帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

はてさてどこか?(その16)

2020-08-29 06:22:56 | 歴史

さてさていよいよ佳境に!

目的地へはこんな文章が。

「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」

そー目的地の邪馬壱国、そこそこあっさりと。

戸数は七万余戸、やっぱ人口多い。そして女王が居ると。

行くまでの旅程、「水行十日、陸行一月。」これもどー読むかで、いろいろ解釈できる様です。

投馬国へは「南、投馬国に至る。水行二十日。」とあります。

投馬国との比較では水行二十日と十日、邪馬壱国、水行では半分の行程、投馬国より近い域?

「陸行一月」この文章、どう考える?

+一月、or陸行一月、そー水運で10日の旅程、陸運で1月の旅程、どこからかでも、目的地いろいろ変わる。

行程からは、遠すぎるという意見多い様なので、or説が良いかな?

邪馬台国、陸運でも水運でも行ける場所の様です。

しかも投馬国よりかなり近い、また陸運でも1月程度あれば到着可能?

出発地として、帯方郡を起点に。そこから水行十日又は陸行一月の場所、投馬国よりも近い域で奴国の南?

これらを勘案すると、この辺りが最適か?

 

                            

 

さらに、こんな文章が続いています。

「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。」

そー邪馬台国の北側の国は概略示されるが、他国はちょい遠すぎるので詳細不明と。

これを加味しても、やっぱ奴国の南域に位置、奴国までは概ね国が固定もされ、北側に邪馬台国位置しようがありません。

この周辺で弥生時代、どのような遺跡があったか、チェックしましょう。

 

平塚川添遺跡:約17haの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。

中央部に内濠に囲まれた約2haの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出され、

中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡がある。

別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。

遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。

植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。 

 

                                 

 

こんな遺跡も

栗田遺跡:弥生時代中期の墓地を主体とする遺跡。過去に銅矛や高杯・筒形土器が出土。

標高44~45mの台地上にある経田地区で甕棺 73と祭祀遺構 7ケ所以上が検出された。

祭祀の状況がよく観察できる遺跡で、祭祀遺構からは筒形土器・高杯・甕・壺などおびただしい土器が出土し、いずれも丹塗りで丁寧に磨き上げられたものである。

しかも意図的に打ち欠き、 穿孔されたもので、完形品はごくわずかである。さらに破砕された土器片の一部は、棺上にのせたり、棺の墓壙内にばらまいたりしている。

このような状況は当時の葬送儀礼の一端をかいま見るものであり、丹塗り磨研土器群とともに好資料の遺跡である。

弥生時代の丹塗大型器台は、壱岐・唐津・糸島・早良・福岡・朝倉・佐賀・筑後の各平野に分布するが、朝倉平野に分布の中心があるといってよい。

丹塗大型器台を出土した代表的な遺跡は、この栗田遺跡で、これまで10個以上が発見されている。

 

この一帯いろいろ遺跡や遺物、出土している様です。

しかも、まだまだ調査できない箇所も多く、そんな場所からひょっとしたらの歴史を動かすモノが・・・

そんな期待を抱かせるエリアかな。

そう云うことで、この位置、一押しか!!

ある著名な考古・歴史学者の方もこの周辺押している様ですね!!

 

 

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盛夏の園芸(その2)

2020-08-26 07:03:53 | 日曜菜園

(その1)で示したヒマワリ、実際こんな感じで咲いてくれています。

 

                                             

 

盛りを過ぎて、ちょい頭は垂れていますけれど・・・

 

こんな花が咲く予定だったんだが・・・

 

                                

 

八重のヒマワリとミニのヒマワリ。

結果はこんな感じ。

(その1)で示した様に、発芽率は50%弱?

まーそれでも何とか咲いてくれるか と期待を持ってせっせっこ水やり。

咲いたは咲いたが、こんな花。

 

                                 

 

そー大部分が普通の大輪ヒマワリ。1本のみが八重と、なんでかなー?

 

                                

 

ミニについては、

 

                               

 

背の幾分低い大輪同様のヒマワリ。

 

まー咲いてくれたと云うことで吉と考えるべきでしょうが、来年この種使えず残念です。

それが過去の教訓、次回はまた別の花で挑戦か!

 

それに比べアサガオの元気の良いこと、こんな元気あやかりたいものです。

ホートー発芽率100%近い、さらにはしっかり茎、花と伸び、どこでもここでも咲いてくれています。

 

                               

 

この花からのタネ、多分来年も大丈夫?

ただ、あちこち咲いたが、色がほぼ1色なため、ちょい単調!!

次回は別の色も挑戦かな?

 

                        

 

                        

 

                                                

 

こっちの棚も、「丘ワカメ」、そこそこ緑の茎伸びて、良い感じでカーテン状にマッチング?

