脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

イエスは笑った

2016-12-16 | Weblog

 クリスマスはイエスの生まれた日だが、学生の時「イエスは笑ったか」と言うことを発表したことがある。なぜこういうことが問題になるかというと中世の修道院では笑いというのは低俗ととらえられていて、人間が笑うことは低俗だとみなされていた。
なぜ笑うことは低俗かと言うと、その理由が聖書にイエスが笑ったという記述がないからで、当時笑いというものはあまり肯定的にはとらえられてはいなかったからだ。
ショーンコネリー主演の「バラの名前」という映画がある。
これは修道院で禁書を読んだ修道士が殺されていくわけだが、私はその禁書というのが、イエスが笑ったという記述がある写本で、それを見つけてしまっては修道院の規律だけではなく、彼らの持つドグマさえもくずれかねないので、それを見た人間を殺害したと推測している。この映画は原作そのものが難しいので、そういう推測ができるのは宗教学や哲学を勉強した人でないとわからないと思うが、当時神であるイエスが笑ったか笑わないかということは、非常に大きな問題であったのだ。
で私はどういう結論を出したかというと、笑ったである。確かに原典を見ても笑ったと言う記述はないが、しかし彼の行動からは笑いの雰囲気というものが十分に伝わってくる。
特に彼の演説はユーモアに満ちていて、おそらく当時は彼の話を聞いて笑ったものもたくさんいたであろう、こういうユーモアは仏頂面では語ることはできない、自らも笑うからこそこういうアイロニーは生きてくるのであって、私はその観点から彼は笑ったと結論づけたのである。

笑いは人間を救う、イエスの時代、当時の為政者に押さえつけられ、迫害さえもあった群衆が唯一立ち向かうことができたのは、この笑いを通して語られたアイロニーで、イエスの演説というのはまさにその為政者に対するハチのひとさしで、多くの民衆はこの演説によって救われただろう。しかし笑いといってもDQN軍団のように程度のひくい笑いではなく、知的好奇心を刺激する笑いである。よく大阪の人間は「笑わしたら勝ちだ」みたいなことを言うが、しかしこれは一理ある、しかしそれはめちゃくちゃなことを言って笑わすということではなく、物事の本質をみきわめたアイロニーのようなもので、聞く相手に一本取られたと思わせる笑いのことである。
知性をくすぐる笑いは、人間にとっていい刺激となる、笑いに知性など必要あるのかと思うかもしれないが、しかし知性をともなった笑いは、最大の力になると信じている。

これは我々の間で有名な話、前にも書いたが施設で育った女性には親からつけられた名前がなかったらしい、彼女はそのことにかなりのコンプレックスを持っていて、非常に寂しい思いをしたそうである。
彼女が働いて大学に行った時、ある男性と知り合った、彼はおとなしいが誠実で真面目、彼女は生活の安定を求めていたので、彼のことが気に入り、二人は恋におちた。
そしてある時彼女は、たぶんこの人なら自分の気持ちを理解してくれると思ったのだろうか、思い切って自分のことをうちあけた。
自分が施設で育ってみよりがないこと、そして自分のコンプレックスである親からつけられた名前がわからないということ、不安にかられながらも自分の思いをぶちまけたのだ。
しかし彼はその話を聞いてこう言った「大丈夫、神様にも名前はないんだよ」
十戒の掟に神の名をみだりにとなえるなという掟がある。聖書では神に名前をつけることはタブーとされていたので、GODと呼ばれる神は厳密には名前が無いのだが、彼が神に名前がないと言ったのはまさにそのこと、彼は彼女のその深刻な問題を受け止めジョークで返したのだ、そしてその答えに彼女は笑った、そして笑って自分のいやな過去と決別したのである。
その後二人はゴールインしたとかしないとか、笑いというのは力である、人間にとって笑いというのは不可欠なもので、幸せな生活というのは、どれだけ我々は笑いのある生活ができるかということだ。

 


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