先日会員の方から日経新聞の記事をいただいた。
その記事の内容はサッカーの三浦和良選手が、震災に合われた人たちに向けてのメッセージであったが、生きるための明るさをという題で次のような文である。
「このたびの大震災の被災者の方々に、心からお見舞いを申し上げます。被害に遭われた方々ににとって、この2週間が、その1分1秒が、どんなものだったかを思うと、本当におかけする言葉も見つからない。生きているとはどういうことなのだろう、サッカーをする意味とは何なのだろう。見つめなおさずにはいられなかった日々の中、思わず頭をよぎったのは「今の俺価値がないよな」。試合がなくなり見に来る観客がいなければ、僕の存在価値もない。プロにとってお客さんがいかに大切か改めて学んでいる。サッカーをやっている場合じゃないよなと思う。震災の悲惨な現実を目の前にすると、サッカーがなくてもいいものに見える。医者に食糧、必要なものから優先順位をつけていけば、スポーツは一番いらなくなりそうだ。でも僕はサッカーが娯楽を越えた存在だと信じる。人間が成長する過程で、勉強と同じぐらい大事なものが学べる、「あったほうがいいものだと」未曾有の悲劇からまだ日は浅く、被災された方々は余裕のある日々を送っていない。水も食べるものもなく、家が流され、大切な人を失った心の痛みはとても癒されはしない。そうした人々にサッカーで力を与えるとは思えない。むしろ逆だ。身を削って必死に生きる方々、命をかけて仕事にあたるみなさんから、僕らが勇気をもらっているのだから。
サッカー人として何ができるだろう。サッカーを通じて人々を集め、協力の輪を広げ、「何か力になりたい」という祈りを支援金の形で届け、1日も早い復興の手伝いをしたい。そこに29日の日本代表との慈善試合の意味があると思う。言える立場ではないけれども、いま大事なのは、これから生きていくことだ。悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えて来たのが僕たち人間の歴史のはずだ。とても明るく生きていける状況じゃない。でも、何か明るい材料がなければ生きて行けない。暗さではなく明るさを。29日、Jリーグ選抜の僕らはみなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う。」
私はこの文を読んで感銘を受けたが、こういう時こそ、その人がどういうコメントをするかによって、本当にその人が常日頃から社会と言うものを意識して生きているかいないかということがわかるのだが、まさにこの三浦選手のメッセージは、単にサッカー選手としてだけではなく、この社会とのかかわりの中でサッカー選手としてどう生きるかと言うことをしっかりととらえたコメントである。
よく勇気を与えるとか力を与えると言うことを言うが、しかしこの世の中に対して無知であるならばその言葉はむなしく、かえって無神経のように聞こえる。
新聞や本を読まないと言うことは社会に関心がないと思うのだが、そういう人間が単純な言葉を並びたてて表現してもかえってむなしいだけであり、私自身クラブの責任者としてむしろそういう人間であってはいけないと考えている。
スポーツと言うのは娯楽で三浦選手のようにその娯楽とは、別に勉強と同じぐらい大切なことが学べると私自身も信じている。
しかしそれは三浦選手のように世の中のことをよく理解しようとし、そのかかわりの中で、自分たちが生きていると言うことを実感してはじめて自分たちがなぜスポーツをやっているのかということを深く理解できるのであろう。
いささか辛辣になるが、私はこういう何かを教える人と言うのは知性を磨かなくてはならないと思う。少なくとも本や新聞を読み学び世の中の情報をもたなくては、人間の育成なんていうことはほど遠いであろう。
まだ多少スポーツの世界は単純である。言葉自体も単純な言葉が飛び交い、時々間違った言葉や表現などが当たり前のように使われていることに気づくのだが、おそらく聞いていて単純で無神経なことしか言えないと言うのは、多少なりともそういう土壌があるからだと思う。
少し前専門学校のパンフレットみたいなものに私の経歴を乗せてもらった時に、嫌いな言葉と言うのがあって、一言「仲間」ということを書いたのだが、前から言っているがこういう公的な求められるフィールドでは、同じ価値観を持った仲間や軍団と言うのは大きな弊害であるが、指導者が無知だとその群れは軍団か仲間なのである。
今もう仲間をつくる時代ではない。私は思うが協力することと仲間や軍団をつくることとは違う。
しかし指導者が何も学ばなかったら、単純な言葉や考え方に広がりが持てないので、いわゆるたんなる情だけで仲良しな人間が集まるので、同じような人間しか集まらない、それが仲間と言われるもので、そこでは腐れ縁はできるが人間的な成長はないのだ。
三浦選手は単独でブラジルに行ってそこで、プロになって成功した。所謂海外組の草分け的存在でもあるが、おそらく外国に一人で行って何かをしようとしたことは彼にとってすべてのことが学びであり、このことが彼の人生観の土台になっていると信じている。
この三浦選手の記事を見て、自分たちはもっとこの世の中のことを感じなくてはならないと思わされるし、もっと知らなくてはならないだろう。
私は思うボクシングクラブは仲間の集まりではないし、また軍団でもない、ひとりひとりが独立した存在であるが、しかし権利を尊重し時には助け合うことができる集団を形成していかなくてはならないと思っている。
