鋳銭司講習会では、銅銭の原料は長登や蔵目喜鉱山からの銅鉱石との結論であった。
こっちの思いは、香春の銅鉱石も使われていたのでは?との思い。
残念ながら、それはないとの回答であったため、うーん実際どーなのかな?の素朴な疑問である。
なんせ、エリアとしては、長門鋳銭司(下関市長府)は、香春・長登、距離的にはほぼ同範囲と云うよりより近い。
これらの鉱床形状(スカルン鉱床)にも、差があるとは思えない。
また最初の鋳銭司が長門であれば、なおのこと長登、香春と、距離的な点でもより近いのでは?
称徳天皇・道鏡における宇佐八幡宮神託事件(769年)に関する銅鏡も、香春で造られた銅鏡が関与とも。
この八幡宮の放生会に奉納する御神鏡の鋳造は養老四年(710年)からとも云われており、かなり
古い時代から鉱山があったとも考えられる。
そーなると、当然銅銭鋳造の時期とも重なり、どーなの?の思い。
そんな考えをもとに、以下の流れで資料を当たり、その可能性を考察してみよう。
その方法として3種類のアプローチで検討してみる。
1. 過去の文献からの香春鉱山の銅採掘に関する可能性
2. 考古学史料からの同鉱山での銅採掘の可能性
3. 銅銭や銅鉱石からの化学分析結果による同鉱山鉱石使用の可能性
実際どーなるかな?
大部分は過去資料の蒸し返し、それでも考え方で結果に差がでる?
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