ここ何年かパワハラ被害の件数が増えて来ているらしい。おそらくこういう問題は世の中がこういうことに敏感になってきたというせいもあるのだろうが、少なくともこういう現象が起こると言うことは、ストレスが多い時代になってきたと言えるのではないだろうか。
しかしこのパワハラ(正確に言えばパワーハラスメント)であるが、おそらく英語にはない言葉である。
誰が提唱したのかはわからないが、おそらくモラルハラスメントやセクシャルハラスメントに便乗してできたことばであろう。
外国では個人の権利と言うものがしっかりと確立しているので、こういう言葉はないと思われるが、これらは職場で密な人間関係を求められる日本特有のものであると言える。
時々大阪で友人たちと会うのだが、彼ら彼女らは会社では、そこそこの地位にある。
中には中小企業だがある会社を経営してかなり成功しているらしいのだが、少し嫌味な言い方だが、みんなそれなりの成功者、今の言葉で言えば「勝ち組」である。
しかしある女性が言うには、私が一番見た目が若く、幸せそうであると言う。
だいたい集まって話すとみんな私の話を聞きたがるのだが、私が英会話の様子やジムの様子など(特にボクシングのねたはうけるのだが)本当に楽しく話すので、そういう環境で仕事ができる自分をうらやましいとさえ言っていた。
少し大風呂敷を広げたような話しになるが、ヘレンケラーがこういうことを言っていた。
「Believe, when you are most unhappy, that there is something for you to do in the world. So long as you can sweeten anothers pain, life is not in vain.」日本語に訳すと「あなたがもっとも不幸な時に、あなたに何かできることがこの世界にあると言うことを信じてほしい。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではない」
ヘレンケラーはもう有名なので、何も説明する必要はないと思うが、これは彼女が生涯を通して語られた言葉であるが、私の言いたいことは、人生には自分が何か人のためにしたいと思う気持ちが必要で、そのことが仕事の価値をかえるということである。
実際この友人の一人が「もう仕事のために働きたくない、若いうちはただ単に数字の成功を喜べたが、今はそうでもない。40にもなったのだからもう会社のためではなく、自分のために働きたい」と言うことで、仕事をやめてある事業を興したのだが、その事業を起こした時も、私の言葉をヒントに、とにかく何か人のためになるような仕事をしようと言うことで、自分の子供のちょっとした体験から、こういうことをしたら人の役にたつんじゃないかということで教育的な事業をおこしたらしい。
しかしもともと経済学部出身の彼は教育なんていうことなどわからない(専ら教員もそういう概念的なものは理解しているか疑問だが)、一度ホームページをつくった時に、会社の理念を書いてこれでどうだと持ってきたのだが、その時は文があまりに抽象的で稚拙あったので「そういう文を書いてたら、なめられるぞ」ときついアドヴァイスをしたのだが、しかし本当にそういう何か人を励ましたり役に立ちたいという気持ちがあるならば、理念は非常に大事だからで、畑違いだとよりもっと専門的な知識を必要とされるからである。
まあ結局思考錯誤ホームページを立ち上げたのだが、たぶんそういう経験も彼にとっては楽しい経験であり、そのはじめてする自分の仕事に生きがいを感じていたのではないかと思っているのだが、彼がこういう充実感を本当に見出すことができたのは月並みなことかもしれないが、今まで責任をおうだけの、余裕がなかった生活から解放され、他者のうちにも喜びを見出す余裕ができたからだと思っている。
私自身もこのボクシングクラブを経営した理由は、そういうストレスや重圧から社会人を解放し、励ましたかったからである。
ここではなるべく社会人にあわせた雰囲気作りをしている。
もう中高生ではないので、あいさつの義務化などの稚拙なルールなども定めていないのだが、私はなるべく彼ら彼女らには楽しく時間を過ごしてもらいたいからであり、ここで日ごろのストレスを発散してほしいと願う、そのことが私の生き甲斐であり、とにかく何かをしてあげたいという気持ちがあるからだ。
実際ここに来て何カ月かすると顔つきがかわって、多少なりともストレスが発散で来ているということがわかるのだが、そういう姿を見て私自身も励まされる。そういうことを経験できると言うことは尊いことかもしれない。
たぶんこういうことは20代や30代前半の人間から見れば退屈で、いささかきれいごとのように聞こえるかもしれない。
しかし40代だからこそ、見えてくるものもあるのだ。