 

                                        

 

     

 

 

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はてさてどこか?(その15)

2020-08-23 07:32:58 | 歴史

こんな文字で始まります。

「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」

南方面に向かう様で、戸数も五万余戸ばかり と、まーまーの規模?

ただ、距離になるのか、唐突に水行二十日 と、距離表示の・・里ありません。

日数からは、かなりの距離か?

この見方いろいろある様です。

どこから水行二十日なのか?

スタート地点が違えば、二十日掛けての旅行もかなりゴール域が異なってきます。

とはいえ、どこにしても二十日という時間、なかなか解釈難しい様です。

結果、この二十日無視して、南域に行くとして、その候補地とすればこの辺りが無難な感じです。

水行として、遠賀川を遡りましょう!!

着いたところが、嘉麻周辺、この辺りに五万余戸、いろいろ無理ありますが、この域での遺跡どんなものでしょう?

 

                                                                      

 

・本村・原田・鎌田原遺跡:弥生時代の遺跡で、特定有力者集団の墳丘墓もある。副葬品には青銅武器類、ヒスイの勾玉、碧玉の管玉、小銅鐸、後漢鏡等があり、

弥生の「国」の存在を裏付ける

 

・広畑・成竹遺跡: 弥生時代、熊ヶ畑や下山田下の谷などの水辺の低湿地や丘麓の、水利に便利、比較的肥沃な所で稲作農業が行われ、集落 が形成された。

成竹遺跡では、大型貯蔵穴からイチイ樫の実、藁、鏃、黒曜石、石包丁、石斧、有柄石剣、砥石、高杯、土器片が見つかり弥生時代前期集落跡と考察される。

弥生前期~中期にかけての、住居跡20基、貯蔵穴70~80基の大規模集落が考えられる。

 

・庄原遺跡:福岡県田川郡添田町大字庄字下の原

 JR西添田駅西側500mの丘陵上に位置し、弥生時代中期前半の貯蔵穴から銅槍鉋の鋳型が発見される。槍鉋は有明海沿岸を中心に10例しか見つかっていない。

その鋳型がこの域で発見されたことは、この遺跡が早くからの大陸と技術交流があった遺跡の一つとみられ、当時の社会を知る重要な遺跡に位置付けられる。

 

                                                                                 

 

また、多くの砥石や輸入鉄器とともに国内最古の金属溶解炉も発見され、大規模な生産遺跡と考えられている。

この一帯、当時としてはかなりの先端ハイテク技術の集団が住む国と位置付けられ、朝鮮からの渡来人が住んでいたとみられる。

農業国と云うよりも、工業国として、この域から各地に各種の青銅器等が出荷された国の可能性が高い様である。

と云うことで、この辺りを投馬国に比定したいものです。

もうすぐか、邪馬台国?

 

 

 

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こんな記事から日本を斜め読み!!

2020-08-20 07:13:03 | その他

「週刊ポスト」「週刊現代」「週刊新潮」「週刊文春」等は時おり買ったり、また、置いているいろんな施設もあるため、目にすることあります。

しかし、初めて買ったこの種の週刊誌。

まー表紙からは何となく分かる大衆芸能誌、上記週刊誌と扱う記事というか、内容若干異なるか?

記事より、いろんなピンナップ写真、これが違う?というより多いのか!

いやー今はそれほどでも、どの週刊誌もどっこい、どっこいと云うべきか?

どんな週刊誌?

これ!!

 

                         

 

「アサヒ芸能」、アサヒって付いているので、あの天下の捏造新聞「・・・新聞」の系列会社?

この種の記事、新聞ネタに出来ないため、あえてこんな週刊誌で取り上げるのかな?

と、思ったが全然系列とは関係ない様です、ただ中身は同じくフェイク記事で満たされているみたいですが。

「新聞」、「週刊誌」、昔は新聞=社会の公僕、週刊誌=ゴシップ記事羅列と思っていたが、今は逆の場合も。

新聞、フェイク記事満載、週刊誌、そこそこ本音が・・・でもないかな?

 

さーどんな記事、その前にこの種の週刊誌の見どころ!!

そーこんな写真、これはまだ可愛いものかな?

 

                      

 

今回の目的、この記事です。

 

                      

 

そー一時は貧困調査と称して、新宿歌舞伎町の出会い系バーの名店「ラブオンザビーチ」へ行っていた

あの・川事務次官の古巣の省で、007並みに「スパイ」の文字が踊っています。

当然、次官自ら現地調査実施する省ですから、その配下の人々もいろいろ信じられない動き、おかしくはない?

 

と、思っていたら、その後のいろんな報道、あれって記事で、ある新聞にその顛末載っています。

どっちがホートー?

まーこの新聞、捏造主体ではないと信じている新聞なので、信じるしかないかな?

