サルトルの代表作で「存在と無」というのがある。
簡単に言えば、存在というのは「ある」ということで無と言うのは「ない」ということ、そしてこのあるということと、ないということを同時に考えられるのが人間であるとサルトルは言う。
例えば花の存在ということを考えてみれば、花はあるかないかと言うことで終わってしまうが、しかし人間の場合、ある人が臆病だと考えれば、勇気がないと考え、勇敢であろうとする。これが人間のあり方であるとサルトルは言う。
このサルトルの考えは進歩イコール文明社会と結びつき、後に構造主義によって批判の対象となるが、しかし彼の言うことは、人間を進歩させる上では非常に大事なことである。
ボクシングを始めると言うことは、ある意味サルトル的である。
恐らく多くの人は、ボクシングという競技に対して何かを期待して入門したのではないかと思う。
私はよくなぜボクシングかなのかということを考えるが、やはり自分にないものを感じ、そして本当に何かをつかみたいと思ったから、ボクシングをはじめたのではないだろうか。
「存在と無」は「ある」か「ない」かということを知ることが、人間であるということを理解するためだけに書かれたものではない。
おそらく人間が何かに行き当たった時、その存在と無というのを知り、そしてそれを乗り越え何者であろうかとすることが大事であるということを、我々に教えてるのではないだろうか。
ボクシングはシビアなスポーツである。個人競技なのでやったことがすべて自分に返ってくるスポーツであり、時には自分は才能がないんじゃないか、やっても無駄じゃないかと思う事さえある。
しかしそんな時こそ自分の「無」を知り、その無を乗り越え、何者かであろうと努力することが大事なのである。
ボクシングは人間学であると同時に哲学でもある。そのやり方次第で自分を高めて行くことができる、そんなボクシングを目指して欲しい。
余談であるが私のかなり親しい友人はフランス人である。
彼とつきあってわかることは、フランス人というのは、非常に人間の価値を高めようとする民族であるかもしれないということである。
フランス人はプライドが高いと言われるが、たぶんそのプライドの高さというのは、ここから来ているのではないかと思う。
デカプリオの「ビーチ」という映画があった。
これはあるアジアの秘密の島に若い人たちが集まり、そこで共同生活をしていくという物語であるが、ある時一人の男がサメに食われかけて重傷を負ってしまう。
最初はみんなで看病しいたわっていたのだが、秘密の島で人に知れるとまずいので、病院に連れて行くことができず、やがて苦しみもだえる人間を周りは疎んじ、たまりかねてコミュニティーの外へ放り出してしまうのだ。
しかしこの人間が放り出された時「俺はけだものじゃない」と最後まで付き添った人間がいる。それがフランス人の男だったのだ。
この「ビーチ」という映画はつまらないと思った映画である。しかしある意味するどい人間観察によってとらえられた映画でもある。
はっきり言っておくが、私はフランスかぶれでもなければ、フランス語もはなせない、ましてやフランスにも行ったこともない、ただ親しい友人がいるというだけである。
しかし彼らの生き方から、時々そういう哲学が見え隠れする。
簡単に言えば、存在というのは「ある」ということで無と言うのは「ない」ということ、そしてこのあるということと、ないということを同時に考えられるのが人間であるとサルトルは言う。
例えば花の存在ということを考えてみれば、花はあるかないかと言うことで終わってしまうが、しかし人間の場合、ある人が臆病だと考えれば、勇気がないと考え、勇敢であろうとする。これが人間のあり方であるとサルトルは言う。
このサルトルの考えは進歩イコール文明社会と結びつき、後に構造主義によって批判の対象となるが、しかし彼の言うことは、人間を進歩させる上では非常に大事なことである。
ボクシングを始めると言うことは、ある意味サルトル的である。
恐らく多くの人は、ボクシングという競技に対して何かを期待して入門したのではないかと思う。
私はよくなぜボクシングかなのかということを考えるが、やはり自分にないものを感じ、そして本当に何かをつかみたいと思ったから、ボクシングをはじめたのではないだろうか。
「存在と無」は「ある」か「ない」かということを知ることが、人間であるということを理解するためだけに書かれたものではない。
おそらく人間が何かに行き当たった時、その存在と無というのを知り、そしてそれを乗り越え何者であろうかとすることが大事であるということを、我々に教えてるのではないだろうか。
ボクシングはシビアなスポーツである。個人競技なのでやったことがすべて自分に返ってくるスポーツであり、時には自分は才能がないんじゃないか、やっても無駄じゃないかと思う事さえある。
しかしそんな時こそ自分の「無」を知り、その無を乗り越え、何者かであろうと努力することが大事なのである。
ボクシングは人間学であると同時に哲学でもある。そのやり方次第で自分を高めて行くことができる、そんなボクシングを目指して欲しい。
余談であるが私のかなり親しい友人はフランス人である。
彼とつきあってわかることは、フランス人というのは、非常に人間の価値を高めようとする民族であるかもしれないということである。
フランス人はプライドが高いと言われるが、たぶんそのプライドの高さというのは、ここから来ているのではないかと思う。
デカプリオの「ビーチ」という映画があった。
これはあるアジアの秘密の島に若い人たちが集まり、そこで共同生活をしていくという物語であるが、ある時一人の男がサメに食われかけて重傷を負ってしまう。
最初はみんなで看病しいたわっていたのだが、秘密の島で人に知れるとまずいので、病院に連れて行くことができず、やがて苦しみもだえる人間を周りは疎んじ、たまりかねてコミュニティーの外へ放り出してしまうのだ。
しかしこの人間が放り出された時「俺はけだものじゃない」と最後まで付き添った人間がいる。それがフランス人の男だったのだ。
この「ビーチ」という映画はつまらないと思った映画である。しかしある意味するどい人間観察によってとらえられた映画でもある。
はっきり言っておくが、私はフランスかぶれでもなければ、フランス語もはなせない、ましてやフランスにも行ったこともない、ただ親しい友人がいるというだけである。
しかし彼らの生き方から、時々そういう哲学が見え隠れする。