宇佐八幡宮を祭神として祭る氏族は、宇佐、辛嶋及び大神の3氏である。宇佐氏は農耕神的な神としての信仰、辛嶋氏は製錬技術を有する渡来系としての信仰、
大神氏は大和との繋がりからの信仰と、各氏各様の由来での総合神が宇佐神宮の祭神の特徴である。
銅鉱との関係からみると、採鉱、製錬としての辛嶋氏が深いと考えられる。この辛嶋氏とはどんな氏族であったのか?
辛嶋氏は秦氏の系統を引く氏族であり、新羅神を奉齋する。辛嶋氏の起源は宇佐郡辛嶋であると考えられ、宇佐市辛島がそこにあたり、その場所には宇佐神宮の摂社がある。
小倉山の麓駅舘川の北西に位置し、湧水があり、水が必要な製鉄との関連が示唆され、ここには菱潟池に顕れた鍛治翁の伝承がある。
宇佐八幡宮の元宮と呼ばれる神社は、何社か宇佐八幡宮の北側にあり、北側よりの祭神の移動が考えられる。
これらの神社は、香春神社、古宮神社、大分神社、薦神社である。各々どんな伝承があるか、調べてみよう。
香春神社は、銅山があった香春にあり、この場所は豊前路としての交通の要所である。ここの神も三神であるが、
各々はもともと香春の三岳に鎮座していたものを麓に降ろし祭ったものである。
一ノ岳には辛国息長大姫大目命、二ノ岳には忍骨命、三の岳には豊比売命が祭られていたが、これが合祀の形で香春神社に和銅2年(709)に移設された。
特に三の岳は銅が採掘されており、現在でも神幸祭として香春神社と古宮神社間で遷座する祭られ方で、主に三ノ岳の麓の古宮八幡宮に豊比売命が祭られる。
古宮八幡宮も和銅2年(709)、官幣社の指定を受けたと伝えられ、天安3年(859)に宇佐八幡宮より神功皇后、応神天皇の二柱が勧請されている。
なお、この辛国は韓国であり、新羅からの渡来人が奉齋した神であり、宇佐の辛嶋との繋がりが見える。
平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、
古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある。
延喜式神名帳(927)には、豊前国の神社は六座であるが、うち三座が香春神社にあり、残りが宇佐八幡宮に鎮座している。
特にこの古宮神社と宇佐神宮の関係は、宇佐神宮の御神体である銅鏡が、この古宮神社で製造、奉納されている。
八幡神の出自として、逸文『豊前国風土記』に「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原(香春)に住むり」とある。
大分神社は、神亀3年(726)に創建され、社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とある。
薦神社は、境内の三角池(御澄池)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848)の創建と伝える。
境内の御澄池に自生する「真薦」を刈って作った御験、「薦枕」を神体として宇佐神宮まで運ぶ。ここで薦枕が製造され、宇佐八幡宮へ奉納される。
薦神社の神紋は一つ巴であり、三つ巴の宇佐神宮に対する「祖宮」の意味が考えられる。
すなわち、いろいろな神が宇佐八幡宮へ習合し、最終的に3氏の絡みで、神宮へと変化していった様である。
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