脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

哲学や宗教学を勉強したけど、でも答えはここにあった

2018-11-06 | Weblog

ハワイでたぶん今ぐらいの時期だったと思う。カリヒと言うところにトレーニング出来ていた私はそのチームメイトたちとリングでプロレスごっこをして管理人のおじさんに思い切りおこられた。リングがやたらフワフワしててここでプロレスをしたらおもしろいだろうなとチームメイトにしかけたら、みんな調子に乗ってそれぞれが技をかけあったのだが(少し投げられたぐらいでは意外と痛くないことがわかった)あまりにはしゃいでいたので「お前ら何をやってるんだ」と「いやああっ、ウオーミングアップです」見たいなことを言ったらここではプロレスのような行為は認めていないときっぱりと言いきられ、けがをしたらどうするんだ、今度やったらリングはつかわせないというようなことを言われすごくはずかしかった。

そしてその時期はハワイアントーナメントが開催される時期だったと思う。私もその大会には何度か出たが、当時は米国はボクシング大国ハワイと言えど強豪がたくさんいて、そこで優勝するのは難しかったと思う。私の経験上そこにはたくさんのドラマがあった。びっくりするほどのテクニシャン、最初は相手をうまくいなしていたが、しかし3ラウンドにつめられて一発のパンチが入ってそのままKO、勝った相手は腕をつきあげて喜んでいたが、すごい逆転劇で観衆は惜しみなく拍手をおくっていたと思う。そして私自身も逆転勝ちをしたことがある。ファーストラウンドは足がついていけなくて軽くいなされてポイントをとられたが、しかし相手が疲れてきた3ラウンド目に勝負をかけて逆転RSC、体力を温存して逆転勝ちをおさめたが、その時も彼と同じくまわりが私に暖かい拍手をおくってくれた。

生きててよかったと思えることなんて人生の中でそうあることではない。でも私は何度か自分は本当に生きていてよかったとつくづく思う時があった。それがその勝利の瞬間であり、その勝利に対して惜しみなく拍手してくれたり、ジョージやアレンが「お前は天才だ」と称賛してくれた時である。でもはっきり言ってここで重要なのは勝つとか負けるとかではなくて、自分の努力や存在を認めてくれるか否かと言うことだ。私がボクシングによって救われたと言うのはこのスポーツをとおして自分が認められたからで、そこには人種や育ってきた環境なんて関係ない、ただ一生懸命努力して素晴らしいファイトをした。そのことが認められたということで、その時私は心から自分を信用することができたし、本当にスポーツには国境はないと言うことを外国のリングで体験したことは確かである。これは日本ではやってはいけない行為だが、ある時から私は勝った時にセコンドに向かって時には胸を2回たたいて、拳をつきあげるようになった。その行為はなまいきで自信をあらわした表現にもみえるが、しかしその行為は解放である。我々のような複雑な人間は戦う相手は競技者だけではない。解放と言うのは私を束縛していた敵からの解放で、そのことがまさにこのボクシングと言う自由なスポーツの中で実現されたと思う。わけのわからないことを言うがキムホヨンは私の亡霊であった。でもボクシングを競技することでその亡霊が成仏できたと思っている。人間は忘却の生き物だ、いやなこともつらいこともすべて忘れることができる。そしてさらにもっともっと貴重で素晴らしい体験をしたら、その複雑な思いは消え去ると思う。

 

 

 


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不完全である人間

2018-11-05 | Weblog

日本人は完璧主義だ、トレーニング一つにしてもなぜそこまでやらなくてはいけないのか完璧性をもとめるのか理解できないのだが、本当に日本人はまじめで完璧性を求める民族だ。日本のトレーニングする場所がピリピリしているのはただ一生懸命真剣にやっているからではなく、そのトレーニングの中で完璧性を求めるからである。そういう完璧性を求めるまじめさと家父長制的な制度がパワハラと言うものを生み出しているのだが、実際我々も自分の子供のことになると期待しているからこそ、ついなぜそれができないのかと感情的になるのだが、監督やコーチが罵倒したり叱責するのはそれに近い感情であろう。確かに監督やコーチの罵倒や叱責と言うのは期待の裏返しであると言えるし、こういう気持ちの部分から愛情のある体罰と言う矛盾形容した言葉がでてきたのだろう。しかしどうであっても一般論で考えたら人をたたいたり、罵倒したり、人が傷つくような言葉を使うのは間違っている。

