半透明記録

もやもや日記

『三つのブルジョワ物語』

2010年09月10日 | 読書日記ーラテンアメリカ

ホセ・ドノーソ 木村榮一訳(集英社文庫)



《内容》
男の人って、〈命令したり〉、〈働いている〉のはおれたち男なんだ、だから女には何の力もないんだと思い込んでいるけど、本当におばかさんだわ。というか、無邪気なのね。…わたしたちを甘く見てはいけないわ。…(「チャタヌーガ・チューチュー」より)。ほかに、ブルジョワ社会を舞台に、人間のうちに潜む狂気と妄想をコメディ・タッチで描く「緑色原子第五番」「夜のガスパール」を含む傑作三部作。


《この一文》
“うわべは、あなただけがわたしのすべてよという態度をとっているが、その実あれは自分のことしか考えていないのだ、いやな女だ、いやな性格の上に臆病ときている、今だってそうだ、自分のいない間に、いくつかのもの、いや、たぶん沢山のものが失くなっているはずだが、それを認めるのがいやなものだから――誰だっていやなことは分かりきっている――、ベッドで狸寝入りをきめこんでいるんだ。”
  ――「緑色原子第五番」より




ホセ・ドノーソの三部作。私は最初の「チャタヌーガ・チューチュー」を3回くらい読みながらその先へ進めないでいましたが、今回ようやく読了。本の裏の内容説明には「コメディ・タッチ」などと書かれてありましたが、なかなか気持ちが暗くなる感じで面白かったです。


「チャタヌーガ・チューチュー」

3つの物語の中では、描写はいくらかグロテスクではありましたが、雰囲気と内容はもっとも明るく軽く楽しい、わりと笑って読めるような作品でした。

医師アンセルモとその妻マグダレーナは、有名モデルのシルビアと建築家ラモンのカップルと知り合う。シルビアは大変に美しい女だが、彼女のつるつるした顔のなかに鼻を見た者はおらず、聞くところによると毎朝恋人のラモンが彼女の顔に目や鼻を美しく描き込んだり、体の部品を組み立てたりしているのだという。アンセルモは彼らの邸宅に招かれて、どういうわけかシルビアと二人だけで一夜を過ごすこととなり……というお話。

物語の最初のほうで説明がある通り、シルビアはまるでマネキンのような女で、顔を自在に描きかえたり、腕や脚を取り外したりできるのです。普通は化粧を拭い取るための「ヴァニシング・クリーム」ですが、この物語におけるそれはすべてを消し去る魔法のクリームで、それによってラモンに両腕を外されどこかに隠されてしまったと言いながら、夜の屋敷をうろついていたシルビアと暗闇のなかで遭遇するアンセルモ。シルビアは顔立ちもまた半分以上がかき消されていて、口に当たる部分がもの言いたげにもごもごと動いている。このあたりはとってもホラーです。

アンセルモは、顔もなく腕もないシルビアに対して言いようのない欲望を感じ、そのまま浮気の肉体関係を結んでしまうのですが、ここからが物語の面白いところでした。
男と女、支配権を握るのは一体誰なのか。最後までぐいぐいと読まされます。




「緑色原子第五番」

私としては、3つのなかでこれがもっとも恐ろしかった。

歯科医ロベルトとマルタは新しくマンションを買ったばかり、子供のいない彼らが情熱を傾けるのは、家を素敵に装飾し、住みやすくすることだった。ロベルトには絵を描く趣味もあり、ある日曜日の朝、「緑色原子第五番」と名付けた自分の作品(これは妻にプレゼントしたもの)を玄関に飾ってみた。そこへマンションの守衛にそっくりな男(おそらく弟だろう)が訪ねてきて、部屋の中を眺めてまわり、帰り際にさっと「緑色原子第五番」を外して持ち帰ってしまった。唖然とするロベルトだったが、その時を境にして、家の中からさまざまなものが消え去っていく……というお話。

人間にははたして物をすっかり所有するなんてことができるのか。物を所有するとはどういうことなのか。と問われているよう。(以下、ネタバレ注意)

ロベルトとマルタは二人の家を飾るさまざまな物に対して愛着と執着を見せるものの、それを目の前で奪われていくときにも、彼らがブルジョワ階級に属しているという自尊心からか、あるいは育ちの良さからくる控えめさのせいなのか、略奪者に対して、それは自分たちの所有物であり持ち出すことを許さない! と告げることがどうしてもできない。家から物が失われていくだけでなく、ロベルトは外出するたびに「もう二度と家へ帰る道を見つけられないのではないか」という妄執に悩まされるようにもなる。そしてふたりは、互いのそういう頼りにならない有様を罵り合うことになるのでした。

「これは私のものだ」と宣言するためには、意外と力が必要になるのではないかと思わされます。ロベルトとマルタはブルジョワなので、お金の力でもってさまざまな物を手に入れてきたわけですが、いざそれを奪われる段になると、自分のものだと思いながらもなぜか指をくわえて見ているだけしかできない。不条理に憤りつつも、(ブルジョワらしく振る舞うべく)どうにか取り澄ましてやりすごそうとするのに、物を奪われれば奪われるほど、彼らの表面を覆っていたものは引き剥がされてゆき、最後はすべて取り払われた剥き出しの本性で掴み合い殴り合い罵り合う。恐ろしい物語でした。

