脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Aut viam inveniam aut faciam. 道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう

2016-06-05 | Weblog

これはひとりごとでももしこのひとりごとが誰かに響いてくれたらいいと思って書く。それとこれはあくまで昔の話し、今の私はそういうはちゃめちゃな人間ではないと言うことを理解して読んでもらいたい。

昨日あしたのジョー話を書いた。けれども私はあしたのジョーは否定的に見てる、がしかし自由人で一匹狼、反社会的なジョーがボクシングと言うキャンバスの中で謳歌できた気持ちはわからんでもない。ボクシングと言うスポーツは平等である。マイノリティであってもpovertyであっても孤独で人と強調できない人間であっても平等に自分のすべてをぶつけていける場所である。私は昨日そこは集団でなくてもいい、誰とつながっていようが関係ないひとりで存在できる場であると言うことを書いたが、私がボクシングに魅了されたのはただそれだけのこと、キャンバスが平等でごちゃごちゃしたしがらみがないひとりで存在できる場所だったからだ。

自慢できることではないが私は協調性のなかった人間である。だから日本のボクシングの試合に出させてもらっていますと言うような雰囲気はまったくあわない。競技者も口では大きなことを言っていても首には大きな首輪がついている。私から見たらそういう風にしか見えないのだが、人をなぐり倒すスポーツに審判の印象など必要なのか?審判に印象をわるくしたらいけないと言うが、そこがまったくわからない。たぶんこういうところが協調性がないあまのじゃくな人間だとうけとられるのだろうが、こういう人間が思いっきり自由に競技できたのが外国のキャンバスである。そこはくだらないしきたりや暗黙のルールがあったりしない、協調性や仲間意識など求められることもないし、マイノリティや社会的にハンデをもったものもたくさん存在する。そういう人間たちが平等にそこでそれぞれの気持ちをぶつけあって勝つものが勝つと言う世界は我々のような人間にとって非常に充実した世界であったと思う。だからこそ引退して今、そういう中で自分の存在感を示し生きてきた人間が現実社会で生きていくことは非常にしんどいことである。ジョーのように真っ白な灰になればいいのだろうが、年をとるとそういう生き方はできない夏の時代から冬の時代に突入するそういう時代の中で寂しさを感じて生きていかなければならない。けれどもその冬の時代には冬の時代にしかないよさがある。そのよさは見方をかえて見なくては見えてこないよさであって、そのよさに気づく時また再び今までとは違った充実感を見出すことができると思う。

あしたのジョーはマンガの世界だ、頭の毛は真っ白になってもジョーのように真っ白な灰にはなれない、現実を受けとめて生きていかなくてはならないのだ。年をとれば肉体はおとろえよわくなる一方だ。その時そのよわさを認めて生きることが人間には求められるのだが、その弱さを認めることでまた違った自分のアドバンテージが見えてくる。


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ひとりでいい場所

2016-06-03 | Weblog

うちの近所にヒスパニック系の人がいる。この前スーパーの前で会った時に紹介したい人がいると言って外国人の人を紹介された。その外国人の人に「I can speak english」と言ったら英語で話してきたので英語で話していたのだが、しかしそのヒスパニック系の人が英語がわからない。我々の会話がよくわからないので日本語でその外国人に「彼は何を言っているのだ?」と聞いていたが、日本人らしき人間が英語を話してヒスパニック系の人が外国人に説明を求める様子は非常に滑稽であったと思う。