さらに監督に対しても完璧性が求められスポーツの監督と言うものは人間的にも立派でなければならないという間違った価値観が求められる。しかし私に言わせてみればそれしかやってこなかったと言うような人間は人としては半人前、現に今パワハラとかセクハラの問題が次々と上がってきているが、それしかやってこなかった人間なんて言うのは所詮そんなものだ。いくらその小さい世界で立派にふるまっても限界がある。完璧性を求めるのは自分が井の中の蛙で一般論で物事を理解できない、小さなものさししかもっていないからだ。人間は不完全だ。不完全だから失敗や間違いもするし、不完全だからこそ一生懸命努力する。指導者はまず自分は不完全であると言うことから認めなくてはならない。そう本当に認めることによって私は本当の人間関係の礎を築くことができると思っている。競技者のことがきらいな監督はいないと思うし、競技者もみんな本当にうまくなりたいと思っていることは確かなことだ。だから完璧を求めてそれができないとネガティブな言葉をつかってはいけない。そこからは何もうまれてはこない。今日あげた動画はジウンの教会に食事にありつきに行った時に学生のグループがよく歌っていた歌。あまりにも歌うので歌詞をおぼえてしまったが、この歌にMan shall not live by bread alone, but by every woad...とあるが、言葉は大事だ、不完全であってもお互いが支えあい、共に成長していく姿を描きながら相手を生かす言葉を選びとっていけたらと思っている。


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Are you able to speak japanese?

2018-11-03 | Weblog

体育会系でよく礼儀とか、あいさつは基本だとか言って大きい声であいさつさせることがしつけや礼儀を教えることだと勘違いしている奴ら、そういうことは中身がなければ非常にナンセンスだと思っている。まずそんなことを言っている人間がまともに日本語が話せるのだろうか。そこまで言うのだったら指導者としてある程度のレベルの国語力がなければ指導者失格、あいさつとか礼儀とか言う前に自分が正しい日本語を話し、そのクラブで使われている言葉のレベルを上げることが必要だ。指導者が正しく適切な日本語を使えば、その言葉が子供に影響し、子供は礼儀正しい振る舞いをするようになるだろう。指導者の言葉がとぼしければ、その群れ自体がずれてくる。やんちゃですとか何か少しくせのあるような奴らが集まるようなクラブは責任者の話す言葉や教養レベルがひくいからそれに付随してそういう奴らが集まってくるのだと思っているが、まともな人間を集めたかったら国語力を磨いてきちんと話ができるようにすることだ。そのコミュニティで正しい日本語が語られたら自ずとそのコミュニティは安定し、品格がそなわり礼儀正しくなるものだ。その指導者のレベルを知りたかったらその指導者がどういう本を読んでいるか、その読む本のセンスでこの人は教養があるかないかということがわかると思う。本を読んでいないと言うのは論外であるが、How to本を読むのが読書なんて思っているのももってのほか、ある程度難しい言葉が使われていて専門的な知識が多少必要な本を読むことで、知識が深まり、多面的な見かたができる。そういう本を読めなくてはダメだ。小中学生を相手にするのだったら多少教育的なことも話す必要もある。本当に親から信頼を得たかったら、自分がやってきたスポーツの小さい価値観で、しかも語彙力もないのにそれがすべてだと思わないこと、読書を習慣にして日本語をきちんと学んで応対、対応すること、そのことが相手の信頼を生み、言葉を生かすことが全体をいい雰囲気にかえて行くのだと思う。

