士を始め、横田健一、北川茂夫などによって、人間としての道鏡の面目がやや明らかにされた感がある。
ことに滝川博士は道鏡の行動をはなはだ好意的に解釈し、道鏡は祈祷の術には長けていたがむしろ人間的に魅力のある凡僧であり、
とくに野心家でもなければ、悪道人でもない。
ただオールドミスで、道鏡の教養と人間的魅力にひかれた称徳女帝のために、逆に利用された、同情すべき僧侶であるかのように、説明している。
皇胤説も巨根説もウソだが、江戸時代において道鏡は庶民に愛されるユーモラスな人物だった。
これを悪逆人に仕立て上げたのは、明治政府お抱えの学者である、と論破する。
和歌森太郎氏なども、大体同意見のようだ。・・・・海音寺潮五郎さんは、道鏡を「悪人列伝」のなかに入れながらも
「道鏡は、僧侶としては別として俗才はまるでなかった人物のようだ。従って悪才などありようはずはない。奇妙なめぐり合わせで孝謙の愛人となったため、
悪名を千載に流すことになってしまったのである。本来なら佞幸伝に入るべきで、悪人伝に入るべきではないのであるが、日本では古来、
悪人となっているから入れて叙した。」と、弁明している。
筆者としては、凡僧説には反対である。
道鏡は、失敗はしたが、称徳女帝をたぶらかして皇位を窺ったという点で、少なくとも怪僧とか、妖僧とかいう称号を進呈したいと考える。
この方、いろんな説を挙げながらも二人の間には愛人関係があったと、考えている様である。