半透明記録

もやもや日記

誤読の克服は可能か

2010年03月23日 | 読書ー雑記




昨日、人生に対してどうにか前向きな考え方を持たなければならぬという必要から、エレンブルグの『13本のパイプ』のなかの一篇「外交官のパイプ」を読み返してみたわけです。

ところが、これが4度目くらいとなるこの短篇を読み始めるやいなや、私はこれまでに大きな読み落としをしていたことに気付かされました。
このお話では、最初外交官の所有物であったパイプの味わいがとても苦いものであるというのが物語の重要な要素のひとつであるのですが、そのパイプの苦さには構造的な理由があり、そのことは冒頭できちんと説明されてあったのです。私は昨日はじめて気がつきました。完全に読み落としていたようです。

なんてこった。いままでいったい何を読んでいたのだろう。この部分は読み落としても本筋とは直接関係がないような気もしますが、最初からこんなに盛大に読み落としているようでは、きっと他の部分でも読み誤っていたりするに違いない…。短篇小説で何行分かの文章を読み落とす。そのことでどのくらいの情報が失われることでしょう。私は文字情報の大切さが分かっていない。
うろたえながら読み進めると、やはり私は他にも曖昧な認識のまま読んでいて、そのくせ盛大に面白がっていたのではないかという疑惑がむくむくと沸いてきてしまいました。

こういうことは他の小説を読む時にも私はよくやらかしていて、ラーゲルクヴィストの『バラバ』などでも、それはもう何度も読み返していたというのに、やっぱり誤解していたところが多々ありました(そしておそらくいまだに思い違いしている箇所多数)。

なんだか、読めば読む程、読み間違いに気がつくような気がします。初めて読んだ時の感動は嘘ではなかったとは思うものの、しかしその時私が読んでいた(つもりの)ものは一体なんだったのかと疑い出すと、なんだかもう私のような薄のろは読書なんかやめてしまえという気にもなってきます。私は本当に読み間違いや読み落としが多いのですよ、もう呆れる程です。

とめどなく暗くなっていきましたが、読み進めるうちに、私がこの「外交官のパイプ」を愛する所以である物語の結末へと近づいてきました。

ペンキ塗りの若者フェーチカは、さまざまな娘たちと何度でも知り合い、夜のくらがりのなかで接吻したけれども、たとえきのう彼と接吻した娘が今日はほかの男と接吻したところで、彼はそれを不満とも思わず、噛み締めるパイプのその味を苦いとも思わないのです。人生のなかで人生そのものよりほかに何物ももたなかったから、心は平静かつ露き出しで、小鳥のように若々しかったのです。


そうだ、そうとも!
読み間違えが何だって言うんだ。昨日まで思っていたのとは別の物語に、また新しく出会えたってことじゃないか! 物語が新しい装いで私の目の前に現れたということを、むしろ喜ぶべきところじゃないか! 私が薄のろだって? そんなこと、今に始まったことじゃないだろうに! なんでも早合点したり、すぐに忘れてしまえるところは、場合によっては良いところでもあるだろうさ! 小鳥のように軽やかに! すべてを忘れながら単純な魂だけを持って軽やかに生きるんだ!!


こんな感じで、私は無事当初の目的を果たし、生きる活力を得られました。ありがとう、エレンブルグ! あなたはやはり素晴らしい! 名作の前では私の誤読なんざ霞んでしまいますね。読者の誤読を受け入れつつ、常にそれ以上のものを与えてくれるのが、すなわち名作であるのかもしれません。深い、深いな。


というわけで、薄のろい私に誤読の克服は無理っぽいですが、だが、気にするな! 物語の方では、そんなこと気にしちゃいないぞ、きっと! という訳の分かるような分からないような結論に達して事なきを得ました。あー、助かった。今日もどうにか生き延びられそうです。






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