人のために何かをするというのは言葉にすればきれい事だ、しかしそれを自分の生きがいすれば、かえってくるものも大きいし、何よりも本当に自分が生かされていることに気づくのである。
しかしこのパワハラ(正確に言えばパワーハラスメント)であるが、おそらく英語にはない言葉である。
誰が提唱したのかはわからないが、おそらくモラルハラスメントやセクシャルハラスメントに便乗してできたことばであろう。
外国では個人の権利と言うものがしっかりと確立しているので、こういう言葉はないと思われるが、これらは職場で密な人間関係を求められる日本特有のものであると言える。
時々大阪で友人たちと会うのだが、彼ら彼女らは会社では、そこそこの地位にある。
中には中小企業だがある会社を経営してかなり成功しているらしいのだが、少し嫌味な言い方だが、みんなそれなりの成功者、今の言葉で言えば「勝ち組」である。
しかしある女性が言うには、私が一番見た目が若く、幸せそうであると言う。
だいたい集まって話すとみんな私の話を聞きたがるのだが、私が英会話の様子やジムの様子など(特にボクシングのねたはうけるのだが)本当に楽しく話すので、そういう環境で仕事ができる自分をうらやましいとさえ言っていた。
少し大風呂敷を広げたような話しになるが、ヘレンケラーがこういうことを言っていた。
「Believe, when you are most unhappy, that there is something for you to do in the world. So long as you can sweeten anothers pain, life is not in vain.」日本語に訳すと「あなたがもっとも不幸な時に、あなたに何かできることがこの世界にあると言うことを信じてほしい。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではない」
ヘレンケラーはもう有名なので、何も説明する必要はないと思うが、これは彼女が生涯を通して語られた言葉であるが、私の言いたいことは、人生には自分が何か人のためにしたいと思う気持ちが必要で、そのことが仕事の価値をかえるということである。
実際この友人の一人が「もう仕事のために働きたくない、若いうちはただ単に数字の成功を喜べたが、今はそうでもない。40にもなったのだからもう会社のためではなく、自分のために働きたい」と言うことで、仕事をやめてある事業を興したのだが、その事業を起こした時も、私の言葉をヒントに、とにかく何か人のためになるような仕事をしようと言うことで、自分の子供のちょっとした体験から、こういうことをしたら人の役にたつんじゃないかということで教育的な事業をおこしたらしい。
しかしもともと経済学部出身の彼は教育なんていうことなどわからない(専ら教員もそういう概念的なものは理解しているか疑問だが)、一度ホームページをつくった時に、会社の理念を書いてこれでどうだと持ってきたのだが、その時は文があまりに抽象的で稚拙あったので「そういう文を書いてたら、なめられるぞ」ときついアドヴァイスをしたのだが、しかし本当にそういう何か人を励ましたり役に立ちたいという気持ちがあるならば、理念は非常に大事だからで、畑違いだとよりもっと専門的な知識を必要とされるからである。
まあ結局思考錯誤ホームページを立ち上げたのだが、たぶんそういう経験も彼にとっては楽しい経験であり、そのはじめてする自分の仕事に生きがいを感じていたのではないかと思っているのだが、彼がこういう充実感を本当に見出すことができたのは月並みなことかもしれないが、今まで責任をおうだけの、余裕がなかった生活から解放され、他者のうちにも喜びを見出す余裕ができたからだと思っている。
私自身もこのボクシングクラブを経営した理由は、そういうストレスや重圧から社会人を解放し、励ましたかったからである。
ここではなるべく社会人にあわせた雰囲気作りをしている。
もう中高生ではないので、あいさつの義務化などの稚拙なルールなども定めていないのだが、私はなるべく彼ら彼女らには楽しく時間を過ごしてもらいたいからであり、ここで日ごろのストレスを発散してほしいと願う、そのことが私の生き甲斐であり、とにかく何かをしてあげたいという気持ちがあるからだ。
実際ここに来て何カ月かすると顔つきがかわって、多少なりともストレスが発散で来ているということがわかるのだが、そういう姿を見て私自身も励まされる。そういうことを経験できると言うことは尊いことかもしれない。
たぶんこういうことは20代や30代前半の人間から見れば退屈で、いささかきれいごとのように聞こえるかもしれない。
しかし40代だからこそ、見えてくるものもあるのだ。
人のために何かをするというのは言葉にすればきれい事だ、しかしそれを自分の生きがいすれば、かえってくるものも大きいし、何よりも本当に自分が生かされていることに気づくのである。