今から書くことはあくまで昔の若い時の私であると言うことを注意して読んでほしいのだが、このブログは脱あしたのジョーである。題名の通り私はあまりあしたのジョーと言うアニメは好きではない。どちらかといえばかなり否定的であるが、昔在日韓国人の女の子にジョーとかぶると言われたことがある。どうかぶるのかと言えばまず自由人であること、そして徹底して協調性がない、絶対に群れないと言うようなところらしい。私は本能的にどうかたまっていいのかわからない、仲良くしましょうなんていう言葉はF○ck youに等しいぐらいに思っていたが、仲間と言う言葉が大嫌いだし、数でいくやり方は本当に卑怯だと思っているが、たぶんそういうところがかぶるのだろう。その時その女の子に「そういうとこかっこいいんとちゃうの」と言われて思わず赤面してしまった。ジョーは徹底して自由人である。社会を敵対し孤独であるそのジョーがボクシングと言うスポーツに魅了され、そして最後はあの名言である真っ白な灰になってキャンバスにちっていくのであるが、ボクシングと言うスポーツは我々自由人にとって非常に魅力のあるスポーツである。キャンバスで動いている時は何もかもをわすれることができたし、何よりもあの場所は平等であったと思う。事実私はアメリカではマイノリティが生き生きと競技しているのを見て救われたことも事実であるが、キャンバスは社会的にハンデをもった人間、孤独で人と強調できない不器用な人間が思いっきり自分を表現できる場だ。社会ではいろいろなハンデがあって平等とは言えない扱いを受けるだろうが、しかしそこでは自分のすべてをぶつけていける。そういう場で自分の存在価値を見出すジョーの気持ちはわからないわけでもない。ハワイのキャンバスは自分のすべてをぶつけていける場であったと思う。マイノリティであろうがpovertyであろうが関係なくそこは平等である。何とか軍団とか権威主義のじいさんがいばっているわけでもなく、べらべらと仲間意識を強調するかのようなおしゃべりなどなかったが、私はそこで生まれてはじめて拘束されない自由と言うものを感じて心から楽しかったことは確かである。徹底して協調性のない人間が外国に行くのだから、当然そこには軋轢がある。当時はこいつだけはと言うのが何人かいて一応顔見知りなので試合で会うとすれ違いざまに顔を合わせて「うんっ」いうようなしぐさを見せるが、しかし内面は絶対こいつだけはぶちのめしてやるなどと思っていたし、向こうも思っていただろう。はたから見たら一体何なんだとさえ思うだろうが、しかし本当にすごくおもしろかったし充実していた。今までの最高の思い出であったと思う。自分は本当に群れるのがいや、数で行く奴は本当に卑怯だと思うし、仲間なんて言う言葉はfuck youだ。でもたぶんいごこちがよかったのはそこがひとりでいい場所だったからだと思う。


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ジーンときた韓国語

2016-06-01 | Weblog

うちのクラブは女性が多い、時にはほぼ女性だけで占められることもあって、その時入ってきた男性はすごくやりにくそうである。うちのクラブではどちらかと言うと女性のほうが真剣にやっている。男はほぼ遊びで途中でしゃべっている光景をよく見る。ちょっとやったら水を飲んで休憩、そしておしゃべりと言う人もめずらしくはない、前に私があまり動かない人間に限って2リットルぐらいの水を持ってくると言うとうなづいていたが、うちはそういうペースでできるクラブだ。しかし女性はストイックに黙々と、女性がサンドバッグをうっている時にすごい執念やなあと茶化したことがあったが、ある意味女の執念は体育会系の言う根性よりもえげつない、たぶん女の執念は男の根性よりも強いと言うことをここのクラブに来たらわかるだろう。

よくある思春期の子供の相談。自分は透明の存在だとか言う。たぶん彼は人の輪にうまく入って行くことができない、友達との関係がうまくいかずに悩んでいるのだろう。私は彼にこうアドバイスした。「人間は絶えず自分が何者かわからないし、自分が自分であると言う自信なんてない。君が今自分は人とうまくやっていけないということで悩んでいるようであるが、人間は不安だから固まる、固まって仲良くすることでお互いが安心しあう。そういう意味では人間はすべて自分が何者かわからない透明な存在なんだよ。多くの人間は透明であるからかたまって安心する。けれどもそれができない人間がいる。たぶん君のような人間はそうだと思うのだが、人間は固まって生きるか相手にその存在を認めさせるかだ。たぶん私のような人間はそう生きてきたかも知れない。けれどもそういう生き方よりももっと大事なのは自分が今生きている証をつくることである。何かを一生懸命やっている間は自分は透明ではない。くやしさをバネにとかマイナスエネルギーをつかって自分を向上させるのではなく、今生きている自分を大切に何かを一生懸命まじめにやればそれ自体が生きている証となる。人間の存在証明なんて履歴書のようなものではない。進行形で何かをし続けるから自分は自分でありうるわけで、そういう生き方ができる人間は自分の生き方に自信が持てる。透明だなんて言っていないで、今自分に何ができるかと言うことを考えて、そしてそれがわからなかったら今ある身近なことから一生懸命取り組んでみろ。そうすれば君はもはや透明ではなくなる。」

韓国語の映画にこういうセリフがある。그래, 굴레를 씌운 건 고약한 세상이지만, 그 걸 벗는 건 김윤식. 미 몫이야(偏見を作ったのは世間だが、克服するかは、キム・ユンシク、君次第だ。)思わずジーンときた。これは身分制度のある朝鮮において、身分の違いにあきらめようとする女性に男性が言った言葉である。自分は透明な存在だと言って感傷に浸るのもいいが、人間はうごかなきゃ何もかえることはできないし、そして自らをかえていくこともできない。自分たちは命が与えられて生きている、その自分が与えられた命の中で生きることがゆるされている。権利としてあるということは素晴らしいことである。世界や世の中は動きづづけている。そういう動き続ける世界の中で化石にならないようにとにかく何かを始めること、それをはじめることで自分は透明ではなくなる。

 

 

 


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