その記事の内容はサッカーの三浦和良選手が、震災に合われた人たちに向けてのメッセージであったが、生きるための明るさをという題で次のような文である。
「このたびの大震災の被災者の方々に、心からお見舞いを申し上げます。被害に遭われた方々ににとって、この2週間が、その1分1秒が、どんなものだったかを思うと、本当におかけする言葉も見つからない。生きているとはどういうことなのだろう、サッカーをする意味とは何なのだろう。見つめなおさずにはいられなかった日々の中、思わず頭をよぎったのは「今の俺価値がないよな」。試合がなくなり見に来る観客がいなければ、僕の存在価値もない。プロにとってお客さんがいかに大切か改めて学んでいる。サッカーをやっている場合じゃないよなと思う。震災の悲惨な現実を目の前にすると、サッカーがなくてもいいものに見える。医者に食糧、必要なものから優先順位をつけていけば、スポーツは一番いらなくなりそうだ。でも僕はサッカーが娯楽を越えた存在だと信じる。人間が成長する過程で、勉強と同じぐらい大事なものが学べる、「あったほうがいいものだと」未曾有の悲劇からまだ日は浅く、被災された方々は余裕のある日々を送っていない。水も食べるものもなく、家が流され、大切な人を失った心の痛みはとても癒されはしない。そうした人々にサッカーで力を与えるとは思えない。むしろ逆だ。身を削って必死に生きる方々、命をかけて仕事にあたるみなさんから、僕らが勇気をもらっているのだから。
サッカー人として何ができるだろう。サッカーを通じて人々を集め、協力の輪を広げ、「何か力になりたい」という祈りを支援金の形で届け、1日も早い復興の手伝いをしたい。そこに29日の日本代表との慈善試合の意味があると思う。言える立場ではないけれども、いま大事なのは、これから生きていくことだ。悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えて来たのが僕たち人間の歴史のはずだ。とても明るく生きていける状況じゃない。でも、何か明るい材料がなければ生きて行けない。暗さではなく明るさを。29日、Jリーグ選抜の僕らはみなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う。」
私はこの文を読んで感銘を受けたが、こういう時こそ、その人がどういうコメントをするかによって、本当にその人が常日頃から社会と言うものを意識して生きているかいないかということがわかるのだが、まさにこの三浦選手のメッセージは、単にサッカー選手としてだけではなく、この社会とのかかわりの中でサッカー選手としてどう生きるかと言うことをしっかりととらえたコメントである。
よく勇気を与えるとか力を与えると言うことを言うが、しかしこの世の中に対して無知であるならばその言葉はむなしく、かえって無神経のように聞こえる。
新聞や本を読まないと言うことは社会に関心がないと思うのだが、そういう人間が単純な言葉を並びたてて表現してもかえってむなしいだけであり、私自身クラブの責任者としてむしろそういう人間であってはいけないと考えている。
スポーツと言うのは娯楽で三浦選手のようにその娯楽とは、別に勉強と同じぐらい大切なことが学べると私自身も信じている。
しかしそれは三浦選手のように世の中のことをよく理解しようとし、そのかかわりの中で、自分たちが生きていると言うことを実感してはじめて自分たちがなぜスポーツをやっているのかということを深く理解できるのであろう。
いささか辛辣になるが、私はこういう何かを教える人と言うのは知性を磨かなくてはならないと思う。少なくとも本や新聞を読み学び世の中の情報をもたなくては、人間の育成なんていうことはほど遠いであろう。
まだ多少スポーツの世界は単純である。言葉自体も単純な言葉が飛び交い、時々間違った言葉や表現などが当たり前のように使われていることに気づくのだが、おそらく聞いていて単純で無神経なことしか言えないと言うのは、多少なりともそういう土壌があるからだと思う。
少し前専門学校のパンフレットみたいなものに私の経歴を乗せてもらった時に、嫌いな言葉と言うのがあって、一言「仲間」ということを書いたのだが、前から言っているがこういう公的な求められるフィールドでは、同じ価値観を持った仲間や軍団と言うのは大きな弊害であるが、指導者が無知だとその群れは軍団か仲間なのである。
今もう仲間をつくる時代ではない。私は思うが協力することと仲間や軍団をつくることとは違う。
しかし指導者が何も学ばなかったら、単純な言葉や考え方に広がりが持てないので、いわゆるたんなる情だけで仲良しな人間が集まるので、同じような人間しか集まらない、それが仲間と言われるもので、そこでは腐れ縁はできるが人間的な成長はないのだ。
三浦選手は単独でブラジルに行ってそこで、プロになって成功した。所謂海外組の草分け的存在でもあるが、おそらく外国に一人で行って何かをしようとしたことは彼にとってすべてのことが学びであり、このことが彼の人生観の土台になっていると信じている。
この三浦選手の記事を見て、自分たちはもっとこの世の中のことを感じなくてはならないと思わされるし、もっと知らなくてはならないだろう。
私は思うボクシングクラブは仲間の集まりではないし、また軍団でもない、ひとりひとりが独立した存在であるが、しかし権利を尊重し時には助け合うことができる集団を形成していかなくてはならないと思っている。