脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

L’homme est un roseau pensant

2016-11-18 | Weblog

パスカルのパンセの中に「L’homme est un roseau pensant」と言う言葉がある。これは哲学の中でも私が最も好きな言葉だ。これは原文からの引用だが、読み方はestとunがリエゾンするのでエ・アンではなくエ・タンとなるのでロム・エ・タン・ロゾ・パンサン。英語のパンセにはMan is no more than a reed, the weakest in nature. But he is a thinking reed.と書かれているが、それを短く伝えてMan is a thinking reed.すなわち人間は考える葦であると言うパスカルの有名な言葉である。どういう意味でパスカルは語ったかと言うと人間は葦のように弱い生き物だ宇宙規模で見たら人間はその自然の驚異に何も対抗できないもろくて弱い存在だ。けれども人間はその弱さをあえて知っている。宇宙は何も知らないが人間はもろくて弱い存在であり、そして自分たちはやがて死ぬということを知っている。ゆえに人間は考えることができる能力がある崇高な生き物だということである。パスカルのパンセはいかににんげんがもろく弱いか、しかし人間はそれでも考えることができる、ゆえに人間は何者よりも崇高であるということを伝えた書物である。ラテン語でも人間は知性を持つものだと言っているが、パンセの理屈から言うとその知性を大事にしなくては人間性を磨くことはできない。ボクシングとか言っても色々な人が集まってくるのだから、責任者にもある程度の教育や教養が求められる。そういう教養や知性を持って群れをまとめていくことが人間的であると言える。それをおろそかにすると群れはズレてくる。特に格闘技と言うのは暴力を扱うのだから何々するなとか何々しろと言ったサルの掟に毛が生えたような体育会のルールのようなものでしばるのではなく、きちんと自分の頭で考えて行動する人間が集まることが群れの質をよくしていくものだと理解している。

TEDと言う有名なプレゼンの番組があるが、その番組で2010年にブルックリンのブラウンズビル地区に学校を創設したナディア・ロペスはこう言っている。「When I opened Mott Bridges Academy in 2010. My gole was simple, Open a school, Close a prison」端的に言えば彼女が学校を設立したのはそこではびこる腐敗や貧困をなくそうとしたからで、それらをなくすためには教育が必要だと思ったからだ。私がいたところにもいくつかジムがあったが、あまりいい地区ではない場所にあるジムにはそれなりにわるい人間がいて、そういう人間が上半身裸でトレーニングしていたのを思い出す。普通女性がいたりしたらとか気をつかえばいいのだが、教育レベルと言うのはこういうところに出てくる、説明したら問題になるのでしないが、彼らの生活をその一面で感じたことは確かである。教育を軽んじると群れの質はわるくなる。群れの質をよくし、一般の人たちが入って来やすい場にするならば教育を重んじなくてはならない、そしてその責任者が知性を重んじ教育を大切にすることで群れの質はよくなる。

 

 


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コミュニタリアンであること。

2016-11-18 | Weblog

メンバー紹介で自分はコミュニタリアンと言うことを書いた。リベラリストが正義と言うのは多様性があるから何が正義かと言うことは議論せずに手続き的な正しさに基づいて正義を決めていく立場で一方共同体を重んじるコミュニタリアンは何が正義かと言うことをみんなで話し合って決める立場である。すなわちそれは個人にとっての正しさよりも世の中の正しさを追求することであり、それがコミュニタリアンの正義である。少し話は違うかもしれないが、いじめを解決するということはもはや個人の問題ではなく、コミュニティーで考えて行かなくてはいけない問題だ。いじめと言うのは自分たちの共同体の中で起こる悪質な事件である。だからそれを黙認したり、何もしないと言うことは同罪であると言ってもいい。共同体にとっての正義がいじめをしないということであるならば、それは見逃されるべき問題ではなくそれを止めなくてはいけないということを伝えていくことは重要なメッセージであり、もはやこういうドラスティックな改革をしていかなくてはこういう問題は根本的に解決されないのではないかと思っている。
揚げ足取りになってしまうかもしれないが、ある評論家がこのいじめが起こる原因のひとつに、教師が生徒と同じ目線にたっていないというようなことをあげていた。
しかし私からすればこういう発言は時代錯誤もはなはだしい。一般的にうけのいい評論家は、どうしたら人に話を聞いてもらえるかと言うことを最優先するので、話が感動的になったりするものだが、こういう場で語られる教師が生徒の目線に立つなんて言う言葉は自己満足、欺瞞を生み出す原因で、人間などそう強くはないのだからひとりの人間にそこまで背負わせるようなやりかたは、まさにスケープゴートを生み出す考え方である。
大事なことはこの問題を共同体でどうとらえ考えていくかと言うことで、こういう問題はその講演を聞いて、いい話が聞けたと言うようなことが問題ではない、いじめというのは共同体で起こる犯罪であるから、その犯罪に対して語られるメッセージは、ひとりびとりがそれに対する責任を負うための警告でなければならないと思う。

オーストラリアであったと思うが、このいじめの問題をうまく解決しているらしい。
本で読んだのか、テレビで見たのかはおぼえていないが、オーストラリアの学校はいじめに対して、それをまわりが無関心ではいけない、行動を起こす義務があると言うようなことを伝えることでいじめを解決しているらしいが、彼ら彼女らはいじめと言う問題をいじめる側といじめられる側と言う構図でとらえるのではなく、そのまわりにいるあなたたちにも責任はあるのだというメッセージを送ることで解決しようとしたのである。
しかしこの解決法は我々とは持っているバックボーンが違うから可能であると言える。
彼らのバックボーンはキリスト教だ。彼ら彼女らもいユダヤ教やイスラム教と同じく旧約聖書の戒め十戒を守っているが、十戒において偽証と言うのはただ虚偽の証言をすることではなく、積極的に知っていることは話さなくてはならないという義務があり、共同体においては知っていることを話すという義務がある。それゆえに彼ら彼女らはアンガージュマン的なかかわりができるのである。

しかし日本人は感情的ではあるけれども、良心の痛みを感じることができる民族である。
私はルソーのような性善説には立っていないが、しかし人間には良心はある。
私のような無責任な人間でも、苦しんでいる人間を助けてあげることができなかったということを悔やんでいるということを前回のブログで書いたが、もし人間にこういう痛みを感じる良心と言うものがあれば、十分にその責任を負うことができるであろう。いじめをする奴はごみ同然だ。人を傷つけたり、苦しめたりするのに理由などない。そしてこういうごみを出したのは我々の責任であり、ごみをきちんとかたずけるのが社会のルールである。

最後に補足しておくが、いじめをする奴はごみだという意見は私の私的感情で、こういうことをする奴らがいかに最低かと言うことを表現したまでである。
この感情がまた新たなスケープゴートを生み出さないためには、われわれの共同体をかたちづくる何かが必要で、私は彼ら彼女らのような主教的バックボーンを持たない日本人が今、その宗教に代わって持つ、バックボーンとして、コミュニタリアリズムを学ぶことはいいことだと思う。



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