脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

むかついた記事

2015-08-05 | Weblog

IS性奴隷の価格表を配布と言う記事があった。奴隷の年齢はひくいほど高いらしい位が、こいつら何を考えているのかこういう非人道的な行為にもはや正当性など見られない。ISISとかイスラム国とか名のっているが、ただの犯罪者組織、マフィアやギャングよりもたちがわるい。もともとイスラム教においては女性の地位がひくい。ひくいというよりも人権を持たない、数を数える時も女性と子供は数に入れられなかったそうで、弱い子供や女性はほとんど物として見られたようである。レビーストローズが提唱した交換のシステムと言うのがある。これは結婚と言う行為が村や家を守るための同盟行為で、そこに出される女性は物と同じ役割をはたすということだが、当時は生活よりも生存に重きが置かれてた時代で争いごとの多かった時代にはどの国も弱いものが犠牲になるそういう時代であったことは否めない事実である。しかし今やUniversal declearation of human rightsと言うものが国連で採択されて基本的には人権が認められる時代である。聖書やコーランなどBCの時代に書かれた書物に法や生活の基準をおく、しかもそれが絶対的であるとされるのにはいささか矛盾がある。人身売買はある意味不貞を禁じているイスラム教における買春行為の強要である。だからイスラム社会では買春することは罪である。しかし結婚してしまえば罪にならないわけで、さらにその社会では男性は一方的に仲介者を立てれば離婚できる、売春、離婚、買春、離婚と言うことが繰り返されて合法的に性奴隷がそこで成立してしまうのである。豚肉や聖書やコーランが禁じて言う食べ物を食べない、1日に3回メッカに向かって祈ることは信教の自由が認められることであろう。しかし2000年前以上の掟に何の文化的あるいは政治的背景も考えないでしがみつくことはこういう不条理を生み出す結果となる。不条理と言うのは実存主義で言うところの人生に何の意味も見いだせない人間存在の絶望的状況である。その人間存在の絶望的状況が宗教の名において行われているのだ。

最後に聖書に私が好きなシーンがある。それは買春の罪でとらえられた女性が民衆の前にさらされ、石をなげられなぶり殺しにされようとする女性をイエスが救うというシーンである。当時は買春は不貞の罪で当時死罪にあたる罪で、それは民衆の前にさらけだされて石をなげられて殺されるというむごい刑であった。その女性も民衆の前に引き出され今まさにその刑が執行されようとしていた。その時イエスはこういったのだ。「君たちの中で罪のないものが石をなげろ」そういわれた民衆はまず老人から石を捨てて去って行って、しまいには誰もいなくなったそうであるがこの物語はある不条理を示唆している。それは関わった相手の男たちはどうなるのだ、その男たちには罪はないのかと言う問いである。当時この時代も女性や子供が物のようにあつかわれている時代であった。イエスと言う人物はその女性や弱いものの立場に立ったと言われているが、まさにこの言葉は物事の根本的な本質があるのにスケープゴートのように裁かれていく女性たちの不条理を問題にしたもので、おそらく彼はその民衆に向かって「本当にわるいのはお前たちだ」と思っていたと思う。

私の定義では無神論者と言うのは信じるものがないから無神論者ではない。なぜ神がいないのかあるいはその宗教的な行いや不条理に目を向けてその矛盾を唱える人間である。宗教にどっぷりつかれば見えないこともある。私が宗教の勉強が必要だというのはそういう根本的なところに目を向けて異を唱える人が出たらいいと思うからである。前にテレビでキリスト教徒の人間がISISの残忍性と矛盾を上げていたのだが、その話が終始自分たちの宗教観に基づくもので、自分たちはいかに正しいかと言うことを主張することであった。こんなところで宗教戦争なんかやるんじゃねえと思ったが、大事なのはお前らのgodsではなく弱い立場の人間の側に立つことである。

 

 

 

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