「日朝首脳会談」
日朝首脳会議が1年半ぶりに行われた、今回遺骨と墓参りについて議題に取り上げられていたのだが、墓参りというのが非常に気になった。前回の日朝首脳会談では議題にあがったのかどうかもわからないが、今回は遺骨と墓参りについて交渉したと政府がそのことを強調しニュースでもとりあげられていたのだ。
たぶんこの言葉を聞いたら、なぜ遺骨や墓参りをニュースで取り上げ、優先的に取り上げるのだ、7時間にわたる交渉だったので、ミサイル問題などほかに重要なことはあるだろうと、おそらく誰もがそう思うだろう。
しかしこれには北朝鮮をゆさぶる政府の意図が見える、日本の外交も北朝鮮というやくざ国家を相手に修羅場をくぐって、ようやく外交らしい外交ができるようになったと評価しているのだが、日本が墓参りを強調したのはそれなりのわけがある。
1年ぐらい前のブログで北朝鮮が日本は約束を守らないと言ったことの対して、北朝鮮にじゃあ拉致被害者に墓参りさせろやと言ってやったらいいということを言ったことがある。
朝鮮文化は儒教だ、朝鮮民族にとって先祖を敬うことは義務である。だから墓参りを要求するというのは非常に相手の痛いところをつく上で効果的である。
チェサという祭があるが、これは昔年7回ももたれていた、先祖を敬う儀式のようなものである、ソウルではこの習慣もすたれてしまい、手間がかかるし、仰々しいので、年2回ほどになってしまったが、しかしそれでも未だに朝鮮民族はこのチェサを行っているのだが、それは彼ら彼女らの文化が先祖を崇拝し、儒教に基づく文化だからだ。
私はこの墓参りと議題にあげたのは非常によい作戦だと思っている、おそらくその背景には朝鮮文化に慣れ親しんだ人間の存在があると思うのだが、この墓参りという言葉を武器にどんどん有利に交渉してほしいと思う。
今日語学を教えている高校生に、1カ国語でしか話せない人間と2カ国語話せる人間では、考える上でかなり差が出てくる、3カ国語ならなおさらのことだと言ったが、本当に他国の文化を知ろうと思ったら、まず言葉をおぼえること、言葉をおぼえて会話したり、本を読んだりしたりすることでいろいろなものが見えてくる。
「ボクシングクラブであってそうではない」
うちのクラブはボクシングクラブらしくないクラブだ、ボクシングの賞状やトロフィー、ボクシングのポスターと言ったたぐいのものは貼らない、飾らない、私はどちらかと言うとスポーツクラブの感覚でいるのだが、非常にシンプルである。
はっきり言ってもうこれぐらいの年になると、そういうことを強調することがアホらしくなってくる、そういうよくわからないボクシングの実績など、会員の人と何が関係あるのかわからないが、他に自慢できることがないのだろう、しかしそれは非常にみっともない話だ。
私がいつもここで考えていることは会員をどう遊ばせるかということ、しかしあくまでボクシングなのでケガをさせないということが前提にある。
遊びというとけしからんというアホがいるが、しかしそういうことをいう奴は、日本語しか話すことができない人間だ、英語で遊ぶと言うのを考えてみたらいい、遊ぶというのはplayであるが、それはサッカーをするとかベースボールをするという時にもつかわれるのだが、この言葉が意味するようにスポーツというのは遊びの感覚がなければならない、スポーツというのは楽しむためにある。
特にここには仕事帰りの社会人がいるので、できるだけけがをさせないで遊ばして、楽しい思いをさせてあげようというのがここの方針である。
日朝首脳会議が1年半ぶりに行われた、今回遺骨と墓参りについて議題に取り上げられていたのだが、墓参りというのが非常に気になった。前回の日朝首脳会談では議題にあがったのかどうかもわからないが、今回は遺骨と墓参りについて交渉したと政府がそのことを強調しニュースでもとりあげられていたのだ。
たぶんこの言葉を聞いたら、なぜ遺骨や墓参りをニュースで取り上げ、優先的に取り上げるのだ、7時間にわたる交渉だったので、ミサイル問題などほかに重要なことはあるだろうと、おそらく誰もがそう思うだろう。
しかしこれには北朝鮮をゆさぶる政府の意図が見える、日本の外交も北朝鮮というやくざ国家を相手に修羅場をくぐって、ようやく外交らしい外交ができるようになったと評価しているのだが、日本が墓参りを強調したのはそれなりのわけがある。
1年ぐらい前のブログで北朝鮮が日本は約束を守らないと言ったことの対して、北朝鮮にじゃあ拉致被害者に墓参りさせろやと言ってやったらいいということを言ったことがある。
朝鮮文化は儒教だ、朝鮮民族にとって先祖を敬うことは義務である。だから墓参りを要求するというのは非常に相手の痛いところをつく上で効果的である。
チェサという祭があるが、これは昔年7回ももたれていた、先祖を敬う儀式のようなものである、ソウルではこの習慣もすたれてしまい、手間がかかるし、仰々しいので、年2回ほどになってしまったが、しかしそれでも未だに朝鮮民族はこのチェサを行っているのだが、それは彼ら彼女らの文化が先祖を崇拝し、儒教に基づく文化だからだ。
私はこの墓参りと議題にあげたのは非常によい作戦だと思っている、おそらくその背景には朝鮮文化に慣れ親しんだ人間の存在があると思うのだが、この墓参りという言葉を武器にどんどん有利に交渉してほしいと思う。
今日語学を教えている高校生に、1カ国語でしか話せない人間と2カ国語話せる人間では、考える上でかなり差が出てくる、3カ国語ならなおさらのことだと言ったが、本当に他国の文化を知ろうと思ったら、まず言葉をおぼえること、言葉をおぼえて会話したり、本を読んだりしたりすることでいろいろなものが見えてくる。
「ボクシングクラブであってそうではない」
うちのクラブはボクシングクラブらしくないクラブだ、ボクシングの賞状やトロフィー、ボクシングのポスターと言ったたぐいのものは貼らない、飾らない、私はどちらかと言うとスポーツクラブの感覚でいるのだが、非常にシンプルである。
はっきり言ってもうこれぐらいの年になると、そういうことを強調することがアホらしくなってくる、そういうよくわからないボクシングの実績など、会員の人と何が関係あるのかわからないが、他に自慢できることがないのだろう、しかしそれは非常にみっともない話だ。
私がいつもここで考えていることは会員をどう遊ばせるかということ、しかしあくまでボクシングなのでケガをさせないということが前提にある。
遊びというとけしからんというアホがいるが、しかしそういうことをいう奴は、日本語しか話すことができない人間だ、英語で遊ぶと言うのを考えてみたらいい、遊ぶというのはplayであるが、それはサッカーをするとかベースボールをするという時にもつかわれるのだが、この言葉が意味するようにスポーツというのは遊びの感覚がなければならない、スポーツというのは楽しむためにある。
特にここには仕事帰りの社会人がいるので、できるだけけがをさせないで遊ばして、楽しい思いをさせてあげようというのがここの方針である。