脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

sacrificeの正しいはらいかた

2018-06-14 | Weblog

最近のおっさんたちのグループが活発になってきた。土曜日に集まるおっさんグループと平日の8時を過ぎたころに集まってくる40を超えたおっさんたちであるが、このおっさんたちがマスや女王様をしているのだが、その様子が非常に楽しそうである。その様子はフェイスブックなどにもあげているらしく、最近では試合にも出たいと言う中年戦士もでてきて、トレーナーがいない時もマスの後お互いが教えあったりして研鑽の時を持っているが、こういったことはトレーナーの指導のおかげこの形をつくってくれたことは非常に評価できることである。私はトレーナーに絶対的な信頼を置いている。なぜならおおげさに聞こえるが彼らは多くの犠牲をはらって指導してくれているからだ。私は人間は多少の犠牲をはらわなければついてこないと思っている。時々人に犠牲をはらえと言っているが、犠牲sacrificeは人をまとめ成長させるだけではなく自分も成長するからだ。特にうちのクラブのようにしっかりした社会人が多いクラブは、口先だけでいいことを言っても見透かされる。会員も本当にこの人は自分たちのために何かをしてくれていると言う気持ちがなければついてこない。ここのトレーナーは実績はそう目立ったものではないが、しかしまわりから非常に感謝されていることがわかる。マイナースポーツのアホみたいな実績をかさに着ていばったり、特別感を出したり、威嚇にも近い雰囲気でまとめるのではなく、自分の存在を出さずに相手をどう楽しませてあげようか、どうしたらうまくなることを考えて相手をのばすと言うことを考えているのだが、そういう気持ちにまわりがついてきているのだと思う。マイナースポーツでのくだらない実績もどきがあるような奴やそれしかできないほかにとりえがないと言うような奴は自分が目立つことしか考えていない。犠牲と言うのは非常に崇高な考え方だ。本当に人間を動かすのはこのsacrifice犠牲であって、この相互関係が相手と自分を大きく成長させるものだと思っているのだが、まさにトレーナーが自分の時間をつくって来てくれて人を楽しませてくれたり、教えてくれたりするのはそういうことで、そういう中で築いていく関係と言うのは安っぽいものでもなく、そこには信頼関係が存在し群れの成長が見られる。ここの会員の人たち特におっさんたちは一生懸命トレーニングしているが、よく言うのがこんだけやってもらっているのでできなくては○○さんにわるいということであるが、まさにひとりびとりがはらったちょっとした犠牲が実になっている。そういう成長があるからこそここが癒しの場となり、成長できる場となりえるのだと思う。まあトレーナーたちは好きでやっている。そうでなければやらないと思うのだが、しかし彼らだけではなく上級者が試合の前だと言うのに女王様の相手をしてくれたり、自分の時間をとめて教えてくれるのもまさにそう、自然ではあるがそういうちょっとしたsacrificeであって、そういうがsacrificeこのクラブを支えていると思う。

 私は宗教学を勉強したので言うがマザーテレサの偉業と言うのはどこから出ているのかと言うと、それは神秘的な力やキリスト教の教えからではない。彼女がそこまでして自分を人々に捧げることができたのはイエスの犠牲、この犠牲によって自分は救われたのだと言う信心からである。私がsacrificeは最も崇高だと言うのはマザーテレサによるものだ。ギリシャ哲学では愛すると言う言葉が3種類ある。ελοs Φιλια αγαpηの3つで最後のαγαpηが一方的に与えると言う意味の愛で最も崇高なものと考えられているが、まさにsacrificeと言うのはそれで、そのことは人間の行動を突き動かすものであり、群れを豊かにするものだと信じている。

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