日本史は、ほとんど疎いおらっちゃである。 | ||||||||||||
なにせ、高校時代の日本史以降、真面目に習ったことはない。 | ||||||||||||
まーこの時も、授業中ほとんど内職専門で、 | ||||||||||||
授業の記憶は、内職中それを咎めた先生の記憶のみである。 | ||||||||||||
当時の入試科目で、日本史選択していないため、欠点さえ取らねばOKと云う気持ちが強かった。 | ||||||||||||
また、日本史のみならず世界史に関しても、年号名前を記憶せねばならないと云った | ||||||||||||
おらっちゃの最も苦手な技能であったための思いも、それに輪をかけている。 | ||||||||||||
卒業後、ほとんどこれらに接することなく過ごしてきたが、最近少し興味が出てきた、歴史ミーハーとして。 | ||||||||||||
当然、ミーハーとしては、歴史の中の一大エポックに興味が沸く。 | ||||||||||||
そーあの邪馬台国である。近畿、九州、その他とその所在地となる候補地は各所にある様であるが、 | ||||||||||||
判官びいきからか、やはり九州説に傾く。 | ||||||||||||
これに対する確たる思いや資料、知識はないため、これ以上の言及は避けるしかない。 | ||||||||||||
それと同時に、以下の問題についても興味がでてきた。 | ||||||||||||
これに関しては、このブログでも書いているお宝とも関係する。 | ||||||||||||
天平19年(747)、聖武天皇の時代、あの大仏建立の祈願に対し、宇佐八幡宮からの託宣 | ||||||||||||
「我天神地祇(てんしんちぎ)を率いいざないて、必ず成し奉らん。銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて障(さわ)ることなくなさん」 | ||||||||||||
これの意味は、どうなんだろう?何故宇佐に祈願との思いがある。 | ||||||||||||
一つには、香春岳からの銅の供給やさらには優れた鋳造技術者の提供を祈願したとも考えられる。 | ||||||||||||
大仏鋳造後、大仏表面の鍍金に際し、続日本史の記事には「塗金足らず」「金少なし」の文があり、 | ||||||||||||
鍍金が切迫した問題となっていた。聖武天皇はこれを憂慮し、神仏に産金を祈願している。 | ||||||||||||
その後、東北地方でこれの発見があり、年号も改元、大仏開眼がなされる。 | ||||||||||||
天平21年(749)陸奥国守百済王敬福が金900両(10kg?)を献上している。 | ||||||||||||
ここでの疑問として、「東北の地でそんなに大量のものが採れたの?」である。 | ||||||||||||
その後、残念ながら佐渡、甲斐、薩摩の様に有名な金山が、この地にあったと云う記録は見られない。 | ||||||||||||
実際、近年発行されている「日本の地質」等においても、この地方に関してほとんど金山の歴史や地質は書かれていない。 | ||||||||||||
とはいえ、ネットの威力は抜群である。いろいろ調べると、確かにこの地方、金山が各地にあった様で | ||||||||||||
そこから運ばれた事はあり得る様である。 | ||||||||||||
現在でも多くの方があちこちで、おらっちゃ同様それを趣味にしており、ブログ等による発表や町おこしによるイベント等、いろんな催しが実施されている。 | ||||||||||||
そのため、それなりの量は採掘可能であったのかなーとの考えもある。 | ||||||||||||
実際に鍍金量を調べると、200Kg前後になる様で、単純計算ではまー30㎝立法の量となり、ひょっとすると | ||||||||||||
この程度ならとの思いもある。 | ||||||||||||
が、しかし・・・ | ||||||||||||
これらの問題もここでの主たる疑問と違うため、もう少し資料を揃えてみたい。 | ||||||||||||
ここでの思いはこれであり、次回にそれを示そう。 |