10年ぐらい前のさかなくんのいじめ体験がインターネットの記事にあがっていた。いじめの世界はさかなと似ているらしく、たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいるようだが、せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始める。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れたら。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始める。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきて、いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれるそうである。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まる。メジナは同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士にもかかわらず。さかなくんは部活内でいじめがあっていじめられていたそうだが、さかなくん曰くいじめは狭い世界だから起こるそうだ。
ジムでは絶対に暴力的なことはおこらないように徹底して管理しているが、それは格闘技という狭い世界は間違った価値観を生み出しやすく、特に暴力に対しては少しずれた感覚があると思っているからだ。いじめに関してよくあるのが、俺はいじめられてたけどやりかえしたという見栄話。たぶん昔は弱かったけど頑張って見返してやろうと思って力をつけたというおちになっているのだろうが、しかしたいていの人間は今やられている人間の立場に立ちたがらない、いじめるほうがわるいとか世間体を気にして言っているがとどのつまりいじめられないように力をつけろ、やられたらやりかえせと言っているのだ。
基本的に人に暴力をふるえない人間が一定数で存在する。そういう子供に無理にやられたらやりかえせとボクシングをさせることはセカンドいじめに等しいであろう。私はここにいじめられているから何とか強くさせたいと親が来ても、まずほかに解決法がないのかということ聞いて、そして必要であれば一緒に考えるし、場合によっては学校にいくこともある。いじめられる子供のたいていはやられても暴力をふるえない優しい子供たちである。そういう子供に格闘技をさせることは罰である。人間はそれぞれ個性がある。だから時には力や腕力の弱さを認めることもひとつの成長、もっと他にできることがあるのだから、弱さを認めて、その力が弱い子供が活きる道を示してあげればいいと思う。そういう意味では話し相手を見つけることは大事なことだ。同じような仕事同じような学校の出身者が集まるような価値観が狭いコミュニティではなく、いろいろな人たちが集まるコミュニティに入って刺激をうけて自分の世界を広げることは大事なことだ。昔俺のことは誰もわかってくれない的なことを言う人間に「お前世界に人口は何人いるのかわかってるの全員と話したのか?と言ったことがあるが、自分の世界から一歩出て外の世界に踏み出したら、必ず自分をかえてくれる人に出会うと信じている。私自身も差別される側の人間であったと思う。今でも差別は存在するし、なくなることはないだろう。でも自分の世界から一歩ずつ踏み出したことでいい意味で見方や考え方がかえられ成長できたと思う。
"(いじめられている君へ)さかなクン「広い海へ出てみよう」" 朝日新聞デジタル 参照