最近はじめたフランス語勉強の仕方はわかるのだが、時間を管理する意味でも知り合いに少し報酬をあげて教えてもらうことにした。私が語学を勉強するのは頭の中のイマジネーション能力を広げることといろいろな角度で物事を見るためである。
この前雑誌を読んでいたら元スポーツ選手の記事で「監督の厳しい指導をすべてパワハラと言う言葉でかたづけるな」見たいなことが書かれてあった。とどのつまりしごきがあるから潜在的な能力がひきだされる。パワハラに見えることは愛のムチだといったような内容だったと思う。しかし書いている人の年齢からしてパワハラに関してどうこう言うのはナンセンスだ。多少の犠牲を払ってもスポーツが上達したら文句はないだろうと言うような考え方自体が人権無視してるし、問題にしている論点がせますぎる、それはいささか功利主義的でもあると思うが、考え方がせまいと物事を多面的に見れないから自分たちがやってきたことが正しいと錯覚するのだろう。特にその競技を最後まで続けてある程度実績が残せたものはそう思うだろうが、彼ら彼女らの中ではいまだに愛ある体罰は必要で、パワハラはわるいことだと理解していると言うよりむしろ世間がうるさくなってきたぐらいの感覚でしかとらえていないのだろうと思う。
ある世代以上の指導者は私から見たらハラスメントがわるいことだと理解していない人間が多いように思う。暴言をはいたり、無理なトレーニングをさせたり、朝練なんていうのも過度な練習で勉強の機会をうばうから虐待だと理解しているが、人のいる前で「おいそこ」なんて言うのは言語道断、物でもないのだからたいへん失礼、私はもしそういうことを言われたら「Fuck you asshole!」ぐらいは言うと思うし、実際パワハラではないが米国でよそのコーチに言われて「お前よりましじゃ」と言って、どえらい目にあいかけたことがある。
話は日本の死刑制度の話になるが、少し前から死刑廃止をとなえる人たちがでてきた。日本人の多くは死刑制度を肯定するが、確かに政治哲学上で「功利主義」をもとにすれば、重犯罪の1人の命と人権よりも、それを失うことによって得られる社会的利益のほうが大きいと判断することができると考えたらそれは肯定できる。しかし西洋では死刑廃止国が多いのは自然法を根拠とする人権が絶対であるから、そういう犠牲を強いる功利主義を採ることはできないのだが、日本人が死刑に対して肯定的なのは単一民族で全体主義でその点においてはどちらかと言えば功利主義的であるからだ。
西洋では自然法に基づいて人権がもっとも重要視される。英語が話せない、海外留学の経験がとぼしいのはある世代から上の人たちだが、私はパワハラ(英語ではHarassment)なるもの人権の理解にとぼしい、多面的な見方ができないできないからで、文化や言語などをふくめて単一民族から見たから正しさや利益というものしか見えていない、それは若い世代に比べて語学が苦手、海外留学がとぼしいと言うことに関係しているように思える。何度も言うがパワハラはやってはいけないと言う程度で理解するのではなく暴力であり悪いことである。体操のコーチが競技者に暴行を加えて、その説明がきとんと親になぜそうしたか説明しているとかなんとか言っていたが、そういうことがいいわけとして通ること自体おかしな世界、人権を軽んじている世界だからおこりうると思う。