桜舞い散る道の上で
――「さくら」 森山直太朗
桜が、別れの時期に咲く場所もあるのだろう。私が育ったところでは、桜は出会いのときに咲く花だった。
私が入学することになっていた高校の入学式は、空が晴れて青くとても暖かな日の午後からだった。私はずっと憧れだった制服を着て、母の運転する自動車の助手席に乗り、遠方にあるその学校へ向かっていた。あの日、私は有頂天だった。
高校の敷地の脇に停めた車から降りると、校庭の桜並木がフェンスから道路へ乗り出して、満開の桜は静かにはらはら、はらはらと花びらを散らせていた。入学式当日にしては奇妙に静かだった気がする。今ではすっかり私の思い出になってしまって、そんな風に思い込んでいるだけかもしれないけれど。静かだった。私はうっとりと落ちてくる花びらを眺めた。
桜が降り積もるように散っていたあの暖かい日、私は有頂天で、もうほかに何もいらないとさえ思った。そして、それからの三年間、私は本当にほかには何もいらなかった。どうしたら、このままここでこうしていられるだろうかとそればかり考えていた。どこかに秘密の扉があって、あるいは秘密の言葉があって、それを見つければ時は永遠にこの場所をぐるぐると回り続けるはずのそれを探していた。
あれから随分と時が流れたけれども、今年もまた桜が散りはじめる。散る花びらを見て私は、今でもなお、もうほかに何もいらないからと願ったあの日のことを思い出す。そして今でもなお、どこかに秘密の扉があって、あるいは秘密の言葉があって、それを見つけさえすれば、時はただちにあの場所へと繋がり、永遠にぐるぐると回りはじめるのではないだろうかと思っている。
桜舞い散る道の上で、いつかまたあの日の私に会えるだろうか。
今ふと気が付いたけれども、私は探していたものをすでに見つけているのかもしれない。暖かくよく晴れた日に、桜がはらはらと花びらを散らす。これが探していた秘密の装置なのかもしれない。散る桜の下で、私の時はただちにあの場所へと繋がり、それは幾度も幾度も繰り返し再生されているではないか。
いや、きっとこれではない。これだけでは足りない。これは鍵にはなりそうだけれど、隠された扉そのものがまだ見つからない。もしもそこを通ったら、私は記憶を再生させるのではなく、もう一度あの日々を生き直すことになるだろう。どこで見つかるのだろうか。見つけたら、私はもうほかに何もいらないのに。
そんなことを考えて、悲しくもないのに涙が止まらなくなった。
戻りたい、わけではない。ただ、はらはらと散る花びらが私をここに釘付けし、私はここから出るための扉も言葉も、見つけられないでいる。あの花が舞い散るあいだは、時はすっかりとじてしまって、私はただ静かに花びらが降り積もるのを眺めることしかできない。
ときどきこうやって「センチメンタル症」が突発してしまいます。わはは、お恥ずかしい;
スイッチはどうやら、散る桜、満ち潮、水に映った空などですね。これらを目にすると、普段はなにか別の人間のように思える「過ぎ去ってしまった時間における私」が、「たしかに現在の私につながっている存在」ということを感じられるようです。要するに、幸福なんですね。こんなことを考えられるのは、きっと。
>そんな心の間を行ったり、来たりしながら生きて行く
こういうのって、なんだか幸福ですね!
だって、とっても美しい。