脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

それが君のやり方か

2019-07-03 | Weblog
2年ぐらい前、卒論のことで大学生と話になった。「ところで何書いているんだ?」
「○○○の○○についてです。」「へーっ変わったテーマだな、結構めんどくさいだろ。」「ええっ、でも今のところたいしたものが書けなくてこまっているんですよ。」
参考文献を聞いたらそれがあまりたいした本を上げてはいない、そのテーマだったら日本語の文献などほとんどない。私は君が行き詰まっているのは参考文献の量がとぼしいからだ。英語でもなんでももっと探して読む必要があると指摘すると、英語は苦手ですからと答える。最近の若い人と言っては何だが、少し前から個性と言われているのか、人と違うことをやったり、目立つことが個性だと勘違いしている。卒論にしてもそうだが、スタンダードなものよりもむしろユニークなテーマを選んでいるのだが、しかしその論文を個性的なものにしたかったら、いろいろな知識を得て、比較をして、本当にそれがいいのかわるいのかということを見極める必要がある。比較して作り上げていくからこそ、個性的な作品が生まれるのであって、私はそういう個性を表現するのが自己主張だと思っている。

自分本位と個性とは違う、好きなことを言って人と違うことをやることをするのが個性だと思っている奴がいるが、しかし独りよがりの個性はただの滑稽、個性は磨かれなくては個性にならない。最近は個性個性と言われてきているので、目立つことや滑稽なことをするのが個性だと勘違いしているが、しかしそういう奴らが個性だと言い出すとサルでも人格や個性を持つことになる。髪を染めることやわけのわからない格好をするのが個性かどうかわからないが、しりを見せて地べたにすわって求愛するのが個性なのか、漢字もまともに読めない奴が勝手に読み方をかえて、子供にありえない漫画のような名前を付けることが個性なのか考えてみたらいい、こういう奴らはやたらほえる声がでかいのでうざいが、こういう行為はある意味害である。人間は考える葦だとパスカルは言った。ラテン語で人間のことをホモサピエンスと言うが、これはリンネと言う学者によれば知性を持つものと言う意味だ。すなわち人間だけが他の動物に比べて知性をもつ、そのことが人間がほかの動物に比べてユニークなのだということだが、ある意味この知性を十分に生かすことが個性であるとも言える。

話は英語の論文になるが、英語の論文を書くにあたって意外と重要なのは接続詞だ、接続詞というのは言葉をつなげていく言葉であるが、英語にはtherefore moreover furthermore alternativelyなど、その他にもたくさんの接続詞があるが、これらの接続詞には、強調してつなげる、反対のことをのべる、さらにつけくわえるというように、つかう接続詞によって違うのだが、英語でこれだけいろいろな種類の接続詞があるというのは、やはり論文はいろいろなことを比較して客観的に考察しつつ、ひとつの結論に至っていくということであり、論文などでは引用文も多く使うので、必然的にそういう表現が生まれたのだろうと思う。
物事というのは、比較しなければそれがいいかわるいかということはわからない、比較できる能力もないのにこれが俺のやり方ですからと自分のやり方に固執するのは、ひとりよがりのなにものでもない。本当に主張するための個性を持ちたかったら、言葉を覚えてたくさんのことを知って、経験することだ。パスカルの時代と言うのは人間理解がいささかとぼしい部分もあるが、しかし私が言いたいのはスポーツでも何でもしっかりと思考を働かせろということ、そしてその思考を養うために努力する。アスリートは勉強しろと言うのはまさにこのこと、考える力がとぼしければ成長はない。勝負は勝ち負けだけではないというのは、負けても反省し改善できるから、次の勝負が面白くなってくる、まさに失敗しても改善してさらに進歩していくから競技は面白いのであって、それこそがある意味スポーツにおいて人間に与えられた思考を持つ意味ではないかと思っている。

これは私の意見だが、スポーツは負けたことがないという人間よりも負けや失敗を繰り返す人間のほうが個性的で人間味があると思う。


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