これはひとりごとでももしこのひとりごとが誰かに響いてくれたらいいと思って書く。それとこれはあくまで昔の話し、今の私はそういうはちゃめちゃな人間ではないと言うことを理解して読んでもらいたい。
昨日あしたのジョー話を書いた。けれども私はあしたのジョーは否定的に見てる、がしかし自由人で一匹狼、反社会的なジョーがボクシングと言うキャンバスの中で謳歌できた気持ちはわからんでもない。ボクシングと言うスポーツは平等である。マイノリティであってもpovertyであっても孤独で人と強調できない人間であっても平等に自分のすべてをぶつけていける場所である。私は昨日そこは集団でなくてもいい、誰とつながっていようが関係ないひとりで存在できる場であると言うことを書いたが、私がボクシングに魅了されたのはただそれだけのこと、キャンバスが平等でごちゃごちゃしたしがらみがないひとりで存在できる場所だったからだ。
自慢できることではないが私は協調性のなかった人間である。だから日本のボクシングの試合に出させてもらっていますと言うような雰囲気はまったくあわない。競技者も口では大きなことを言っていても首には大きな首輪がついている。私から見たらそういう風にしか見えないのだが、人をなぐり倒すスポーツに審判の印象など必要なのか?審判に印象をわるくしたらいけないと言うが、そこがまったくわからない。たぶんこういうところが協調性がないあまのじゃくな人間だとうけとられるのだろうが、こういう人間が思いっきり自由に競技できたのが外国のキャンバスである。そこはくだらないしきたりや暗黙のルールがあったりしない、協調性や仲間意識など求められることもないし、マイノリティや社会的にハンデをもったものもたくさん存在する。そういう人間たちが平等にそこでそれぞれの気持ちをぶつけあって勝つものが勝つと言う世界は我々のような人間にとって非常に充実した世界であったと思う。だからこそ引退して今、そういう中で自分の存在感を示し生きてきた人間が現実社会で生きていくことは非常にしんどいことである。ジョーのように真っ白な灰になればいいのだろうが、年をとるとそういう生き方はできない夏の時代から冬の時代に突入するそういう時代の中で寂しさを感じて生きていかなければならない。けれどもその冬の時代には冬の時代にしかないよさがある。そのよさは見方をかえて見なくては見えてこないよさであって、そのよさに気づく時また再び今までとは違った充実感を見出すことができると思う。
あしたのジョーはマンガの世界だ、頭の毛は真っ白になってもジョーのように真っ白な灰にはなれない、現実を受けとめて生きていかなくてはならないのだ。年をとれば肉体はおとろえよわくなる一方だ。その時そのよわさを認めて生きることが人間には求められるのだが、その弱さを認めることでまた違った自分のアドバンテージが見えてくる。