脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヴィトゲンシュタイン的であること

2018-11-27 | Weblog

体育会の常識がすべて正しいと思っている奴は非常に考え方が狭く面倒くさい、こういう奴が集まるとクラブ自体が独特の雰囲気になってしまう。そういうやつは挨拶が基本だとか小学生に言うようなことをあたかもそれが黄金律のように言うが、こういうことははっきり言ってサルでもできる、こういう単純なことを要求しているだけではコミュニティの質は決してあがらないだろう。
前にも書いたがここで小学生から育ってきた子は、自分よりも年下であってもまずこんにちはと言う、たとえ向こうが何も言わなかってもだが、たぶんそれは彼が小学生の時に同じことを大人からしてもらってきたからだと思う。
運動部の先輩にあいさつしなかったということでなぐられた子供がいる、なぐったことは問題になったが、しかし運動部のあいさつなんてこんなもんだ、結局それが親玉から言われて義務になっているのだろうが、しかしできない人間を裁くことは間違っている。ましてやその人間に暴力をふるうのは見当違いであろう。もし本当にあいさつは大事だ、あいさつは基本だと言うのであればサルでもないのだから、ただ頭ごなしにそういうことを言うのではなくなぜ必要かということを説明して、それを自分たちが根気よく実践すればいいのだ。ここで注意しているのはあいさつとか返事、あと意味のない礼儀ということではない、ここで一番気をつかっているのは言葉である。なぜ気をつかっているかというと、そのコミュニティでつかわれる言葉の幅がそのコミュニティの質を意味するからである。
ヴィトゲンシュタインの思想に言語ゲームという概念がある。これは簡単に言うと人はその言葉によって解釈の違いがある、その解釈はその人が持っているインテリジェンスやリテラシーなどがバックボーンとなっているのだが、平たく言えばその言葉の解釈や含みが違うのだから人によって会話のレベルがあるということである。
よくインテリジェンスの高い人間どうしが話している時に、そうでない人間が自分の経験的なことを話して場をしらけさせることがあるが、まさにこう言ったことは、言葉を同じレベルで共有できないからだ。
自己主張などと言わせてもらえる場で言うやつがいるが、しかしとぼしいリテラシー、狭い世界での自分の体験談など語っても恥をかくだけ、本当に自分の考え方を共有し誰にでも伝えたかったら、もう少しいろいろなことを学んでから言わなくてはならない。
言葉やその言葉の理解がとぼしいとそのコミュニティの質はわるくなる。
こういうことは我々のようなコミュニティを築いていく人間にとっては重要なことだ、言葉の質がわるいひくいと質のわるい人間が集まってくる、そういう人間を集めないためには指導者が言葉を学ぶ必要はある。
同じような奴がかたまって、ボクシングのことを得意げに話す奴が目立つようなコミュニティは未熟であると思う、それよりもむしろこの人たちは話していて少し違うな、自分のこんなレベルでこんな小さい世界で考えていることが恥ずかしいと思わせることも必要なわけで、ここではそういうことにかなり気をつかっているが、これはコミュニティをよくしていくための戦略でもある。

偉そうに言うが、私は言葉を選び、なるべく正しい日本語を使うように努力している。あいまいな言葉は必ず国語辞書で調べるし、日本語の語彙力を増やすようにしているつもりだ、そうすることによってまわりがかわりはじめることは確かなこと、もしコミュニティの質をよくしたかったら、親玉が正しい日本語を話すことだと思う。


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