本を読むことは国語力を高めること、そして知識を深めることで、これは指導者には求められることだ。私も本が好きだが、うちのメンタルトレーナーは私以上に本を読む。この前は本屋の話で盛り上がったのだが、彼は大阪に行った時は4時間ぐらい本屋にいて専門書から一般の本までまとめて買いまくるらしい。精神医学のドクターは人の話を聞く仕事なのでその人を知るためにいろいろと共感を得たり、外側からアプローチする必要があるからだろう。現に言葉を知っているし、私があげた文学や哲学などのたとえはほぼ知っているので話がしやすいのだが、これを患者に例えたら私のような複雑なインテリ系が来てもきちんと相手に合わせて話が対応できるということだ。言葉理解は受け入れてくれていると言う安心感を生み出すのだが、相手をミスリードすることなくベターな方向に導くために日々読書をして研鑽する姿はまさにプロフェッショナルである。

うちのジムには年齢や性別をこえて多くの人が集まっている。いろいろな人が集まっているのだからプロフェッショナルとまでいかないがある程度どういう人が来てもその人の言葉をきちんと理解し受けとめ、時にはアドバイスできるぐらいの教養は必要だと思うし、それができるかできないかでそのコミュニティの質がかわると思っている。

私は基本的にバカみたいにでかい声をだしてあいさつしたり、意味のないヒエラルキーをつくってまとまっているなどとほざくよりも、女性がいるから裸でトレーニングしないとか、気合を入れて大きい声をださないと言うような思いやりや気づかいが大事だと思っている。コミュニティのレベルがひくいとこれができない、こういうことは指導者の日本語力や知的レベルに関係していると思う。

 

 

 

 


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Unbreakable My Heart

2018-11-01 | Weblog

宗教学を勉強していたので興味あって、少し前インターネットでアメリカの宗教番組をみていた。その中で一人の女性が証言をしていた。内容はいかに堕落した人間が神によって立ち直ったかというよくあるありきたりの話であったが、そのあと彼女が歌った歌の詩がたいへん印象的であった。彼女は堕落し立ち直った自分の体験をふりかえってこう歌うIm no letting go ..... Lord keep me standing strong. 人間というのは弱いものだ、彼女のこの言葉には弱い自分が何かに語りかけ、そして堅く強い信頼を求めている姿がある。ボクシングには孤独と不安はつきものである。だからこそ、チームメイトやトレーナーの役割は大きいと思う。以前あるボクサーがエディさんがボクサーのことをボーイと呼ぶと言っていた。しかしボーイという呼び方は決して見下した呼び方ではなく、むしろ自分の子どものように接すると言うことでありそこには尊敬と愛情がある。私もアメリカにいたときはジョージからボーイと呼ばれていたことを思い出す。苦しいとき、孤独なとき OK boy! come on boy!と私を励ましたくれたのも彼らのその言葉だ。私は思う、人間はそんなに強くない、だからこそ、その孤独や恐れを隠す必要はない、信頼を求めその孤独や不安を共有しトレーナーと共に戦えばいいのだ。リングに上がるのはひとりだ、でもその気持ちを受け止めてくれて見守ってくれている人間が自分の後ろに存在すると言うことを忘れてはならない。

私の後ろには常にジョージやアレンがいた。そして彼らはその後ろで私を支え一緒に戦ってくれた。異国の地であっても私が心を折られることなく挑戦し続けることができたのはまさに彼らの存在が大きかったからだ。よく精神論と言うのはナンセンスだと言うが、私の精神論は不安や喜びを共に共有する仲間がいて、その共有する仲間が自分を見守って共に戦ってくれることで実力以上の力が発揮されると言うことだ。飼い主のいない犬と飼い主のいる犬では飼い主のいる犬のほうがけんかをしたら勝つと言う話が心理学の実験であったが、信頼できるトレーナーを持つと言うことはまさに私を見守ってくれている誰かがいるということだ。

 

 


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