陽道作戦ってことも考えられるが、やっぱゴシップ中心記事の週刊誌、ちょい勇み足だったのかな?

 

                      

 

いろいろ闇の多い感じで結論纏められています。スパイじゃないにしても、まだまだ奥は深そう!!

 

 

 

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はてさてどこか?(その14)

2020-08-17 07:01:32 | 歴史

盆休みも終わったが、まだまだ続くコロナ禍に残暑、酷暑への対応必要です。

今後も台風等の災害に注意、準備し、過ごし易い秋の訪れ待ちましょう!!

 

ここでは、訪れる国問題、この辺りからです。

奴国までは、多くの人の意見一致しています。

この辺りからの描写が今一って感じで、いろんな変化が。

どんな表現か、先ずは原文から。

「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」

まー奴国に近いってことで、さほど意見の違いはないのか、この国?

戸数も千余家と、比較的小さな国の様です、この「不弥(ふみ)国」

前回の地図に示している奴国の東域で、大きな問題ない?

しかし、東域と云っても、そこそこ範囲は広い様で、近くは福岡市宇美町から図面の様に津屋崎町付近となり、さほどその場所固定はされていない。

と、思っていると、そーでもなくまだまだこの位置、いろいろあっても少し広い域が候補地なのか?

「不弥国」の候補地は、大別すると、大宰府付近、粕屋郡一帯、古賀市周辺、飯塚市一帯に分かれる様で、まー奴国の東域と云えばってところか?

この区域で、どんな遺跡があるか、先ずは見てみましょう!!

 

大宰府市付近:

・奴国の位置から見ると、東域というより南域?

・7世紀の大宰府造営で、弥生時代の遺跡の多くは破壊された可能性も。

・高雄の吉ヶ浦遺跡から弥生中期~後期の木棺墓10余基、甕棺墓70余基、鉄鏃、斧、鉋等の鉄製品が出土。

・筑紫野市側で江戸時代発掘の二日市峰畑遺跡、永岡遺跡、道場山遺跡など、多数弥生遺跡が分布。

 二日市峰畑遺跡:前漢鏡と中細形銅剣を副葬した甕棺墓、弥生中期後半の首長墓

 

                               

 

 永岡遺跡   :甕棺墓を主体とする弥生中期の墓地

         甕棺墓153基(成人44、小人・幼児109)

         木棺墓9基

         土壙墓21基

         銅戈鋳型1基

 道場山遺跡  :弥生中期後半~後期初頭の甕棺112基が出土した墓地群。この地域にも首長が居たと想定される。

各種の出土品、規模等見ると、それなりの首長の存在も推定されるが、「不弥国」を奴国の東域と考えた場合、この域を「不弥国」とするには無理がある?

 

粕屋郡一帯:

・福岡平野の一部と、奴国域に近い。

・扇状地で焼畑農業が主体の地域。

・弥生遺跡が少ない。

・志免町に日本最大級の箱式石棺墓の亀山墳丘墓がある。ただ、副葬品は管玉のみ。

 

                                       

 

・粕屋町酒殿の石棺墓数基のうち、一つから舶載中国製獣首鏡、小型仿製鏡が出土。

・粕屋町に平塚古墳(大隈石棺墓)があり、内行花文鏡片や管玉が出土している。

・投馬国への出航地と考えるには無理がある。

国レベルの首長墓としては、やや規模の小さい墓等の分布しか見られず、「不弥国」と考えるにはインパクトが弱い。

 

古賀市周辺

・馬渡・束ヶ浦遺跡

 甕棺墓から銅剣、銅戈、銅矛の三点セットが出土し、弥生時代前期末~中期前半の首長墓と思われる。

 副葬品は細形青銅武器の銅剣3、銅戈1、銅矛、銅釧5、勾玉1、管玉30、鉄剣1が出土。

 

                               

 

 この地域は、奴国の春日丘陵同様の青銅器生産が行われていたらしく、銅戈鎔笵・銅釧の鋳型なども出土。

 

飯塚市一帯

・立岩遺跡(下ノ方、焼ノ正、堀田各遺跡の総称)

 甕棺墓43基、貯蔵穴26基出土

 前漢鏡(連弧紋鏡、重弧紋鏡)10面、細形銅矛、鉄剣などの副葬品

 ゴウホラ貝の腕輪をつけた男性遺体、この付近を支配していた王墓の出土

 石包丁(笠置山採取岩石)の一大産地、石剣、石鎌、石戈等の石製品の製造産地

 

                                  

 

これらから考えた場合、「不弥国」は、飯塚市が妥当かな?、この域、遠賀川上流に位置し、あの遠賀川式土器にも関与?

を考えると、この域一帯がそれなりの各種製品交流市場としても発展していた可能性も。

 

 

 

 

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