脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

これ何度も読んで

2022-05-05 | Weblog
今日クラブあるあるで話をしていた。そこで話題になったのは体育館の入り口に脱いだ靴がそろっていなければわざわざ部員をよびつけて「お前ら靴がそろってないじゃないか」と怒鳴りつける顧問。そもそも体育館と言うのは誰が入ってくるのかわからないし、ましてやそこで大会が行われていたら多少靴が散乱するのは仕方がないこと、しかしそれを言うことを聞くからと自分の力を見せつけるためかわからないが、人をわざわざよびつけてでかい声で人前でののしる、はっきりって誰がやったかもわからないのにそういうことをするのは濡れ衣を着せること甚だしく不公平である。こういう一方的な権力を行使できるようなコミュニティはまともではない、第一靴がそろっていないのなら自分から片づけてやったらいいし、もしそれを言う必要があるのなら人前でどなりつけるのではなく、こっそりと注意すればいいことだ、私はこういう話しを聞いたり、行為を見たりするたびに彼ら彼女らがよくする権威を見せつけるためのパフォーマンスと思ってしまうが、スポーツのコミュニティには絶対的な権利をもつ権力者は必要がない、平等性を保つためには親玉がいて人を支配する構造をつくってはならないと言うのが私の考え方だ。
アンナハーレントの著作に"Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil"がある。これはナチスの親衛隊隊長のアイヒマンの裁判を傍聴したアンナハーレントの記録である。その中で彼女はこう語っている。「アイヒマンは悪人でも狂人でもない、彼の罪はまったく思考していないこと、思考を放棄しその組織の歯車になることでホロコーストに加担した。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だ」彼女はこの現象を悪の陳腐さ(あるいは凡庸さ)the banality of evilと名づけたが、悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る。悪とはシステムを無批判に受け入れることである。
まだまだスポーツの世界は暴力や支配的構造が見られるが、それは監督や顧問をどうにかしろといった問題ではなく、そこに集まるひとりびとりの問題でもある。そこにある権力的構造を容認すると言うことはその力による支配を受け入れると言うことだ。上級生が下級生よりも力を持ち、時には下級生はその上級生の理不尽な要求に我慢しなければならないと言うのはその権力構造の延長である。格闘技ではケガをしたりさせたりするのが当たり前、なぐられたのはお前を強くするためだとか本人が納得してたらいいと未だそういうことを言う奇特な人間が存在する。さらにそういう群集心理が歪むと自分もやられたから問題ない、よくあることだ、我慢しろ的なことを無神経にも言うが、はっきり言って世の中では暴力をふるえば犯罪だ、こういう狭い世界で生きると物事を一般化して考えることができない、常に自分たちの都合で解釈する、そういう人間が集まると暴力が容認され、理不尽なことがまかり通る。
クラブやジムで暴力や不公平がおこらないためにもひとりびとりが考えて行動する必要がある。正しいものさしをひとりびとりがもたなくてはならないと言うことだ。そして客観的に、広く深く物事を考える。その考える力を養うため勉強する必要がある。はっきり言って強豪と呼ばれる運動クラブは勉強させる暇がない程練習するので勉強がおろそかになりがちだが、こういう習慣になれてしまうとそのスポーツ以外は何も考えずに没頭することが正しいこととされ、その権威主義の歯車となってしまう。スポーツは誰もが競技する権利があって、人権を侵害されてまでするものではない。同じスポーツをする共同体なのだから、そこでは誰もが権利を軽んじられることなく平等に楽しんで競技したらいいだけのこと、そこで我々はスポーツをする権利があるのだ。暴力や不平等を生み出さないためにもひとりびとりが考える力を養い、自由に行動することが必要である。アイヒマン裁判は特別なことではなく、我々が陥りやすい人間の弱さ、愚かさの象徴である。人間は愚かで弱い、愚かで弱く脆いからこそ考える力を養い間違った虚像をもたない、自分だけの正義ではない、普遍的な正しさを求めて行動することは大事なことである。


参考文献
Hannah Arendt ,Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil.
「ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像」開高健



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