脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Think outside the box!

2014-01-26 | Weblog
この前特待生の説明会を聞きに行った。
その学校は学校の学力を上げるために進学塾をまわって、特待生を募っていて、是非説明を聞いてほしいということで説明を聞きに行った。
私のパートナーの話では、その特待生クラスのおもな目的は、これからの国際社会は英語が話せて表現力が豊かな人間を育てること、まず日本人の表現力を鍛えるためには、語彙力を増やす、必要な本を読んで物事をはかるものさしを持つと、私とまったく同じようなことを言っていたのだが、どうやらその教育プログラムをつくっているのは、米国で何年も生活してきた一応教育者という肩書きをもつ人らしく、いくつかの私立の学校が、その教育プログラムを受け入れているそうである。

ただうさんくささもある、はっきり言ってこういうことは全校が力を入れて取り組んでいるわけではないので、今のこの指導者一人の考え方が通用するかどうかというのはわからない。
少し昔にスクールカウンセラーというのを学校においたが、これがまったく機能しなかったことは記憶にも新しいことである、現にその数は一時に比べてかなりへったが、同じように最初は斬新な考え方だからいいと言って、それを採用するのは同じようなことになりかねないだろう。

それにこのプログラムを受ける子は進学塾に通う比較的勉強ができる子供たちである。
第一その責任者に英語が話せるのかと聞いたら「話せません」という、説明を受けている親の中には留学経験もある人もいるし、バイリンガルやトライリンガルの親もいる、そういう親は日本の教育システムに関して多少の違和感を持っていると思うのだが、しかし英語が話せない人間が、ただその教育者の話を聞いただけで、理念が素晴らしいからと付和雷同にそれを採用するのは換骨奪胎的で多少の不安もある。
さらに話していて、基本的な教育理念を持っていないと感じたので、多分この方は教育学を専門に学んでこなかった人だと思っていたら、企業から引き抜いてきた人で、戦略としてそのポストにつけたのだと思うが、おそらくその教育者という人の考え方があまりにも斬新な意見で、これはすばらしいと飛びついたのだと思うが、しかしその斬新な考え方も、教育者としての尺度がなければ教育として機能しない、結果的にできる子をかき集めて学校のレベルを上げるというやり方がそれを物語っていると思う。

私がそれははじめて何年なのか?そういう英語の実績はアジアだけで通用するTOEICでははかることはできないとかいろいろ言うので、ほとんど私の方を見ないで説明していたのだが、しかしこの学校で取り組んでいるプログラムというのは、あながちそれが勇み足とも言えない。

言葉を鍛えるというのはコミニケーションをはかるためには一番重要なことだ、そのコミニケーション能力はどこの社会に言っても問われることだが、これからのコミニケーション能力は日本語だけではなく、英語を話すこと、また文化の多様性を認めることが求められるが、まず物事の基本は表現力を養うこと、そのために本を読んで語彙力を増やす、この語彙力がなければ表現力は養えない。
私は子供の表現力を養うためにはまずはじめに語彙力ありきと思っているが、その語彙を増やすためには読書が必須条件であるが、この読書のさせ方にも問題がある。
日本の小説は言葉やその言葉の使い方をおぼえるのにはいいが、しかし論理的な思考を養えるかと言えばかならずしもそうではない、私はもっと哲学的な本を読ませれば、論理的思考が養えると思っているのだが、これからの日本人に必要なのは言葉を想像していく力だ、これができないといくら語彙をおぼえて表現しても力強いメッセージとして伝わらないだろう。
大事なことは自分で考えて自分で表現するいわゆる論理的に物事を考える力である。
しかしそういう力は単なる読書感想文では養われない、それはもっと自分と実存する事柄に関わってこそ養われるもので、その言葉を想像していく力を養うために、哲学を学ぶことは大事なことだと思っている。

おそらく日本人が論理的ではないというのはこの哲学的な思考ができないからだ。
日本人は根本的には物事の原理を合理的に理解しようとはしない、ゆだねるということはあってもなぜそうなるのか、なぜそれがおこるのかということに対しては論理的に考えようとはしないが、たぶんそれは仏教的な考え方が大きく影響していると思う。
仏教で言う悟りというのがあるように、悩みや苦しみというのはそれを理解して解決するよりも、むしろそれを受け入れるという考え方がある。

確か仏典にこういう話があった。ある女性が子供をなくしてブッタのところにいく、そしてこの子を生き返らせて欲しいと切に願うのである。それにたいしてブッダはこういう「あなたが各家をまわって、ひとりでも死人を生き返らせた家があったら、私がそれを可能にしよう」と、女は必死で各家々をまわる、しかしそんな奇跡などおこるわけがない、彼女は何十件、何百件まわったあとで、ようやく人間にはかならず死というものはおとずれるということを理解するのである。
この考え方は仏教哲学的な思想をあらわしていて、仏教では坐禅なんかにもあるように、苦しみや不条理というのは感覚の問題であり、それをひたすら無の境地に入ってそれを受け入れていく、諸行無常という言葉があるように人間の生というのははかないもので、それを知り受け入れることが世の中の原理を知ることだ、しかし西洋人はそれを言葉で考えて合理化しようとする、物事の原理をλoγos(言葉)によって説明するのが、西洋人であって、西洋では神という概念も完全に言葉によって合理化しているのだから、このへんが日本人とまったく違うところである。

今道徳教育がアジアで見直されているが、しかしそういったことよりも世の中の原理を知ろうとする大事なのは哲学的思考で考える、知の力でその知の力を養うためには哲学が必要である。
日本は平和で昔から対立とはさほど無関係だったので、和や協調性、そしてものごとを受け入れることで平和というものを保つことができたが、しかし世界はいにしえの時代から対立がたくさんあったし、相容れないことも数え切れないぐらいある、戦争や宗教的な弾圧というのはまさにそうだが、そういうものと対峙していくために、物事の原理を理解することが大事であり、そのことが激動の中で流されない自分をつくっていくのだと思っている。









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