脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

芸と技

2013-11-07 | Weblog
個性と言う言葉がだいぶ前から使われだしてきている、日本人は外国人に比べて個性がないとかよく言われるが、しかし個性って一体何か?と言うことはあまり定義されることなく、この言葉だけが頻繁に都合よくつかわれているような気がしている。
都合よく使うというのは、身勝手な自己主張やただ目立てばいいという考え方、スポーツの世界では往々にしてそういうかたちで使われることが多いような気がしているが、日本はいろいろな民族が共存する米国などと環境がまったく違うのだから、個性と言うのはただ自分の気持ちや主張というものを押し付けるのではなく、まず客観的に見て、人との違いというものを認めることからはじまるのだと思う。
最近運動系の奴で俺のやりかたとか、自分の方法にこだわる奴が増えてきているらしい、頭がよくてしっかりした分析力がある人間ならまだしも、たいした学力もなく、未熟で客観的に物事も判断する能力もない人間が、それが俺の個性だといわんばかりに自分の考え方ややり方を押し通すのだが、これこそ個性と言う言葉を都合よく解釈している。
個性と言うのはもともと存在するものではあるけれども、考えなければ見えてこないものでもある、パスカルが人間は「考える葦である」と言ったのは有名だが、この言葉は人間だけが他の生物に比べて考える能力を持っている、そしてその考える力をつかうことが唯一人間だけにゆるされていることだということだが、その人間に与えられた自分なりの知恵や知性を磨くことが、持って生まれた個性という事柄をこえた、人間本来が持っている特有の個性を出すことであると思う。
スポーツ選手でも賢い選手は個性があるが、逆にお笑いにいじられているようなスポーツ選手は個性がない、バカが個性だと言ってしまえばそれまでだが、しかしお笑いにいじられているような人間を見てああなりたいなどとは思うか?それでもそういうバカを個性にしてしまうのも今の風潮であるが、芸と技の違いは、それが知性によって磨かれているか磨かれていないかだ、スポーツはバカではできないと言うが、しかしそうではない、私から見れば知性が垣間見られない奴のパフォーマンスは芸である、見事ではあるが、それは日光の連中にもできること、そこが芸と技の違いであると思っている。
最近日本でも一部のアスリートの質が上がってきているが、スポーツにおける個性と言うのは知性や知恵と言うものを磨いてプレーするからみがかれるのであって、それがスポーツを通して養うことができるアドヴァンテージだ、そしてそういうことが今の日本のスポーツには必要だと思うのだが、サッカーでは中田や本田がまさにそうだと思う。
しかし日本は指導者のレベルがそう高くはない、バイリンガルどころか日本語すらもまともに話せないような人間が指導をしているのだから、こういう環境で勉強しろ言葉をおぼえろなんていうことを言っても子供がするはずはない。
アメリカには運動クラブを監視するところがあって、もしクラブチームの学業の成績がわるければ、それなりの処罰をする機関であるが、しかしこの期間は日本と違ってきちんと機能しているのだが、少し前には全米のトーナメントで優勝したバスケットチームが学業不振ということで、奨学金をうちきられ、1年間の出場停止をくらったことは有名な話だが、やることもきちんとやらないでスポーツだけをやってればいいという考えのバカには、スポーツをする資格はないという警告である。
最近ましにはなってきているが、しかしそれでもひどいところはひどい、特に私が問題を感じているのは、それしかできないような人間が集まって委員会を結成しているようなところだ。
他では、えばれないから、せめて自分が通用するような場所を求めてかたまる、いごこちがいいのかはわからないが、こういう奴らがかたまると刷新とか改革よりも自分の権威と保身を守ることに躍起になる、こういう連中は語学力ゼロと思っているが、ジムとかでも刑務所仲間をたよって集まってくるように、それしかできないような人間が集まって固まるようなところは、非常に問題で、こういう集団が非常に狭い考え方で凝り固まっている、若いうちにきちんとやるべきことをやってこなかったから、実際に社会に出た時に自分のおとったところが見えてくる、傷つきたくないから、そういうところにどっぷりつかっている人間も少なくはないと思っている。
はっきり言ってボクシングなどのスポーツの実力と、社会などで人と会話する実力はまったく違う、しかしスポーツもやり方によっては、むしろそういうコミュニケーション能力を高く養えると思っている、しかしそれを養おうと思ったら、語学力のように知性を養わなくてはならない。
これからのスポーツはそういう部分をのばしていく必要はある。

これからはスポーツ指導者にも試験を受けさせた方がいい、簡単な英語、日本語のテスト、そして常識を問うためにちょっとした倫理学、人権とは何かと言う論文を書かせてみてもいい、そうすれば少しはよくなるのではないかと思っている。

スポーツしかできないような奴は議論ができない、自分のいいたいことしか言わないので泥試合になるだけだ、言っても理解できないことが多い、こういう体質もスポーツを刷新できない一つの原因だろう。
昔電話で子供のボクシングのことで質問されたことがあった、うちの会員ではないので「責任者は何と言っているのか?」と聞くと「責任者にはそんな難しいことはわからない」と言っていたが、たぶん人の話をきちんと聞いて理解して説得する能力がないのだろう、また最近では見学に来たやつがうちにおかれている英字新聞を見て、驚いてうちのトレーナーは新聞さえも読まないとにやにや笑って言っていたが、社会人が集まるところはこういうところをよく見ていると思う、最近では大学や大学院を出ている親も少なくはないので、人の話を理解して聞いて、説明して納得させる能力は求められるだろう。
だから教える側はある種の社会常識として、そういう能力を養うことも必要なことだ、










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