脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Sacriface

2013-11-13 | Weblog
だいぶ前に外国人の教育学部の学生に教育って何ですか?と聞かれた。
たぶん学校の話をしていて私が何を考えているか興味があったんだろう、しばらく考えてからsafrifice(犠牲)だと答えた。
しかしこのsacrifaceは命をささげるというような大げさなものではないが、しかし子供にかかわることで多少の犠牲をはらう覚悟は求められる、私は教師などの教育機関で働く人間に関しては、勝手に教師像をつくりあげてしまって、それを押し付けかねないので、教師は勉強を教えるものと言うことを第一義的に考える必要はあると思うが、しかしそれでも子供と係わる以上は何らかのやや自発的な犠牲と言うものは必要である。

話はうちのクラブの話になるが、うちのクラブでは子供にあいさつを強制したりはしない、またそれができないと人生の基本ができていないというようなことも言わない。
余談かもしれないが私の感想では、そういうことを強調する奴に限って、それしかできない奴が多い、そういう奴を見るたびにあいさつと人間の能力と言うのは別のことだと思ってしまうのだが、体育会のあいさつや礼儀と言うのは単に上下関係を区別させるためのもので、そんな程度の低いことができたからと言って自慢できるものでもない、むしろそういうことが習慣づくと人の顔色を見るような人間になる、あいさつはする必要はないということではないが、しかし何の根拠もないのに、ただ上下関係をはっきりさせるために、挨拶を強制したり、あいさつは基本だなんていうこと自体ばかげていることで、そういうナンセンスなことをきちんと敬語や英語もろくに話せないようなバカな大人が押し付けることに問題がある。

オリーヴでは子供が来た時にその子を1年や半年と言ったスパンでは見ない、子供なんて言うのはもともと自由な存在で、ルソーが言うように高貴な蛮族、従順ではない、むしろその子が5年後10年後この子はどうなるのだろうということを見て、彼彼女にとってどういう接し方がいいかと言うことを考えるのだが、うちのやり方は日光猿軍団に芸を教え込むように、今できないことを、たとえばあいさつは基本だからしろとと言うのではなく、じっくり考えて待つ(このことは学校ではなく、スポーツクラブと言う場であるから可能であると思うのだが)実際に根気よく待てばその子が10年後どうなるだろうというビジョンが見えてくるし、かわってくる、そういう中で大事なことを伝え、環境を整えてやればいいことだと思っている。
人間には個性と言うものがある、人によってその個性の表現の仕方は違うし、成長の仕方も違う、しかし狭い考え方でそれしかできないような人間は理解できない、だからそういう陳腐な基本と言う言葉を持ち出して型にはめてしまうのである。
正直英語も話せない、敬語も正確に話せないような奴があいさつは基本だなどと言うとしらけてくる、あほかとさえ思ってしまう。
大事なことは彼彼女らが今どういう風に成長しようとしているかと言うことを考えなくてはならない、そしてそのことは彼彼女らの10年後を見なければ見えてこないのだ。
たぶん挨拶が基本だと言っているような人間は、私のやりかたを見て、これじゃあいかんと思うだろうし、はきはきしない子供には説教したくなるだろう、しかし私は彼らの今を見ていない、彼、彼女の5年後10年後を見ているのであって、それぐらいにはこの子たちは素晴らしい人間になっていると信じているからである。

はじめに犠牲と言うことを言ったが、我々にとっての一番の犠牲と言うのは健全性だ、たぶん子供と言うのはこのことがしっかりしていないとついてこないと思う。
だいぶ前に私は頼まれてボランティアで施設の子供のカウンセラー的な存在になったことがある、そして実際に彼らのことをよく知るために何回も出向いて行ってそこを見たのだが(たぶん100回以上は行っている)そこで見えてきたのが酒と金と女、男、特にゆがんだ母性愛と言うのは最悪だ、私は男のためにすべてを捨てて生きるというような女は信用できない、なぜなら仲良くやっていた親子のおかあさんに、急に男ができた途端に、男に気に入られるために男と一緒に子供を虐待するということはよくあることで、そういう犠牲者になった子供の話を聞いているからだ。
私はこの時こいつらと向き合うには相当覚悟がいるなと思った、私は酒は一切飲まない、ナンパ的な軽い話はしない、女関係の店には一切いかないと言う誓いをたてて、今でもそれをかたくなに守っているのだが、きれいごとではないが、たぶん傷ついた子供と言うのはこういうところをよく見ている、敏感に感じている、自分はこういう子供たちの前では、何も持っていない、無力で何の説得力もないからこそ、そうしなければと思ったことは確かである。
ただある子供が言ったことだが、彼にとって私は誰よりも怖いらしい、怖いと言っても暴力は振るわないし、恫喝などしない、しかしたぶん私が怖いというのは、私が捨身で、何かを捨てて係わってくるからだろうと思う、エラそうな言い方ではあるが、そういうところに押しかけて100回以上も行けばいろいろなことが見えてくるし、はらをくくらなければだめだと思うこともある、子供の成長は時間がかかるし、ある程度の犠牲が必要だ、子育てを経験したらわかるが、まさに親は子供のために時間とある程度の犠牲を強いられるは、子供と言うのは基本的にはそのことによって成長する、たぶんそういう環境で育てられることが一番人間らしく自由に生きることができるのだと信じている。

