最近マスコミに登場する「子供の貧困」なる言葉、 まあそれは勉学のチャンスも制限されて、 貧困の連鎖に陥りやすく、 社会的に改善すべき現象として語られる事が多い。 しかし僕には違和感を感じる表現だ。
子供をもつ親の収入が少ない貧困(?)家庭に原因があるなら「貧困家庭」と呼べば良さそうなのに、 何故「子供の貧困」と表現するのだろう?
それに僕が小学生だった子供の頃、 我が家は貧乏な状態で、 税金を滞納したからと言って ”差し押さえ”の名の元にタンスに赤い色の印刷された紙が貼られた事があったのを覚えている。 そんな貧乏暮らしの家庭であったけれど、 僕は普通に勉強して、 小・中学生の期間は成績も並の上の子供だった。
そんな貧乏家庭だったから、 自分では高校なんて行く気もなくて、 中学を卒業したら就職して金を稼ぐつもりでいたし、 父も母もそう考えていた雰囲気だった。 でもまあ「高校ぐらいは出なくちゃ駄目だ」みたいな話が、 お節介なオジやオバからあって、工業高校を受験したものだった。
それが今の世の中、高校どころか大学へも行くのが当たり前化している。 しかしそれは費用対効果の面で言えば物凄い非効率と感じてしまう。 だって大勢の人間の中には勉強が好きで得意な奴もいるだろうけれど、 大半は遊びの時間を過ごす期間としての大学在学である様に見えるのだ。 違うだろうか?
つまりね、 返還不要の奨学金みたいな制度を充実させて、 「全ての子供に大学教育を受けさせれば、 貧困の少ない良い世の中になるなんて、馬鹿な話だぜ・・・」と想っているのですよ。
子供をもつ親の収入が少ない貧困(?)家庭に原因があるなら「貧困家庭」と呼べば良さそうなのに、 何故「子供の貧困」と表現するのだろう?
それに僕が小学生だった子供の頃、 我が家は貧乏な状態で、 税金を滞納したからと言って ”差し押さえ”の名の元にタンスに赤い色の印刷された紙が貼られた事があったのを覚えている。 そんな貧乏暮らしの家庭であったけれど、 僕は普通に勉強して、 小・中学生の期間は成績も並の上の子供だった。
そんな貧乏家庭だったから、 自分では高校なんて行く気もなくて、 中学を卒業したら就職して金を稼ぐつもりでいたし、 父も母もそう考えていた雰囲気だった。 でもまあ「高校ぐらいは出なくちゃ駄目だ」みたいな話が、 お節介なオジやオバからあって、工業高校を受験したものだった。
それが今の世の中、高校どころか大学へも行くのが当たり前化している。 しかしそれは費用対効果の面で言えば物凄い非効率と感じてしまう。 だって大勢の人間の中には勉強が好きで得意な奴もいるだろうけれど、 大半は遊びの時間を過ごす期間としての大学在学である様に見えるのだ。 違うだろうか?
つまりね、 返還不要の奨学金みたいな制度を充実させて、 「全ての子供に大学教育を受けさせれば、 貧困の少ない良い世の中になるなんて、馬鹿な話だぜ・・・」と想っているのですよ。