結局、物を所有しようというのは、何らかの力で誰かの持ち物を奪い取ってくることでしかないのでしょうか。お金を介した交換ならば上品で円満な行為に見えるけれども、力の行使には変わりない。そこにお金と同等かそれ以上の別の力が働けば、物の所有権は簡単にどこかへ移ってしまう。という恐怖。
また一方で、そのように物に対して力を注ぎまくっては、物にますます支配されてゆく人間の姿にも恐ろしさを感じます。人は物を所有しているつもりで、物によって支配されているのだった。なんてこった。恐ろしい!


とにかく、最後まで先の読めない暴力的なまでに緊迫感のあるお話でした。疲れるほどに面白かった。




「夜のガスパール」

これは少ししみじみとする物語。とても悲しいお話でしたが、これは私の今年のテーマと深く関わるものでもありました。


シルビアは夫のもとで育てられている16歳になる息子を、恋人のラモンと暮らす家へ呼び、3ヶ月間をともに過ごすことになった。自由気ままに暮らすことを信条とするシルビアは、息子のマウリシオの年頃なら欲しがるだろう物をなんでも買ってやろうと思うが、彼は何もいらないと言う。それどころか、行きたいところもないし、食べたいものも特にないのだと。不安に駆られるシルビアだったが、あるとき開いたドアの向こうから、マウリシオの口笛が響いてくるのを耳にする。その旋律はシルビアの不安をいっそう掻き立てるような音色で……というお話。


青春小説といった風情。ほんものの自由とはどういうものか、ほんとうに束縛されないとはどういうことか。自分を取り巻く世界にまったく居所を見出せない思春期のマウリシオを通して、そういうことが描かれていたかと思われます。(以下ネタバレ注意)

シルビアは有名モデルで(「チャタヌーガ・チューチュー」にも登場している。この3部作には同じ人物が幾度も登場していて、彼らがひとつのブルジョワ社会を形成しています)、彼女はずっと自立した自由な女性としての勝手気ままな暮らしをしてきたので、母親としてどのようにマウシリオに接したらよいのか戸惑います。父親の家で厳しく育てられたのだろうと想像するシルビアは、マウリシオに対して年頃の男の子ならそう望むはずだと彼女が思い込んでいるように「何でも好きにしていいのよ」と言うのですが、実のところ、マウリシオは父親でも母親でも他の誰の言う通りにもなりたくないのでした。

私の能力ではうまく説明できませんが、マウリシオの口笛には不思議な力があって、その力で彼は分身を生み出します。そして少しずつ彼の口笛による複雑な旋律や、ちょっとした仕草の癖などを分身へと伝授していき、マウリシオに生き写しの浮浪者であるその分身と衣服を取り替えることでなりかわるのでした。そうしてマウリシオは、こぎれいな服も、口笛も、顔も、身分も家族も、すべて失って「誰でもない人間」となり、入れ替わりに元浮浪者の少年は、シルビアやその他の大人が望むような普通の「ひとかどの人間に」なろうとするマウリシオとして社会へと溶け込んでゆきます。

円満に解決したようでいて、なんだかとても悲しい。「誰でもない人間」となった少年は、これでようやく好きなところへ好きなように旅立つことができるようになったわけですが、実際のところ、彼が社会を捨てたのか、社会が彼を捨てたのか、すべてを手放さなければ人は自由になれないのか、というところが私には悲しい。また実際のところ、すべてはマウリシオの幻想であり、彼は「誰でもない人間」としての部分を切り離すことで、社会に馴染み得る大人としての人格を獲得したというわけです。これがまた私にはとても悲しい。

マウリシオがひとりで散歩する途中の描写にこんな一文があります。

 “町の人たちは仕事をしているか、下の町に働きに出ていた。母親や
 ラモンと同じようになすべき務めを果たしているのだろうが、その
 せいで自分の顔立ちを、つまり自分自身を失っていた。”


「人は誰しも社会の中では何者かであらねばならない」ということです。役割は果たされなければならないのです。そういった何者かであるために、マウリシオは「自分自身」を「誰でもない人間」として社会の外へ押し出したのです。もう会えない。会ったとしても「誰でもない」その人物に対してはもはや恐怖のような感情しか感じられず、きっと分かり合えない。「誰でもない」その人は、いったいどこへ向かうのか。もう、それを知ることはけっして出来ない――。

ということに、私はどうしようもなく悲しみを感じてしまうのでした。社会とは、いったいなんなのでしょうか。「誰でもない人間」がその中で生きていけるはずがないと、生きていていいはずがないとは私も思うのですが、でも、どうして? 





そんなわけで、かなり読み応えのある一冊でした。ドノーソと言えば『夜のみだらな鳥』も読みたいのですが、全然見当たりません。図書館は遠くてなかなか行けないので、もう少し涼しくなったらまた考えようかと思っています。





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