補足であるが人間どうしが向き合うということは、きれいごとではないが、時にはぶつかることもある、はっきり言ってきれいごとではない世界では、ぶつかりあって、一回きれたところから本当の関係が気づかれていくと思うが、実際私も何回もぶちきれた。
私はあまり人におこったりぶちきれたりしないのだが、それにはわけがある、それはもしぶちきれたらあいつは気が短い、韓国人だからだと差別的なことを言われるからで、そういわれるのがいやでなるべくおこるようなそぶりを見せないようにしてきたのだが、その私をぶちきれさせるのだから、いろいろと複雑なことがあったということは確かである。
しかしその時彼彼女らは見ている、この人は本当に尊敬できるか?そういう時不誠実なことをしていたら関係は築くことはできない。

指導者も暴言をはいたり、意地悪な奴はそういう顔つきをしているし、特に女関係にだらしないようなバカはAV男優のようなオーラを出している、自分では強さのオーラだと思っていても、それはギラギラしているだけ、非常に下品である。










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I love to tell the story

2013-11-13 | Weblog
NYのマリアノリベラが今季限りで引退することになった、彼はNYのクローザーとして19年間活躍したのだが、リベラと言えばカットボールが有名な選手だ、彼のカットボールは来るとわかっていてもなかなか打つことができず、特にインサイドをつまらされてバットをおるシーンは、最後に出てきて相手を圧倒するようで、見ていてこれが真のゲームセットだと思わされるような魅力があった。
実は私は日本の野球はあまり好きになれない、もちろん応援するチームはいるが、しかし嫌いなのはシステムで、私が気に入らないのは外国人枠と言うやつ、誰が決めたのかはわからないが、こういうシステムは非常に消極的で島国根性まるだし、非常に閉鎖的である。
それに対してアメリカは開放的だ、アメリカには多くの人種がいて、その人種から有名な選手が出たら彼を応援する、その当時はまだ日本人や韓国人にメジャーリーガーがいなかったので、私たちはどちらかというとマリアノリベラのようなマイノリティ寄りの選手を応援して、その選手がマジョリティの選手からホームランをうったり、三振をとったりする姿を見て、力をあたえられたものであるが、世界と言うのは宗教や人種と言うものが絶えず対立している、それはこのスポーツの世界とて同じこと、私はむしろスポーツは宗教や人種の対立を緩和させている働きがあると思っているのだが、それは同時にマイノリティであっても努力と才能があれば成功するんだというあかしでもあると思う。
実際に私自身もパクチャンホや野茂がアメリカで活躍する姿に勇気づけられたし、彼らがアメリカと言う大国で活躍できたことは、多くの韓国人や日本人の励みになり、自分たちはやればできるという自信と希望を持たされたのではないかと思う。
スポーツと言うのは誰でもそれを競技するという権利がある、アマチュアスポーツはこれをしなければ試合には出れないというような風紀的なことを規制する、そういう風紀的な規制はクラブ単位ではOKだと思うのだが、しかしスポーツは平等なのだから、それがどんな人間であってもそれを競技する権利はある、髪の色が違ったり、少々はずれていても彼彼女を拒むことをスポーツとしてしてはならないことだ、スポーツというのは平等でふところが深い、実際に私も向こうでマイノリティが生き生きとボクシングを競技していることに感銘を受けたと言ったが、スポーツは誰のものでもない、競技したいという気持ちがあれば誰でも参加できるものだ。そういう自由がアメリカにはあると思う。
だから本来はたいていのことは受け入れるべきであり、外国人枠と言うのはTPOでもあるまいし言語道断、スポーツと言う世界で外国人は2人までと言う考え方が、日本は島国だということを物語っている。

前にある野球選手が日本人はベースボールではなく野球だと言って本国に帰って行ったことがある、途中で契約を破棄したのは問題であるが、しかしこの言葉は非常に興味深い、正直日本の野球は独特である、あれを他の国の人間が見ておもしろいのかどうかとさえ思うのだが、はっきりと伝えることはできないが島国独特の雰囲気があって、それはまさにその野球選手の言っていたベースボールではなく野球である、現にあれだけアメリカではベースボールがさかんなのに日本の球場にはほとんど外国人の姿が見られないのは不思議ではないか?私から見れば日本人はスポーツをする上でも独特の奮起を作り出している、そういう世界が学校単位でつくられる村社会にも反映している、たぶんどこかで日本人はスポーツを修行と言う感覚から脱却する必要はあると思う。

私は彼の記者会見を聞いていたのだが、彼が引退記者会見の時にI love to tellと言う言葉を持ってはじめたのだが、しかし引退でI love to tellと言うのは不自然である、このI love to tellと彼が言った言葉は、古い讃美歌のI love to tell the storyをそのまま引用したと思うのだが、これはこれから神のストーリーについて語り継ぎたいと言う意味だ、私の推測が正しければおそらく彼は敬虔なキリスト教徒?なので、その古い讃美歌をそのまま引用して自分の野球人生は神に祝福されていたということを言っていたのだろうと思うが、引退の時にこういう引用文を用いるところは粋である。

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