さてさていよいよ佳境に!
目的地へはこんな文章が。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」
そー目的地の邪馬壱国、そこそこあっさりと。
戸数は七万余戸、やっぱ人口多い。そして女王が居ると。
行くまでの旅程、「水行十日、陸行一月。」これもどー読むかで、いろいろ解釈できる様です。
投馬国へは「南、投馬国に至る。水行二十日。」とあります。
投馬国との比較では水行二十日と十日、邪馬壱国、水行では半分の行程、投馬国より近い域?
「陸行一月」この文章、どう考える?
+一月、or陸行一月、そー水運で10日の旅程、陸運で1月の旅程、どこからかでも、目的地いろいろ変わる。
行程からは、遠すぎるという意見多い様なので、or説が良いかな?
邪馬台国、陸運でも水運でも行ける場所の様です。
しかも投馬国よりかなり近い、また陸運でも1月程度あれば到着可能?
出発地として、帯方郡を起点に。そこから水行十日又は陸行一月の場所、投馬国よりも近い域で奴国の南?
これらを勘案すると、この辺りが最適か?
さらに、こんな文章が続いています。
「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。」
そー邪馬台国の北側の国は概略示されるが、他国はちょい遠すぎるので詳細不明と。
これを加味しても、やっぱ奴国の南域に位置、奴国までは概ね国が固定もされ、北側に邪馬台国位置しようがありません。
この周辺で弥生時代、どのような遺跡があったか、チェックしましょう。
平塚川添遺跡:約17haの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。
中央部に内濠に囲まれた約2haの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出され、
中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡がある。
別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。
遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。
植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。
こんな遺跡も
栗田遺跡:弥生時代中期の墓地を主体とする遺跡。過去に銅矛や高杯・筒形土器が出土。
標高44~45mの台地上にある経田地区で甕棺 73と祭祀遺構 7ケ所以上が検出された。
祭祀の状況がよく観察できる遺跡で、祭祀遺構からは筒形土器・高杯・甕・壺などおびただしい土器が出土し、いずれも丹塗りで丁寧に磨き上げられたものである。
しかも意図的に打ち欠き、 穿孔されたもので、完形品はごくわずかである。さらに破砕された土器片の一部は、棺上にのせたり、棺の墓壙内にばらまいたりしている。
このような状況は当時の葬送儀礼の一端をかいま見るものであり、丹塗り磨研土器群とともに好資料の遺跡である。
弥生時代の丹塗大型器台は、壱岐・唐津・糸島・早良・福岡・朝倉・佐賀・筑後の各平野に分布するが、朝倉平野に分布の中心があるといってよい。
丹塗大型器台を出土した代表的な遺跡は、この栗田遺跡で、これまで10個以上が発見されている。
この一帯いろいろ遺跡や遺物、出土している様です。
しかも、まだまだ調査できない箇所も多く、そんな場所からひょっとしたらの歴史を動かすモノが・・・
そんな期待を抱かせるエリアかな。
そう云うことで、この位置、一押しか!!
ある著名な考古・歴史学者の方もこの周辺押している様ですね!!